背中
放課後になっても雨は降らなかった。どうやら梅雨も今日一日くらいは曇り空までで妥協してくれるらしい。
真信と深月は、髪を後ろでお団子に纏めた女性と共に、町外れの駅前にいた。
平賀本家へと戻る女性、
「忘れ物はない?」
「ええ、初めから私物はあまり持ち込んでおりませんでしたので。心配しすぎでございますよ、真信さん」
小さなキャリーバッグを見て不安そうに尋ねる真信に、
偉代はにこやかに
「むしろ、『よくも今まで騙してくれたなこのスパイめ! そんなお前は三枚下ろしで大根おろしを添えてやる!』くらい仰ってもよろしいのでございますよ?」
「僕のイメージが突飛すぎる。誰相手であろうと言わないよそんなこと」
「ですけど、せっかく私がご当主様の手先だとお教えしたのに、真信さんはちっとも怒りませんし、他の皆もそうですから。
「僕も皆も、そういう偉代の人柄知ってるからね……」
苦笑いを隠しもせず真信が頭をかく。下手に怒るとこの女性を喜ばせることになるのが逆に辛いのであった。
それを抜きにしても、偉代という人物はみんなから信を置かれるに相応しい女性だ。怒る人間など仲間内にいるわけがない。彼女との今までのやりとりを思い返し、真信は少し照れたようにはにかんで続けた。
「それに、偉代は最初から僕の味方だったでしょ?」
真信の言葉に、偉代は一瞬驚いたように目を見開いた。けれどすぐ、ふふっとたおやかに笑って頬を赤らめる。
「私も真信さんの"ファン"でございますからね。ご当主様を裏切ることはできませんが、できるだけ真信さんの味方でおりますよ。そのための二重スパイですから」
偉代の微笑みに、真信は奥歯で舌の両端を噛んで漏れそうになる悲痛を覆い隠した。
偉代は、平賀家当主であり真信の父でもあるあの男の送り込んだ諜報員だ。だが彼女は真信の味方であろうともしてくれる。こちらの情報を流す代わりに、平賀の情報も送ってくれるという。それゆえに二重スパイ。両陣営公認の
平賀ほどの組織になると外部から情報を得るのはまず不可能だ。彼らががいつ深月の敵に回るか分からない以上、平賀内部の情報を知れるのは大きい。
与えられる情報は全て平賀家当主に管理される。ゆえに全てが真実とは限らない。偽の情報も混じることだろう。だが、それはこちらの提示する情報も同じだ。
掴んだ情報はどこまで信じられるか。こちらの情報をどこまで相手に与えるのか。
嘘ならば、その嘘を渡す意図はなんなのか。混じる虚実の傾向、そして相手の考えの裏の裏まで読み本当に必要な真実を得る────。
常人には考えもつかないほど複雑怪奇な諜報戦が、これから偉代を通して静かに繰り広げられようとしていた。
そして情報を精査し方針を決めねばならぬのは、言うまでもなく真信の役割だった。
自然、重圧にうつむき唇を噛む少年の手を、温かな手が包む。顔を上げると偉代が間近で彼の手をとっていた。
「ありがとう。貴方の言葉がなければ、私の中の貴方への感情を、誤解したまま生きるところでございました」
包んだ手を額に当て女性は目を閉じた。祈るようなその姿に、真信はつい、引き結んでいた唇から言葉をもらす。
「……それでも、平賀に戻るんだね」
「はい。元々そういう役割でございますし。それに、──平賀には置いていけない思い出が多すぎますから」
偉代はすでに三十年近い日々を平賀で送っていた。あそこは、いつ命を散らすかわからない場所だ。昨日笑いあった者が今日
そんな場所で生きていれば、亡くした想いも、砕かれた願いも、沢山積み上がる。日々の痛みに遺された何かを思い出せなくなっても、なにやら惹き付けられて逃げられなくなる。
優しい者ほど、辛い場所だった。
駅員の声が響く。電車はもう近いようだ。偉代はキャリーバッグを握りなおして再びはにかんだ。
「それでは、もう行きますね。深月さんもお元気で。どうかお変わりなきよう」
「うん。
ちらと深月との別れを済まし、さらにホームまでついていこうとした真信を手で制する。
「最後に一つだけ」
代わりに彼女は少年の瞳を真っ直ぐに見つめ、言葉を残した。
「大きな庇護を捨て自らの足で立つということは、今までの
こちらに残していく仲間への
腹の底にごろりと、何か真っ黒い異物の溜まるのを自覚しながら、真信は去っていく後ろ姿に微笑んで頷いてみせた。
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