現世と異界


「わんこ」


 深月は呼び掛けながら、真信と繋いだ手とは逆の腕をはらった。今まで何もなかったはずの空間に、その闇は現れる。


 大きさは人間大より少し大きいくらいか。真っ黒な煤と影の集合体のような存在で、端からボロ炭のように崩れていくのに、体積を減らす様子がない。

 影の形作る輪郭りんかくは、どこか犬の頭部のように見えた。


 狗神いぬがみ


 樺冴の当主に取り憑く自我なき怪物である。


「わんこ、お願い」


 主人の命をうけて狗神を構成する闇がとろける。液体のように流動性を獲得したそれは四方に破裂して広がり、押し出された空気が深月の細く長いブラウンの髪を揺らす。


 飛び散って地に付着した欠片は、うごめきながら映像の逆再生のように寄り集まってゆく。


 しかし集合するのは宙に残り浮かぶ大きなかたまりにではない。


 破片は深月の指先から順に張りついて、その半身をおおわんとしていた。


「ちょっ、これは──」


「いいからっ。……大丈夫」


 心配の声をあげる真信を言葉だけで制する。少年は口をつくんだものの、少女の身を案ずる視線を投げかけ続けている。

 彼から見て、深月はよほどひどい顔をしているのであろう。額に脂汗がにじんでいることは自覚している。


 しかし今は説明している時間も、その余裕もない。


 汚水かヘドロにも似た狗神の中身。それが深月に触れる度、静電気がまたたくような刺激を彼女の身体に走らせた。


 狗神の内側を満たす呪詛が深月の肉体に損傷を与えているのだ。今のところ微々たる痛みたが、長時間にわたれば肉が腐り始めるだろう。


 速攻で事を成さねばならない。


 数秒で深月の半身を狗神が包んだ。最後にかすみがまとわり付くように彼女の右目を闇が覆う。


 すると一瞬、風景がぶれた。それも右目に映る分のみが。そうして眼球がとらえたのは、この世のものとは何処どこかが異なる異質な世界。


 片方だけ色眼鏡をかけたように、薄暗い景色と元のそれとが深月の両目にそれぞれ映る。

 どちらも風景は変わらないのに、右目側には映るはずの通行人の姿はない。


 いま深月の右目に映っているのは、この世の光景ではない。現世とほんの薄皮一枚を隔てて存在する異空間のようなものだ。


 人はそれを異界、もしくは幽世かくりよと呼んだ。


 深月は狗神に覆われた視界を素早く動かす。誰も存在しない異界の景色に、一つだけ色を持つ人影があった。少し離れた場所に棒立ちになっている小さな男の子。ここがどこなのかも分からぬ様子で、空を見上げている。


「こっちだよっ」


 聞こえるわけがないと知りながらも、深月は呼び掛けながら子どもに手を伸ばす。異界に距離の概念などない。ここからでも届くはずだ。


 なにより異界に踏み込み過ぎると帰ってこれなくなる可能性がある。視認し手を伸ばしただけで、体が吸い寄せられる感覚が絶え間なく深月を襲っているのだ。


 私が独りじゃなくてよかった。繋いだ左手に伝わる温かさに、少女は知らず微笑を浮かべていた。


「──おいで。ゆうや君」


 提げているカバンに書かれた名前を呼ぶ。瞬間、何かが手に触れる感触がして、深月はそれを思い切り引っ張った。


 腕に倒れ込んできた重さに深月はたまらず足をもつれさせた。バランスを崩して地面が近づいてくる。そのまま後頭部を強打するかと覚悟を決めたが、すんでのところで真信が地面と深月の間に滑り込んできて事なきを得た。


「深月大丈夫──えっ、この子さっきの……。これって、いったい」


 深月の腕の中を見て、真信が驚きの声をあげる。


 深月はなにも独りでに転んだわけではない。彼女は右腕にしっかりと、消えたはずの男の子を抱えていた。


 男の子は未だ放心した様子でぼんやり空を見ている。


「わかりやすく言えば、神隠かみかくしだよ」


 真信に手を引かれて立ち上がりながら、深月はそう説明した。


「子供なんかが行方不明になって、安易に見つからない時はそー呼ばれるの。といっても神様が連れ去るってわけでもなくて、ほとんどは天狗や狐、あとは鬼とか隠し婆さんなんかの仕業ともいうねー。ま、その辺りは地方によっても変わってくるかな」


 ほんの一瞬目を離した隙に子どもが消えた。何処どこを探しても見当たらない。それなのに、履き物だけがきちんと揃えて置いてある。


 すべて神隠しの特徴であった。


 深月は男の子の目を覗き込む。まだ心ここにあらずといった様子で茫然ぼうぜんとしている。異界から戻った者は大抵こうなる。後はすぐ眠ってしまうだろう。


 発見が早かったので精神に支障をきたすこともないはずだ。深月は小さな手を引いて、されるがままになっている男の子をベンチに座らせた。


 屈み込んだ真信が子どもに靴を履かせ始める。


「そんなことがこの現代で起きるなんて……」


「うーん。異界──もののけの住処すみかとかあの世とか呼ばれてる場所って、私たちの住む現世とは隣接して存在してるから。今はお互いに干渉することは殆どないけど時々ねー、さかいが曖昧になると落ちちゃうこともあるんだ。腕の良い呪術者なら任意でその辺操れるけど……」


「じゃあ、深月は腕の良い呪術者なんだ?」


 どこか意地悪な笑みを見せる真信に、深月は苦笑を返す。


「ううん。私のは、わんこを使ったごり押しだよー。長くはたもてない。それにどれだけ腕があっても、神隠しを起こすにはいくつか条件があるから。今回のはちょっとした事故……自然現象かな」


 男の子に靴を履かせ終わり、真信が首を傾げる。神隠しといえばわりと有名な部類の話だが真信は知らないようだ。


 人差し指をくるくる回しながら深月は説明を続ける。真信が律儀に指先を目で追いかけるのでなんだか面白い。


「台風の発生原理と同じ。場所が限定されるんだよ。普通は神社の敷地とか山とかー、神域で起きるものなの。この世と異界は隣り合ってるけど、簡単に行き来できるものじゃないから。境が曖昧になる神域を利用しなくちゃならない」


「ここが神社には見えないけど。確か地形も平地のはずだし」


 辺りを見渡した真信がそう疑問を呈する。ちょうど電車が来たのだろう。駅から少なくない人数が吐き出される。


 通行人の邪魔にならないよう一歩ベンチに近寄って、深月は手を下ろして後ろで組んだ。


「この町には狗神わんこがいるから」


 そんな当たり前みたいな言葉に、真信は微かに眉をひそめる。

 今はもう狗神の姿はない。深月が引っ込めてしまったからだ。隠形の術も解除済みだった。


「うちのわんこの呪詛は強すぎるから。存在するだけで、少しずつこの世界を歪めちゃう」


「でも、今まではそんなこと起きなかったじゃないか。僕だってずっと側にいたけど、神隠しなんて経験したことないよ」


 遠くから子どもの名前を呼びながら駆けてくる女性の声が近づいてくる。間違いなく、この男の子の名前だった。

 母親が探しに来たのだ。これで心配の必要もなくなった。


「うん。問題はそこなんだよねー。──真信、一度屋敷に戻ろ。調べなきゃいけないことができた。あ、あとごめん。おぶってー」


 狗神をまとわせていた右半身が痺れてきた。深月が甘える幼子のように両手を伸ばすと、真信はいつも通り、不平の一つも言わずに彼女を背におぶさるのだった。


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