守りたいものたち


「お疲れ様です、真信様」


 廊下で待ち構えていた静音しずねが、地下牢から戻ってきた真信にうやうやしく頭を下げる。真信はその前を通り過ぎながら、後ろに付き従う彼女に振り返らないまま事務的な用件を告げた。


「後でアレに水分をとらせろ。脱水症状で先に死なれたら得られる情報も得られない」


「かしこまりました。今後の扱いはどうしましょう」


捕虜ほりょのことは澄影すみかげに任せてきた。俺はとりあえず身体を流してくるよ。あのアンモニアの香水、やっぱり強烈だな。触れてないのに臭いが移った」


「そうでなくては現実味が出ませんから」


 後ろをついて来る静音の冷静な言葉に、真信は頷いた。


 真信たちが事前にあの男に行った細工は、たったの二つだ。

 発汗を促進する薬を飲ませ、アンモニア臭のする液体を下腹部に振りかけただけ。


 口の渇きや水分不足からくる身体の怠さは、あたかも長時間放置されていたような錯覚を与える。そして失禁したと男自身に勘付かせれば時間経過の証拠となる。


 人間は自分の直感による発見を疑えないものだ。それを逆手に取って相手に誤情報を信じ込ませるのは悪人の常套じょうとう手段しゅだんでもある。

 ついでに今回の件で言えば、羞恥が冷静な判断力を奪うので一石二鳥だ。過度の冷感もパニックを助長させてくれる。


 対組織戦において、どうしても人数で負けている真信たちに、他組織の間者を三日も放置できるほどの余力はない。


 できるだけ素早く情報を引き出し、相手の認識を上回る。そのためには相手の時間感覚を壊してしまうのが一番手っ取り早かった。


『三日も経ったのに助けが来ていない』


 捕まり、仲間の悲惨な姿を見せられた笹原にとってその情報は、どれだけの失望を彼に植え付けただろう。


「それにしても手際がいいですね。尋問の訓練も積んでおられたとは」


「いや、基礎だけだ。あとは偉代いよたちの真似をしただけ」


「彼女は情報戦略部でしたか。情報を引き出すのも仕事でしたね」


「そういうこと。尋問の基本は相手を徹底的に孤立させることだ。……全く、俺の尋問なんて所詮は見よう見まねに過ぎないのに。恐怖は人の口を軽くすると言うが、あれは酷過ぎないか?」


「そういった訓練を受けていないようでした。外部の組織ではそれが普通なのではないかと」


 暗く狭い個室に独りで閉じ込めるのは初歩の初歩。必要なのは痛めつけることではなく、心の余裕を失わせることだ。


「後は軽く追い詰めてやればいい。自責を植え付けてプライドを折れば勝手に疑心暗鬼になってくれる。それに加えて、先に裏切られたという意識は、仲間を裏切る罪悪感を軽くするからな」


 尋問ではただ相手を痛めつけるのは悪手である。あることないこと騒がれてもこちらが迷惑を被るだけ。


 一番は、正確な情報を漏らすことが最善なのだと思い込ませること。それだけが生き残れる方法だと信じさせることだ。


もう一人のほうはいかがしましょうか」


 加えて静音が指示を仰いでくる。もう一人というのは、笹原と共に捕らえた男のことだ。


 まだ男達を捕らえてから三時間しか経っていない。拷問をしなくてはならないほど切羽詰まってはいないのだから、より口の固そうな方は眠るに任せて放置していたのだ。


 もちろん笹原ささはら悠大ゆうだいに見せた写真は合成だ。薄暗いうえに一瞬しか見せなかったから、笹原にはそうは見えなかっただろうが。人間、最も残酷なのはその想像力である。笹原はいったいどんな現実を夢想したのか。


「チップは?」


「埋め込み済みです」


「さすがに手際がいいな。じゃあ、軽く脅してから解放して」


「よろしいのですか」


「むこうから訊きたいことは聞けるだろう。あっちには、根城まで案内してもらうとしよう」


 細かな確認を取りながら脱衣所の前に着く。中の様子から、すでに入浴の準備が整っているのがわかった。


 着替えを受け取り中に入ろうとすると、静音に背中をつつかれる。何事かと振り返ると、静音は優しげな笑みを曖昧に曇らせ、真信を見つめていた。


「なんだ?」

「ここ」


 静音は自分の眉間を指す。


「しわが寄ったままです。そのまま深月さんの所に行く気ですか」


 指摘されて真信はようやく気がついた。一仕事終えたというのに、彼は口調も表情もけわしいままだったのだ。


 思わず眉間を指で押さえると、静音がおかしそうに笑う。真信もつられて顔がほころんだ。


「ありがとう、静音。上がったら僕もそっちに戻るよ」


「ええ、ごゆっくり」


 引き戸を閉めて、真信は脱衣所に一人になる。扉の向こうの気配はしばらく佇んでいたが、それもすぐに居なくなる。


 樺冴の屋敷ここに来てから、静音は以前よりも表情が柔らかくなった。静音だけではない。他の元門下たちも、平賀で失っていた人間らしさが回復してきている。


 それは真信が望んだもの。ずっと求めてきたものだ。


 それなのに――――


「くそっ……」


 真信は壁に背を預け、そのまま崩れるように床へ腰を落とした。膝を抱えて、襲い来る息苦しさをなんとか誤魔化す。


 自分の采配に一つでも間違いがあればこの日常は即刻、砕け散る。その重責を真信は背負い続けなければならない。


「情けないな、僕は」


 小さく零れた呟きは我ながら自嘲じちょうに満ちていて。

 真信はただ自分にのしかかる重圧を取りこぼさないよう、己がここから逃げ出してしまわぬようにつとめることしかできなかった。



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