揃えられた靴


「ねー真信。平賀にいるのって、みんな偉代いよさんみたいに面白い人なの?」


 腕をとられ、隣からそう問いかけられて真信は我にかえった。

 視線を向けると、寄りかかって真信を見上げる深月の眠たそうな瞳があった。


 不思議と自分の中のもやもやが少し薄まるのを感じる。


「いや、門下は基本的にみんな没個性的だよ。偉代みたいのは珍しいタイプだと思う」


 無意識にほっと息をつきながら真信は平賀にいた門下たちの姿を思い浮かべた。


 日々強いられる極限状態。教育という名の洗脳。そんな中で長く過ごせば、集団は個性を削ぎ落とされ平坦にならされていく。


 善き空間でそれは団結と呼ばれ、

 濁った場所では精神の拘束となる。


 むろん、平賀は後者だ。


「ふーん。偉代さんとかマっちゃんみたいな人ばっかりなら、仲良くできそうなのにねー」


「そうだね。僕もそう思うよ」


 呑気な少女に真信も苦笑して同意した。そんな幸福はありえない。わかっていても、深月の言葉には心が安らいだ。


 弛んだ気を引き締めなおして前を向く。電車の走り去る音が、いつの間にやら遠ざかっていった。


「見送りも済んだし移動しようか。常彦が言ってた橋に行くんでしょ?」


「うん。せっかく近くまで来たし────」


 深月の言葉が途切れて、真信は先に進みそうになる足を止めた。


 立ち止まった深月の視線の先には、五、六歳だろうか、一人の小さな男の子が、不安そうに花壇の前を行ったり来たりしていた。


 服のすそを握りしめ、必死に何かを探すその表情は、涙を堪えるように口元が引き結ばれている。


「真信あれ……」


「親とはぐれたのかな」


 深月の瞳が心配そうに揺れる。けれど、その場から動こうとはしない。真信はすぐにその理由に思い至り、彼女の肩をたたいた。


「大丈夫。町中に設置した隠しカメラと専用に改良した自動監視システムが、外部の人間の出入りを完全に把握してるから。源蔵さんも変わらず見張りをしてくれてるんでしょ? 今この町に、僕らの監視下にいない人間はいない。だから深月が誰に親切にしようと、それを逆手にとってはめめようとする奴はいないし、絶対にさせない」


 樺冴かご深月みつきは、必ずしも他者から命を狙われているわけではない。呪術組織が狙っているのは樺冴の屋敷にあるとされる三種の神器の複製だ。


 真作とほぼ同時期に造られた贋作がんさく。しかし歴史を積み重ねた神器はそれだけで強大な呪具として完成される。見た目も真作と見分けがつかず、悪用しようと思えばその影響は日本国内だけに留まるものではなかった。


 その宝物ほうもつが隠されている部屋には、狗神の使役者しか入れないという。


 実際に先日、真信たちが総出でその部屋を捜索したものの、入り口すら見つけることができなかった。図面と敷地面積を比較計算したから隠し部屋の類いもないはずである。


 深月当人も部屋の場所を知らされていないらしい。樺冴家の後見人である菅野すがの源蔵げんぞうに確認をとったが、『深月が必要とすれば道は開かれる。外部の者が手出しできる代物しろものではないさ』と煙に巻かれてしまった。


 とにかく、武力介入でどうにかなることではないらしい。ゆえに宝物を欲する者たちが狙うのは、深月の精神だ。彼女の心を壊し、操り、深月自身に宝物を取り出させようとする。


 だからだろうか、深月は他人と仲を深めようとしない。それどころか会話すら適当に切り上げてしまう。深月が他人をうとんでいるわけではない。もし仲良くなってしまったら、それを利用しようとする敵が出てくるからだ。


 その誰かをそそのかして深月を誘導する程度ならまだ良いだろう。だが、人質にでもなれば命が危うい。深月が余人を巻き込みたくないと思えば声をかけることすら躊躇ためらわれるだろう。


 深月は真信と出会うまで、そんな生活が当たり前だった。


 だが今はもう以前と同じではない。町の外部から入ってくる人間は全て真信たちが把握している。町の住人や京葉高校の生徒は、源蔵が身元を確認して呪術と関係ない者のみ受け入れているというから、急場の危険はない。


(今朝ポストに入っていたカード……。少し引っ掛かるけど)


 屋敷の監視システムは人が近づけばそれが誰であろうと履歴が残るように設定している。それが町人以外ならばその後の動向まで自動で追跡するシステムを敷いていた。


 だが、あのカードが入れられたと思しき時間帯にはなんの履歴も残っていなかった。人が近づいた形跡がないのである。


 機械の隙をつくならば、相手は呪術者かと考えた。隠形おんぎょうの術でも使ったのではないかと。しかし源蔵によれば、現在町に呪術関係者はいないという。


 これは奇妙なことだった。カードという結果はあるのに、それを成す人間が現場に足りていない。手品か奇術かと言われれば納得してしまいそうな出来事。

 真っ先に思い付くのは内部──つまり屋敷の人間の仕業しわざだが、真信はできるだけ彼らを疑いたくはなかった。


 カードに書かれた文面を思えば、その真意はともかく警戒するに越したことはないのだが……。


(こんなことで、深月が人と関わる機会を減らしたくない)


 狗神を使用することですり減っていく深月の精神。孤独の中でそれは進行するばかりだ。

 それを少しでも食い止めるためにも、深月にはもっとたくさんの経験をして欲しかった。


 人との交流が心を豊かにするなどと安直なことは言わないが、独りでいるよりよっぽどいいのは間違いないはずなのだ。


「だから、大丈夫だよ」


 真信は再度、深月を安心させるように微笑みかける。彼女の瞳はそれでも躊躇うように揺れていたが、やがて意を決したように頷いた。


 よぅし、と気合いを入れるように胸元で握りこぶしを二つ作って、深月は迷子に近づいていく。

 真信はその後ろをついていきながら、彼女の様子を動画に撮って永久に保存したい衝動をなんとかこらえた。


 男の子の表情がはっきりわかる距離まで、じりじりと迫る。くりくりとした目には涙が溜まっている。やはり迷子に間違いなさそうだ。


(頑張れ深月!)


 深月はおそらく自分から幼い子どもに話しかけたことがない。わりと空気を読まずに自分の意思を貫く深月だが、やはり慣れないことに緊張があるのだろう。心細そうな背中を真信が心中で励ましていると、突然に強い風が吹いて思わず顔を背けた。


 風は駅前の広場を駆け抜けていく。舞い上がった木の葉はそのままどこかに飛んでいった。


 風が落ち着いて真信はすぐ前に向き直ったが、なぜかそこにあるべきものがない。同じように突風をやり過ごしていた深月も異変に気づく。


「あれっ……?」


 さっきまで確かにいたはずの男の子が、一瞬にして姿を消していた。


 慌てて辺りを見渡すが、あるのは並べて放置された自転車や時折通る通行人ばかりで、それらしき人影はない。


「親御さんを見つけて走っていった、……なんていうわけでもない、よね」


「まさかー。さすがにこんな一瞬じゃ……」


 一番平和な可能性が否定されたことで真信の胸のうちに焦燥感が募っていく。もし人さらいだとしても手際が良すぎる。第一、そういった悪意の気配に深月が反応しないはずがない。


 けれど実際、男の子はどこにもいない。

 おかしい。狗神に喰われもせずに、人体が虚空に消えることなどあるはずがないのに。


 二人で手分けして辺りを観察する。視界を広く遠くまで映して男の子を探していた真信の視線が、ふいに足元に引き寄せられた。ほんの一瞬、気にかかる何かを見た気がしたからだ。


 その感覚は確かだったと真信は納得した。


 石畳で舗装された地面には、一揃えの靴が脱ぎ捨てられている。

 それも子供用のマジックテープ式のスニーカーだ。菓子パン顔のキャラクターが左右に印刷されている。


 真信は覚えていた。あの男の子が履いていた靴と同じだ。靴はまるで高層ビルの屋上で主を永遠に見失ったかのように、かかとをそろえて置かれている。


 浮かんだ想像が伝える不穏な空気が、また真信の心臓を打った。


「深月、これ」


「んーどうしたの?」


「これ、さっきの子が履いてたやつなんだ。何かわかる?」


「────っ」


 地面に置かれたそれを指差してみせると、深月は何かに気づいたように息を呑んだ。


「……まさか…………でも……」


 うつむき、何事か呟きはじめる。思ったよりも緊急性のあることなのかもしれない。少女が思考を終えるのを真信は息を殺して待った。


 自分の中で何か結論付けたらしい深月は、突然弾かれたように顔をあげ、真信に駆け寄ってくる。


「真信っ」


「は、はい」


「手、握ってて。離さないで」


 伸ばされた白く小さな手を無意識にとる。互いの指が絡み合い、しっかりと繋いだことを確認して、深月はスカートから取り出した一枚の紙切れを放り投げた。


 墨で奇妙な模様の描かれた細長い紙は独りでに発火し空中で燃え尽きた。

 深月が隠形の術を発動させる時に使用する呪符である。これを使うと周囲の人間から認識されなくなるらしい。


 彼女がその隠形を使うということは、人目を忍ぶ何かが始まることを意味していた。


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