鏡写しの向こう側


 吹き出した血液が空中で霧散して消える現象など、奈緒は生まれて初めて見た。


 床に広がる血痕も、収縮して細かい欠片だけを残して消えていく。


 消臭スプレーでももう少し踏ん張って空気中を漂うのではないかと、意味のわからないツッコミが頭に浮かぶほどの衝撃だった。


「あはっ。えげつな~い」


 目前で繰り広げられる一方的な虐殺に奈緒は心の籠らない歓声を上げる。


 人が立ち塞がればなぎ払い、弾丸が飛んでくれば黒い影が深月を覆って守り、通路に防壁が降りれば周りの壁ごと吹き飛ばす。


 狗神の力は圧倒的だった。深月は嵐をまとっているようなものだ。歩くだけで通路を更地にしていく。


 そうは言っても狗神は深月からあまり離れられないようで、狗神の届かない遠くの敵は、奈緒が処理していた。


「あたしの役割は、深月先輩が『敵に囲まれないように』することでしたねっ──とぉ」


 真信から与えられた指示を復唱しながら、右手で袖に隠していたナイフを投げ、左手で逆方向に拳銃を向ける。


 ナイフは吸い込まれるように、二階の通路でボウガンを構えていた白衣の男の眉間に刺さった。放たれた銃弾も逆側の通路の男の心臓へ潜り込む。


 力の抜けた男達の身体が手すりを乗り越え落下する。


 重みのある物体が地面にぶつかる音。骨の折れる音がする。首から不時着したようだ。戻って確認せずとも絶命しているのは確実だろう。


 細い通路を抜けた先は吹き抜けになっていた。ここは倉庫代わりでもあるのだろう。いたるところに薬品の入った木箱が積み上げられていた。


 そのため隠れる場所は多い。だが狗神にそんなことは関係なかった。死角を手当たり次第破壊して回っているからだ。


(これあたし、いらなかったんじゃぁ?)


 奈緒が狗神に抱いていた恐怖は、もはや呆れに変わっていた。


 命の伐採にかかった時間は、賞味十五分もあっただろうか。今いるフロアに生きている人間の気配は、もう感じられなかった。


 殺し損なった最後の女性の喉笛を奈緒がナイフでえぐる間に、深月が次のフロアへ進む。


 明るい光が開け放たれた扉から漏れている。向こうから幾人かの悲鳴が響いてきて、それもすぐに収まった。


 惨劇の終わったフロアに奈緒は足を踏み入れる。さっき居た所は光が弱かったせいか、ここはやけに白じんだ印象を受けた。壁が清潔な白に囲まれているのもあるのだろう。どこか現実味がない。


 正面と左側にはペットショップにあるショーケースみたいなものが並んでいた。その内の一つには数匹の豚が入っている。何かの実験の産物らしい。経過を見るために隔離されているようだった。


 ケースが多いから部屋自体は手狭だ。奈緒は深月の姿を探す。


 柱の影に深月はいた。ガラス張りのケースに左手をかざして、静止している。


 ケースの中身は光の反射で、ここからは見えない。


 なぜか声をかけるのが躊躇われ、奈緒はゆっくりと長髪の少女に近づいていく。


 深月の口が小さく動くのが見えた。誰にも届かないことを前提にした呟きを、奈緒の耳が捉える。


「……そっか。真信達そっち側から見た私って、こんなのなんだ」


 なぜか感心の混じった、けれど悲哀に満ちた声。


 奈緒は深月の隣に立って、何とはなしにガラスの向こうに視線を向ける。


 瞬間、呼吸を忘れた。奈緒はそこに広がる現実を一瞬受け入れることができなかった。


「何、これ……。どうしてこんなっ」


 そこにあったのは肉の塊だった。持ち上げれば手の内に抱えられるほどの大きさである。


 塊といえど球体には程遠い。腕のようなモノと足のようなモノ、それと頭部とおぼしき毛髪の絡んだ物体が、塊から生えている。


 例えるなら、粘土で作った人間をバラバラに切り裂いて、パーツを拾って適当に丸めたような見た目だった。


 物体は、いたる所がぶよぶよと動いている。

 その動きには微かに意志が見受けられて、こんな状態でもは生きているのだと思い知らされる。


 ガラスの隅に貼られたラベルには『カミツキ姫複製個体03・幼体』と書かれていた。隣のケースにも番号が違うラベルが貼られている。もちろん、ケースの中には同じような肉の塊の姿があった。


 その意味を理解して、奈緒は足下が揺らぐのを感じた。


 遺伝子操作、クローン。これが実験の結果だとして、人間の形すら保っていないのは、いったいどういうことなのか。


 疑問は深月の呟きで解消された。


「樺冴の当主は、代々狗神の呪詛を受け止めてきたから」


 唐突な話に奈緒は深月の顔を見た。深月はじっと塊を見つめ、自分自身に説明するように続ける。


「普段受けてる呪詛の量は気にならないくらい微量だけど、それを何代も続けてれば、遺伝子が壊れるくらいはするんじゃないかな。ただ子孫を残すだけなら、身体が弱いとかで話は終わるよ。────けど、真実を暴く"科学"の視点からすれば…………私はもう、人間とは呼べない生き物なんだね」


 深月の遺伝子データから精巧に複製された生き物。本来ならば、深月と同じような姿をしていなければおかしい。


 しかし目の前にある実物は、人とは言えない、生き物と呼称することすらはばかられる物体。


 これが、深月が一人で片付けようとしていたもの。真信達に見せたくなかった物の正体だった。


「知ってたんですか」


 自分のクローンを創ると、こうなることを。


 奈緒の視線を深月は見返すことはない。ただじっと、己の複製を力なく見ている。


屋敷うちの地下に繋いでたここの職員さん。処分したの私なの。その時に声をかけたら言われたんだ。『あぁ、カミツキ姫は本当に人間なんだな』って……」


 つまり男は、人間ではないカミツキ姫を見たということだ。それに先に気づいたから、だから深月はあの時、ここは一人でやると主張したのだ。


 真信たちに、せめて実物を見せないために。


「どうするんですか、これ」


 生かすことは出来ないと、分かっていながら奈緒は訊いた。それしか出来なかった。自分の口でこの目の前の生物を否定することは、どうしてもできなかったから。


 奈緒の質問を受けた深月は、一度目を強く閉じて思いを巡らせているようだった。

 数秒の沈黙の後、開かれた瞳には、確固たる決意が宿っていた。


「……私ねー、今の生活、結構気に入ってるんだ。ずっと独りだったから、大勢で暮らすのって新鮮で楽しい。だから、どうするも何も、やることは一つだよ。

 私は、私の前に立ち塞がる者を例外なく殺す。それがたとえ自分自身であっても」


 強い意思を示し、少女はガラスに向かって左手を掲げた。


「だって、樺冴かご深月みつきはこの世に一人きりだもん」


 狗神を出現させる。奈緒が横目に盗み見た深月は、やっぱり泣き出しそうな顔をしていた。


 深月と奈緒が数歩下がるとガラスにヒビが入る。


(強いなぁ。そんな顔しながら、そうやって強くいようとできる。あたし達みたいに仕事だなんだって誤魔化さずに、自分自身の業にしちゃうんですね、深月先輩は)


 仕事だから仕方ない。そんな泣き言を置き去りにして、深月は罪を罪として引きずって行くのだろう。逃げない。どこまでも立ち向かっていくその姿は、悲しいのに誇らしい。


 ガラスが割れる。狗神が肉塊を口に含む。咀嚼そしゃくと共に飛び散った血と肉は、風に吹かれる砂山のように輪郭を小さくして、最後は消えていった。


 深月は俯きながらも、睨むように前方を見据え狗神を止めることをしない。


(本当に、強い)


 同じことを三度繰り返し、深月はきびすを返した。ついでに部屋の機械を手当たり次第に壊しながら。


「行こうか」


「あっ、はい!」


 奈緒も彼女の後ろを付いて行きながら、まだ動いている機械に弾丸を撃ち込んでいく。


 無心で手を動かしながら、奈緒の心はここになかった。


(先輩に比べてあたしは、未だに自分が救われることを夢見てる。奇跡みたいな偶然が起きる期待を捨てきれないでいる)


 いつかドラマチックな何かが起きて、己の抱える全てを洗い流してくれるのではないか、など。白馬の王子を待つ幼い子供のようで恥ずかしいのに、その思考を消しきれない。


(救われたい。……そんなこと思う資格、あたしにはとっくに無いのになぁ……)


 虚ろに自嘲の笑みを浮かべ、奈緒は前を行く深月の背中を追いかける。


 薄暗いフロアでは、さっき奈緒が喉をえぐった女性の死体が、虚ろな目で天井を見つめていた。


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