覗いてはいけない
「え……っと?」
奈緒は意味を掴みかね、思わず首をかしげた。
皇太子は呪術的素養が薄い。それはどういう意味か。
源蔵が頭痛を堪えるような表情で説明を続ける。
「つまり彼が帝の地位に座っても、神秘の軸としての役割は果たせない。……これは少数の人間しか知らないことだがね。この事実が発覚したのは約十年前だ。原因は不明。血筋にも本人にも何の問題はない、なのに呪術的素養だけが抜け落ちているのだよ。この問題が解決するまで、
「じゃあ別の人にやってもらうわけには……」
この問に答えたのは千々石だ。
「別の誰か、うん、仮に継承権第二位のお方に帝になってもらうとして、それを世間にどう説明する? 呪術や神秘については国民に明かすべきじゃない。あれは世の裏側にあるからこその神秘だ。表立った理由には成りえない。そもそも誰も納得なんかしないしね。だから皇太子様がどうにか帝の役割を果たせるよう研究するのが、帝付きの呪術者たちの総意さ。現に様々な手法が試されている。今のところ、うん、未だ効果のあったものはないけど」
千々石がやれやれと首を振る。表情は布に覆われて見えないが、語る内容の重みは奈緒にも十分伝わった。思わず固まった奈緒に源蔵が追い打ちをかけるように視線を投げかける。
「分かるかい、木蓮君。今回の生前退位説を否定することは、全ての呪術者にこの問題を知らしめることと同義なのだ。なぜならあの記者が出した記事は人の共感を誘うものだった。国民からは高齢の帝への同情が集まっている。何も知らない官僚どもも同調してしまって、法の改正案まで作成する始末。これでは放置しておけば実現してしまいかねん。それをわざわざ宮内庁が公式に強く否定する声明を出すのだ。何かしらの意図があると勘ぐる者は多かろうよ。どれだけ宮内庁が口を閉ざそうと人の口に戸は立てられぬのだから」
「やっぱりそれ、問題になります?」
「ああ、呪術の存続を願う者は皇太子の暗殺でも目論見かねんし、そうでない者は退位を強く願うだろう。少なくとも、現状の維持は無理だろうな。我々は
やけくその微笑みに奈緒は頭を抱えた。自分の知らない所で、……いや、関係ないと無視していたところで足元を掬われそうになっている。
「どうにかならないんですか……」
つぶやくと、
「それが奈緒が来るまでに散々話し合ったんだけどさ。問題を放置してたらそれこそ実現しちゃうでしょ? 否定しないわけにもいかないし、うん、否定しても無言貫いてもヤバイってこと。お上の方針も公式否定のほうになりそうだから、カミツキ姫たちには覚悟だけしておいてほしくて。うん、情報共有のために奈緒を呼んだのさ」
「つまり、現状あたしたちにできることは何もないと?」
「そ、ボクの
「分かりました、必ず。お話が以上なら帰ります。…………マッドさん?」
奈緒は立ち上がったが、隣のマッドが微動だにしない。呼びかけると少女は奈緒を見上げて手を振る。
「奈緒ちー先ニ帰っテて」
「? 分かりました。じゃあお先に失礼します」
無理に連れてきたのは奈緒なので強く出るわけにもいかず。奈緒は一人で屋敷に戻ることにした。
マッドは一礼して出て行く奈緒を見送った。
そして扉が閉まった途端になぜか
「なっ、なにゆえ!?」
「服を脱ギ
「追いはぎ!?」
「その肌見セるます!」
「! ……駄目だよ、お嬢さん。面白いものなんて何もないのだから」
フードのチャックに手を伸ばされ、千々石は間一髪自分にのしかかるマッドの両腕を掴む。そのまま位置を逆転しソファに押しつけることで動きを封じた。
一連の動きを見ていた源蔵が言う。
「教育者としては女性を組み伏す成人男性というのは見逃せないわけだが……」
「仕方がないでしょう、うん、ボクは悪くない。突然掴みかかって来たこの子がいけないんですよ」
「はぁ、マッド君。どうしてこんなことをしたんだい。
「香水軟水振っテてもマッドの鼻は誤魔化セんです。ソの肌いヤ身体、マッドガ治スます!」
四肢を押さえつけられてもマッドはまだ
「無駄だよ、うん、意味がない。これは人間がいてはいけない場所を行き来している代償だ。精神に作用するはずの負荷を身体に移す。そうやってボクは正気を保っている。そんなボクに君の治療は必要ないよ。そもそも君みたいな天才は、呪術を紐解こうとなどしてはいけない。うん、治そうなどと考えちゃいけないってこと。君みたいな人種は、踏み入ってはいけない場所を善意で踏み抜くのだから。
ほらお茶菓子でもあげよう。それを食べたら帰りなさい、うん、帰るべきだ」
千々石はマッドの口に
マッドが
「モふむゥ。ニげ
「はいマッド、お茶よ。ゆっくりしていってね」
先に学校を出た奈緒は、真っすぐ屋敷へ向かっていた。
(マッドさん、何で残ったんだろ。普段は倉に引き
内心では気になっているものの、あまりマッドに踏み込むと見てはいけないものを見る気がして、奈緒は足を速めた。元暗殺者は危機回避能力が高くなければ生きていけないのである。
そんな彼女に後方から声をかける人影が。
「おっ、奈緒ちゃーん」
「今の声……、あ、針木先輩。ども~。お久しぶりです。暇なんですか?」
振り向いた先には手を振る常彦がいた。学年は一つ上でこれといった接点もないが、奈緒がよく深月たちの教室に出入りするせいで会えばそれなりに話す。
常彦は奈緒の発する拒絶オーラに、いつもの引き締まった顔を幼く見せる笑みを引っ込めた。
「歩いてるだけで人を暇人扱いするなよな。ちょっと訊きたいことあるんだ。真信知らねえ?」
「真信先輩ならどこぞにご旅行だそうですよ。行先までは知りませんけど」
「げ、そうなのか。真信の家知ってんならと思ったんだけど、こりゃマズったな」
「どうしたんです? 何かご用事なら電話で伝えときましょうか」
「えっ、何で奈緒ちゃんは真信の連絡先知ってて俺は知らねえの?」
「あはっ、なんでですかね~」
「まあいいや、俺の用事じゃないんだよ。真信のこと探してる子がいるんだよな。あ、君こっちこっち」
手招きする。柱の陰から出てきたのは、黒髪を頭の形に切りそろえた少女だった。学校へ向かう時に見かけた少女だ。なぜかずっとスマホを操作し続けている。
常彦が少女を指して説明した。
「この子、
「ああ、さっき見かけたのナンパじゃなかったんですね」
「んなことしねえよ。んじゃよろしく!」
引き受けるとも言っていないのに常彦はさっさと走り去ってしまった。とはいえ、最初に見かけてから今までずっと彼女に付き添っていたならけっこうな時間だ。責める気にもなれない。
奈緒は仕方なく少女のほうへ視線を移した。何者かは知らないが、彼女からは全く邪気のない悪意など一切感じられない純粋さがにじみ出ている。何より、怪しい人間ならば町に入った時点で報告が来ているはずだった。それがないということは本当にただの真信の知り合いなのかもしれない。
「え~っと、
「うん! えり──」
「『えり』?」
「えーっと……──ただのだよ! わたしは
「あ、はい。よろしくお願いします?」
言いかけた何かを苦笑で誤魔化し少女が頭を下げる。その瞳の形になぜか既視感を抱きながらも、毒気のない彼女の仕草に奈緒もつられて笑うのだった。
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