穿つ牙


 柊の発言に場が凍りつく。


「どういうこと……?」


「結界……俺が、核だ」


 身体を半分起こし真信に訴えかける。


「壊せ……殺せ……ぐぅっ」


 喋るたび牙の隙間からよだれが垂れていた。身の内から込み上げる衝動を堪えるかのように自分の身体に爪を立てる。鋭い爪は自分の皮膚を喰い破り、鮮血が傷口から滴り落ちていた。痛みで意識の余喘よぜんを保っているのは明らかだ。


 鬼化は完全に解けていない。浄眼による正体の看破は一時的な解決にしかならないのだ。放っておけばまた鬼になってしまう。だからこそ柊は鬼の意識と人の理性の間で苦しんでいるのだろう。


 核を壊せば結界は消える。結界が消えれば、柊と住人たちの鬼化も薄まるはずだ。元の人間に戻れるかまでは定かでないが、少なくとも暴れまわることはなくなるはずだ。


 現状を打破するのに結界の破壊は必須。だが結界の核が柊だというのなら、それは彼の命を犠牲にしなくてはいけないということになる。


 真信達が緒呉に来たのは呪術による騒動を解決するためだ。ならば悩む必要はない。柊を殺して結界を解く。それが最善のはずだ。


 だが動けないでいる真信の耳に悲痛な声が飛び込んでくる。


「だめじゃ!」

「やめて!」

「「殺さないで!」」


 双子が今度こそ涙を流して震えていた。深月に手を握られ駆け寄ってくるまではしないが、そうでなければ柊と真信との間に割って入っていただろう。


 こんな兄妹弟きょうだいの姿を見せられては、柊を殺す選択肢など取れるわけもない。


(けど、いったいどうすれば)


 探し求めていた結界の核が目の前にある。だがそれに手を出すことができない。ようやく掴んだと思った勝利への道筋は、深い谷底へと続いていると、そう突きつけられた気分だ。


 この場面を切り抜ける情景が浮かばない。だがどうにかしなくては。現実はいつでも無情に時を浪費して、最善策を思いつくまで待っていてはくれない。


 策を考え出さなくてはと唇を噛む。すると幼さの残る涼やかな声が、苦悩する真信の頭に柔らかく響いた。


「大丈夫だよー。私がなんとかするから」


 小さいのに、没入した脳裏の奥まで届く澄み切った声。思考の暗雲を晴らす清涼の出所を見れば、微笑みを浮かべた深月と視線がぶつかる。


 すぐに分かった。彼女には何か考えがある。深月ならばこの袋小路を抜け出すことができるのだ。


 だがすでに消耗しているはずの彼女にこれ以上頼っていもいいのか。その不安だけが真信を踏みとどまらせる。


「……平気なの?」


 問いは一言。万感の思いを込めた短い問いかけに、返って来るのもまた簡単な答えだけ。


「平気だよ。信じて真信」


「信じてるよ、いつだって」


 平賀真信が樺冴深月を疑うなどありえない。信じろと言われれば、真信はもう口をつぐむしかないのだ。そうして真信が引き下がると、深月は屈んで双子の目を覗き込んだ。


「二人ともお願い。その目を貸してくれないかなー?」


「目ぇ?」

「そしたら、兄さんは死なんでいいのか?」


「うん、ちょっと負荷がかかるかもしれないけど、力を貸してくれる?」


 真剣な表情で協力を頼むと、二人は勢い込んで頷く。


「いくらでも貸すぞ!」

「そうじゃ! 何も返せてないのに死なれたら困るっ、どんどん使ってくれ!」


 快諾を得た深月はほっと息をついた。


「お薬、二つ貰ってて良かった。はい、お水なくてごめんね。飲んで」


 深月がポケットから袋を取り出し、そこに入っていた錠剤を一つずつ双子の手に乗せる。


「「くすりぃ……」」


 姉弟は渡された薬に苦い顔をするが、意を決して口に放り込んだ。嚥下えんげするのに時間がかかったが吐き出さずに呑めたようだ。


 真信はそのカプセルに見覚えがあった。


「深月、それマッドの」


「ここに来るとき貰ってたんだー。これでわんこの侵食は抑えてくれる。負荷はできるだけ私が引き受けるけど、いちおうね。この子たちの身体じゃちょっとの影響でも耐えられないかもだから」


 それは深月のための薬じゃないのか。そう言いかけたが深月はもう止められない。


 少女が狗神を顕現させる。煤のように崩れゆくその鼻先に触れると、狗神が汚水状に溶けた。粘り気のある黒い液体が深月の両手を包む。深月は双子を並んで立たせ、後ろから片方ずつその目を指先で覆った。


 黒泥こくでいが深月の手から広がり完全に二人の目元を覆う。


 左手が少年の左目を。

 右手が少女の右目を。


 深海から空を臨むような深い蒼色の眸子ひとみを狗神が包む。

 それすなわち、人ならざる者どもの正体を暴く視鬼しき者の浄眼を。


 未知の感覚に怯える双子の耳元で、深月が安心させるように囁く。


「さあ、心を開いて私に預けて。少し痛いかもしれないけど我慢してね。使人見鬼之術──我、この者らが見鬼を借り受けん」


「うっあ……」

「あぁ……」


 双子の指先が伸び、口から吃音きつおんが漏れる。狗神の呪詛が浄眼に触れているせいだ。できるだけ二人に負荷が流れ込まないように呪詛を自分のほうへ誘導しながら、深月は静かに言葉を紡いでいく。


菖蒲しょうぶちゃん、ちがやくん。君たちのその浄眼はあらゆるものの正体を看破する。だから見えるはず。お兄さんだけじゃない。彼の中の鬼だけじゃない。お兄さんの中に埋め込まれてる、異質な核が」


 双子の思考を誘導しながら自身もその流れに意識を乗せる。深月の身体からぶわりと脂汗が噴き出した。狗神の調整に加え、浄眼への同調を同時に行っているのだ。普段ならばもう気を失っているほど深月は消耗していた。


 だが、それでも深月は集中を切らさず双子の目を同化する。狗神から流れ込んできた熱が、まだ深月の中に残っていたから。


 多少の無理は押し通せる気がした。


 両目が熱い。世界が二重に見える。自身の視界と双子の浄眼が共鳴するのが分かる。

 深月は意識してぶれる視界を注視し、うずくまるひいらぎを見つめた。粗暴な少年の身体は所々が怪物に変貌している。もちろん浄眼を通しているからそう見えるだけだ。双子には世間がこう見えているのかと、ついそう納得してしまう。


 一度は抑えられた鬼の気配が徐々に力を取り戻し始めているようだ。

 チャンスは今しかない。深月はさらに柊に注視し、ようやくそれを見つけた。


。わんこ、お願い」


 場所は大腸の終わり付近。そこに不自然なよどみがある。そこから伸びるか細い糸が緒呉を覆う結界に繋がっているのが見えた。間違いない、あれが結界を構成する核だ。


 汚泥から狗神の顔が生える。それが一直線に核へと向かう。柊の身体を貫通してよどみを噛み砕いた。


 硬い殻にひび割れが広がるような音と共に核が消える。同時に緒呉を覆っていた圧力が消滅していった。


「っぐぅう!?」


 柊が濁声を上げて跳ねた。牙が血液になって溶ける。爪も同様に通常の長さになり、見た目は元の柊そのものになった。


 深月は狗神を消して繋がりを切る。双子を解放すると滑り込むようにして兄にすがりいた。狗神が貫通した脇腹を見るが傷一つ付いていない。


「ヒイラギぃ!」

「だいじょぶか!?」


 双子が柊をゆさぶる。柊は憔悴しょうすいしきった顔で二人を捉え、手を伸ばした。


「しょうぶ……ちがや……俺、は……」


 妹弟がその手を掴む。その瞬間、柊の身体から力が抜けた。まぶたが下り頬を叩かれても反応がない。完全に意識を失っているようだった。


「死んだ!?」

「失敗なんか!?」


 双子がほとんど悲鳴に近い金切り声を上げる。静音が柊に触れ様子を見た。


「気を失ってるようです。呼吸も心拍も安定しています。今は寝かせてあげましょう」


 淡々と告げると双子は返って安心したようで、肩の力が抜けた。大粒の涙をはらはらと零す。静音がその頭を撫でると、彼女に抱き着いて泣き出した。まだ子供である二人にとっていろいろと限界だったのだろう。


 真信はその光景を横目に、玄関の隅に座り込んだ深月へ近寄った。


 少女は浅く呼吸を繰り返しているが、顔色は良い。表情も涼やかだ。狗神の反動も落ち着いているように見えた。


「お疲れさま」


 言いながら手首に触れる。脈は速いが安定している。狗神の負担が強い時は脈が乱れるから、今は一先ず安心していいようだ。


「ん、成功してよかったよー」


 玉のような汗を流しながら笑う。


「不調は?」


「いつもどーり。……ううん、いつもより楽かも。ねー真信」


「なに?」


「屋敷に帰ったら、相談したいことがあるんだ。わんこのことで」


 晴れやかな顔に真剣の色が差す。真信も顔つきを改めて頷いた。


「分かった」


「真信くん! 外の様子がっ」


 外を見てきたらしい千沙ちさが家に飛び込んでくる。顔つきはすっかり役に戻ってしまっていた。


 焦っている彼女に引っ張られ真信は表に出た。鬼の群れでも襲ってきたかと思えば違う。事態はもっと深刻だ。


 緒呉を囲む山々が、激しい業火に包まれていた。


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