己が色


 やはりというか、その人影を一番最初に見つけたのは真信だった。


「深月!」


 小里家に向かう道の途中で、真信は大切な少女を見つけて駆け寄る。深月は木の幹に寄りかかるようにしてそれを出迎えた。


「真信無事だったんだねー。よかったぁ」


「深月のほうこそ大丈夫? 怪我してるじゃないかっ」


 ほんの数時間しか離れていなかったというのに、なんだかずっと離れていたように思える。加えていつも狗神で自分を守る少女の腕に傷があるのを見つけてしまい、真信は気が気でなかった。


 対する深月はいつもの気怠けだるそうな空気を三倍に濃縮したような覇気のない動作で傷口を眺める。


 深月は袖で腕を隠そうとして、自分が普段と違い和服を着ていないことに気付いたようだった。半袖のシャツでは腕を覆えない。一呼吸置いて素直に白状する。


「大丈夫だよー。これ自分でやったやつだから、心配しないで」


 確かに腕の傷は動物に引っかかれたような四本筋だけだ。血はもう止まっていて、傷も皮が剥がれた程度で浅い。とはいえ彼女が外傷を負うのを始めて見た真信は、予想していなかった言葉に首を傾げた。


「自分で……? 引っ掻いたの?」


「そう。ちょっと自戒、かな? やりすぎたけど。私にこんな握力があったとは自分でも思わなかったよー」


 深月がお道化どけるように笑う。そうしなくてはならなかった理由をはぐらかされている気がして、真信は自分の眉間に力がこもるのを感じた。


「……ほら」


 彼女に背を向けて屈む。深月は意を得たりとその背に身体を預けた。少女の軽い体をしっかりおぶさって立ち上がる。


「ところで真信、あの人は誰?」


「ああ、僕の兄だよ。次兄じけいのほう。平賀ひらが実篤さねあつ


 紹介すると、深月は呆れたようにため息をつく。その吐息が耳元を撫でてくすぐったい。


「そういうのははやく言おうよー……。えーっと、初めまして。飼い犬の樺冴かご深月みつきです。真信にはお世話になってます」


 背負われたまま頭を下げる深月に、実篤さねあつはただ手をひらひらとさせるだけだ。どうやら手も口も出さない、というのは本当らしい。ただ視線だけが『飼い犬ってなんだ説明しろ』と真信に呼びかけている。


「お兄さん、無口なの?」


「気にしなくていいよ」


 自身も気にしないことに決めて、先を行く双子と静音を追いかけた。背中の少女を揺らさないよう静かに駆ける。首に回された細い腕から香る血の匂いが、真信の心にさざ波を立たせた。


「深月」


「んー?」


「深月の質問の答え、やっとわかったよ」


「質問?」


「『家族ってなに?』って。僕はずっと血の繋がりが一番大事だって思ってた。両親が同じ妹が死んで、僕が大事にしたかった本当の家族はもういないって」


「…………だから、分からないって言ったの?」


「ああ、けど、家族と思いたい人をそう思っていいんだって、分かった。だから僕は、僕と共にいてくれる人達を家族だと思いたい。大切にしたいし、幸せになってほしい。それは今、あの屋敷で暮らすみんなのことだ」


 どこか晴れやかな心持ちで言う。ずっと自分を縛ってきた何かから開放された気分だ。


 事実、縛られていたのだろう、あの家族に。だが真信の居場所はもう他にある。


「じゃあ、私のことも家族って思ってくれるの……?」


 背中から聴こえる確かめるような声音に真信は笑いかけた。


「うん、むしろそれ以上だよ。深月は僕にとって、特別だから。僕はキミのたった一人の世話係だからね。絶対守るし、大事にする。だからあまり抱え込まないでよ、深月」


 腕の傷に目を向けながら語る。その腕に力が入って、さっきよりも強く真信にしがみついてきた。我ながら大胆なことを言ってしまった気がして反応を伺うと、とても小さな返答があった。


「…………分かった」


 短い音に拒絶の色はなくて、真信はほっと愁眉しゅうびを開いた。






 分かった気がした。

 それだけ真信の答えは深月の中で腑に落ちた。


 緒呉に来てからずっと考えていた。感情は鏡写しだ。真信が深月をどう思っているのか知れば、自分が真信をどう思っているのか、言葉にできるのだと。


 その通りだった。


 真信が自分を“特別”と思ってくれている。だったら深月が真信へ向ける想いも“特別”なんだろうと、深月はそう感情を定義付ける。


 これが宿題の答え。みんなへ向ける想いと、真信に向ける想いの差を、ようやく言葉にできた。

 そしてこの“特別”は、きっと何よりも温かい。


 真信のつむじに自分の額を押し付ける。


 背負ってもらっていて助かった。

 自然とにやける口元を彼に見られるのは、なんだか恥ずかしかったのだ。


 心が幸福に包まれていたから、視界に一瞬だけひらめいた『自分は妹さんの代わりなのだろうか』という不安は、もう浮かんではこなかった。





 運良く一度も鬼に遭遇することなく小里家に辿り着く。中に入って様子を窺うが、人の気配はない。


「あれ、千沙ちさはまだ来てないね」


「柊さんもまだのようです」


 暗い玄関を入り奥へ進む。自然と足が台所へ向かってしまったのは主夫業の習性か。真信はそこで一息つき、背負った深月を下ろした。タブレットで柊の現在地を確認しようとして双子に奪われてしまう。


「ちょっと、駄目だよ」


「これ、うちの前じゃ!」

「本当じゃ、もう来るぞ!」


 双子が並んで玄関へ向かう。どうやら反応が近いらしい。慌てて後を追おうとすると、玄関の開く音がした。


「ヒイラ──ぎゃっ!」

「おっ、鬼ぃ!?」


 悲鳴を上げる双子を即座に後ろに庇う。

 柊が来たかと思ったが違う。


 そこに立っているのは、一匹の鬼だ。ただ少し違ったのは、その縮れた髪が金色だったこと。これまで見てきた鬼はみな同じ姿になっていたのに、この鬼は彼らよりも人に近い見た目をしている。


「なんだ、他のやつらと違う……?」


 鬼は茫然自失の様子で立ち尽くしている。だがその目はしかと双子を捉えていた。それは他の鬼と同じだ。けれど動く気配がない。


 柊を出迎えたはずが現れたのは鬼だった。まさか柊はこの鬼に喰われてしまったのか。そう最悪の想定をしていると、静音が震え声で伝えて来る。


「真信様、あの鬼が着ているものはまさか」


「あっ、あの服は──」


 腰紐でなんとかぶら下がっている布地に見覚えがあった。

 柊が着ていた、鬼役の衣装だ。


「……菖蒲しょうぶちがや、あの鬼が誰か分かる?」


 嫌な予感に、真信は浄眼じょうがんを頼った。今までこの二人に見抜けなかった鬼の正体はない。だから双子ならばすでに分かっているはずだと。


「わ、わからん……」


「え?」


 意味を掴めず双子の顔に目を向ける。見れば双子もまた困惑していた。


「ヒイラギにも見えるけど……」

「あれは……ただの鬼じゃ」

「鬼だけどヒイラギにも見える」

「なんで?」

「どうして?」


 二人が互いの肩に触れ、怯えるように鬼を見つめる。その目になにが映っているのか真信には分からない。だが双子は確実に、兄と鬼との見分けがつかない己に焦っている。


 姉弟が声をそろえ、悲鳴の代わりに混乱を叫んだ。


「「どうなってるんじゃ!」」


 その叫びが引き金だったのかもしれない。


「ぐっぁああああああああ!!」


「っ!? 鬼がっ」


 鬼が雄たけびを上げる。腕を振り回し玄関の戸を外へ弾き飛ばした。そのまま双子へ襲い掛かろうとして──


「いよっとおお!」


 後方からの飛び蹴りに倒れた。


千沙ちさちゃん到っ着! 遅れてごめーん! これどういう状況?」


千沙ちさ! そのままその鬼を拘束! 静音!」


「はいっ!」


 伏した巨体に飛び掛かり三人がかりで鬼の動きを封じる。関節を極め手足を固定するが、抵抗が激しい。人体ならばぴくりとも動けない体勢なのに拘束から抜け出そうと暴れまくっている。


「ぐっ!」


鬼のひじが真信の脇腹を打つ。骨を伝って衝撃が全身を駆け抜けた。一打を受けたあばら骨は折れたかヒビが入ったか。ともかく無傷では済まない。


(たったこれだけでこんな──!?)


 今まで遭遇したどの鬼よりも力が強い。危うく吹き飛ばされそうになりながら三人は協力して鬼を組み伏した。真信と千沙ちさで片腕ずつ。静音が下半身を抱える。


「があっ、あああっ」


「動くな! いったいなんなんだこの鬼はっ。柊くんなのか? なんで浄眼が利かないっ」


 鋭い爪に切られ真信の額から血が流れだす。三人分の全体重をかけて押さえつけるその鬼を、深月は双子を守れる位置からじっと見つめている。何かに納得したように口を開いた。


「やっぱり、変化が綺麗すぎるねー。他の成り損ないとは違う。人のイメージのかたまりっていうより、伝承にあるような人型の鬼に近い。これがきっと緒呉のだよー。浄眼にすら見通せないほど本質から鬼に変質してるんだと思う。彼が小里おざとだからなのか、それか彼だけよほど強い薬を飲まされてたのかなー」


「そんな……。じゃあ彼は……」


小里おざとひいらぎ!」


 真信が諦観に支配されそうになったその時、ちがやが突然名前を呼んだ。歯を食いしばり、泣きそうな顔で柊を見つめている。手をつないだ菖蒲しょうぶは弟の行動に驚いて目を見開いたが、目じりに溜めた涙を拭って同じように鬼と化した兄へ視線を向ける。


「十八さい!」

「体重は九十六キロじゃ!」

「そんで身長はたぶん百九十四!」


 双子が何を交互に言い合っているのか最初分からなかったが、それはどうやら柊のことらしい。これまでと同じように個人情報を上げていくことで鬼の力を弱めようというのだろう。


 だが鬼はまだ暴れるばかり。双子はそれに動揺しながらも、のべつまくなしにまくし立てる。


「バイト先は町の酒屋『りんだあ』で、十六になってからたまに昼間の仕入れ手伝いよる」

「好きなもんは牛肉。嫌いなもんはセロリ」

「辛いのは食えない。飲み物はいっつも水道水」

「パンツはトランクス」

「靴下とパンツは六年もの」

「髪は自分でてきとうに切りよる」

「一回だけ中学校に行ってみたら校門で知らん先生に、参観日と間違えて来ちゃったお父さん扱いされて、それから顔もださんで卒業した」

「去年の冬に体重でイスの足ぶっこわしたのがショックじゃったみたいで最近はそっと座るんじゃ」

「猫舌」

「犬より猫派」

「味おんち!」

「視力がいい!」

「薬のむのじょうず!」

「背中にうなじがある!」

「へその横にはほくろ!」


「「それから、それから……!」」


 息を切らせて双子が言葉を探す。だがすぐには出てこない。焦りで頭が働かないようだ。


 けれど鬼の力は弱まっていない。微かに肩を震わせるだけだ。


「うぅっ、どうして戻らないんじゃぁ」

「まだ足りんのか……」


 双子はついに半ベソをかき泣きそうになっている。


 やはり浄眼でも弱体化させられない。こうなれば双子には辛いだろうが、逃げるか殺すか、覚悟を決めなくては。


「ふんっ、情けなっ」


 上半身を押さえている千沙ちさが鼻を鳴らす。


千沙ちさ……?」


 真信は、この状況で声を上げた千沙ちさに驚きを隠せない。彼女はなぜか鬼の頭に拳を落す。場の全員が何事かと目をむいた。千沙ちさは集まる視線に構わず柊へ言葉を向ける。


「浄眼は正体を見抜くって聞いた。正体なんて透明なにはないし、きっと鬼になったら全霊で鬼と化すはずだ。それがぼくの仕事だから、透明なぼくは何色でも透かしみせるから。でも君は違うよね。化物なんかに変わりたいわけじゃないでしょ。なりたい自分がいるだろ。そうありたい自分がいるだろ! 妹と弟にこれだけやらせて、鬼に呑まれたまんまとか、格好悪いにもほどがある!」


 千沙ちさが鬼を叱咤しったする。真信はそんな指示を出していない。では役に入ったまま、今の人格が言うだろうことを語っているだけか。だが彼女は自分を『ぼく』と言った。


 それは、真信ですら一度しか聞いたことのない、透明な千沙ちさの一人称。


 いま彼女は任務の人格そのままで喋っているのではない。人格の言葉を借りて、彼女自身が喋っている。それが奇跡のような出来事だと認識できているのは、この場に真信と静音だけだ。


 千沙ちさ不甲斐ふがいない友人相手に激昂げっこうをさらけ出すように続ける。


「自我っていうのは何者になろうと揺るがないから自我なんだ。どうしようもない自分に理想と悪癖を詰め込んで、自我を形作っていくのが成長なんだ。そうやって作った自分が誰かに認められたら、鬼なんかやってられないほど嬉しいはずなんだよ! 自分に誇りが持てるんだ! ぼくは真信様に透明スタンス認められておもっくそ嬉しかったぞ! 君は誰に認められたいのさ!?」


 千沙ちさが絞り出す言葉には、見ている真信が呆気にとられるほど感情が籠っていた。そこにいるのはいつも無表情で何も喋らないあの人形めいた女性ではない。語調も目つきも、呼吸の仕方に至るまで、役から抜けた彼女自身だった。


「君はもう子供じゃない。十分大人だろ。鬼なんかに揺らがされてたまるか。君のなりたい自分はなんだ。君がこれまでの人生で苦労して作った色はなんだ、君の家族に教えてやれよ小里ひいらぎ!!」


 千沙ちさが鬼の髪を掴んで無理矢理に顔を上げさせる。鬼は双子を視界に入れると、体内を何かに食い破られるように悶え苦しみだした。


「があっぁああ!」


 あまりの動きに押さえていた者達が振り落とされる。真信は自由になった鬼に焦りを覚えたが、彼は床をのたうち回るばかりで人へ襲い掛かりはしない。むしろ体を抱えるようにして縮こまっている。まるで、身の内に飼う何かを抑え込むように。


 双子は暴れる巨漢に怯えるどころか、だしぬけに呟いた。


「あっ……見えた……」

「見える…………いさん」


 互いの感情を確かめるように両手を取りあい、視線を交わす。二人に同じものが見えていると瞳の動きだけで確信したのだろう。鬼と化した兄を見据えて相好を崩す。そして共に手を伸ばした。


「「ヒイラギ!!」」


 嗚咽おえつまじりに飛び出したその呼び方に、鬼の身体がひと際大きく跳ねる。それを機に転げまわるのが止まった。鬼の頭髪が金から黒へと変色していく。


 ほんの数秒の出来事だった。


 筋肉の膨張が消え、余分な骨が溶け、瞳に理性の光が灯る。

 浄眼による正体の看破が成され、柊の姿がほぼ人間のものに戻った。その回復の様は住人たちの時よりも度合いが強い。体は震えているが、激痛に襲われているほどではないようだった。


「ヒイラギ……?」

「だいじょうぶか?」


 双子が呼びかける。しかし柊はそれに答えず、静かに唇を噛むばかり。目線すら合わせようとしない。


「柊君……?」


 思わず真信が肩を叩くと、柊がその手を掴んだ。


 真信をめ上げる彼の目には悲痛な覚悟が宿っている。


「お……れを……殺せ」


 枯れた喉からやっと漏れ聴こえたのは、そんな力ない願いだった。



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