裏で進むもの


 常識の通じないおたずね者が町に侵入したことなどつゆ知らず、木蓮もくれん奈緒なお樺冴かご家の台所で中華鍋を振っていた。


 各所から送られてくる暗号化された情報の精査、町の監視網の管理に、人員把握。真信から任せられた仕事は多々あれど、一番重要なのはやはり食だと、彼は言っていた。


 なるほど食事は生活の基本だ。だが一日三食、屋敷に住む人間全員分用意するのは面倒ではないか。


「あはっ、よくよく考えたら、組織の長が食事作ってるのおかしくないですか~。他にもやることクッソほどあるのに、なんであの男は全部手作りしてんですかね。今時、専業主夫でもやんないでしょ」


 できたチャーハンを皿に盛りテーブルまで運ぶ。中華スープはお湯をそそぐだけのインスタントだ。手抜きできるところは抜いていくスタイルの奈緒である。全て自分でやってしまう真信とは違う。


「真信様、だいぶ完璧主義者だからなぁ」


 奈緒のぼやきに竜登りゅうとも反応する。彼は将棋盤を前に腕組みして思案中だった。対面にいるのは屋敷に出入りする三毛猫だ。猫は前足をちょいちょいと動かし、器用に駒を進めた。それを見た竜登りゅうと驚愕きょうがくに打ちひしがれる。


「ぐわっ! マジかよ。向こうは取った駒使わない縛りプレイなのにまた王手!? ……くぅっ、参りました」


「まだやってたんですか竜登りゅうとさん」


「まだ五連敗目だし……」


 ぶすくれて呟く。五戦もやっているなら即効で負けていたとしてもそれなりの時間だ。三毛猫はさすがに飽きているらしく毛づくろいを始めた。これには奈緒も呆れてしまう。


「暇人か。さっさと澄影すみかげさんらとマッドさん呼んできてください。お昼ご飯ですよ。むしろ自分で作れ」


 皿を置いて猫を抱える。無抵抗な三毛猫を部屋の外に連れ出してキャットフードの前に置くと、前庭のほうから誰かやって来るのが見えた。


 どちらかといえば小柄な、美しい女性だった。慈愛の女神かと見紛うほど柔らかな微笑みを浮かべ、その目元は涼しげだ。シンプルなシャツをふわりと着こなしている。


 あの豊満な胸元は間違いない。かつて平賀において諜報ちょうほうを担当していた女性、現在は源蔵の秘書をしているなぎさだった。


 ほとんど源蔵に張りついて屋敷のほうには見張り当番か報告かくらいでしか足を運ばない彼女が、なぜ来たのか。縁側に出て迎えると、なぎさは奈緒を見つけて明るく笑う。


「ちょうど良かったわ。奈緒さん。ちょっといいかしら?」


「どうしたんですか? 来る予定とかありましたっけ」


 任せられたスケジュールに何か見落としがあったかと、慌てて脳内メモをめくる。しかしなぎさは首を横に振り、少し困ったように肩をすくめた。


源蔵げんぞうさんが呼んでいるのよ。真信様も深月さんもいないから、代理の責任者として貴女あなたを」


「責任者、ですか……」


 心の底から面倒な予感がした。





 京葉高校の一角に存在する理事長室に近づく者はあまりいない。生徒はもちろん、教師ですら中に入ったことのない者のほうが多かった。もちろん奈緒も入るのはこれが初だ。


 制服に着替えた奈緒は、分厚い扉の前で顔をしかめた。


「夏休みに面倒ごと持ってくるの止めて欲しいです……。商店街で見かけた針木はりき先輩なんて、なんか超短髪のかわいい女の子をナンパしてたっていうのに。あたしも夏エンジョイした~い。あはっ、簡単に言うと入りたくないです。嫌な予感がバリバリです」


「ふふっ、扉一枚隔てた直前で気配を感じ取っても、もう遅いわよ?

 ──源蔵さん? なぎさです。奈緒さんたちをお連れしました」


 渚が静かで明瞭なノック音を響かせ扉を開ける。


 開かれた視界の先にはなぜか、見慣れたフード頭がソファーにもたれかかっていた。


「やあ奈緒、久しぶりだね。怪我の具合はもう良いって聞いたけど、うん、元気そうだ。なによりだよね」


 フードの先まで続いたチャックを全部閉めた、中身のまったく見えない頭部がくにっと動く。

 千々石ちぢわ八潮やしお。悪名高き十戒衆じっかいしゅうの下部組織を石敢當いしがんどうという組織に作り変えた男だ。今はカミツキ姫の同盟相手ということになっている。夏だというのに長袖長ズボンのスタイルで、手には手袋まではめている。相変わらず一切肌が見えない。


 奈緒にとっては自分の命を救った男ではあるのだが、裏に引っ込んで逃げ隠ればかりしている彼が出て来るのは深刻な問題が発生しているときだ。あまり顔を合わせたくはなかった。特に、真信と深月のいない時には。


千々石ちぢわ、なんでここに。また狭間はざま経由の不法侵入ですか~? そろそろ怒られません?」


「それが──」


「彼を呼んだのは私だよ。正々堂々、正面玄関から入ってもらったさ。やあ木蓮くん。今日は呼び出してすまないね。こうして会うのは始めてかな、樺冴かご深月みつきの後見人、菅野すがの源蔵げんぞうだ」


 千々石の対面でそうニヒルに笑うのは、白いスーツを胡散臭く着こなした男だった。源蔵げんぞうは深月の後見人だが、奈緒としては高校入試の面接官だった理事長さんくらいの印象しかない。後は狗神関連の元凶という認識か。どちらにせよ気軽な空気にはなれない。


「ところで木蓮君。どうして後ろにマッド君をひかえさせているのかな?」


 源蔵は澄まし顔の眉を少し引きつらせ、金髪少女を指差す。


「あはっ、頭脳労働だったらあたしだけじゃ心もとないので、お願いしてついて来てもらいました」


「どうして彼女は黙っているのかな?」


「いやぁ、それが『お話中はしぃーっですよ?』って言ったら『隠密モードであんみつ姫百合ですな! 了解ます!』とか言ってこうなりました。ちょっと不気味ですけど、このゼロか百かしかない感じ、すごくマッドさんですよね~」


「うむ。よく分からないが、まあいいか。では始めよう」


 なぜ呼び出されたのか説明もないまま柔らかな椅子に座らされる。この状況を内心苦々しく思いながらも、奈緒は大人しく従った。


 源蔵が膝に肘をついて組んだ指の隙間から客人たちを見渡す。


宮内くない庁で動きがあった。近日中に何かしらの公式発表を行うようだ」


「…………? なんのですか?」


「おや、今の子どもはこうもみかどの動向に無関心なのかい? いや、まあいいだろう。先月十三日の夜のことだ。ちょうど君たちがゴタゴタやっていた頃の話だね。国営放送で帝が生前退位をお考えなのだというニュースが流れた。これは知っているかい?」


「ああ、なんかいろんな番組で議論されてませんでした? でもどこかが否定見解みたいの出してたような」


「そう、帝の住まう宮内庁が否定している。私も宮内庁長官に確認を取った。ゆえに、問題はそこではない」


「……すみません、どういうことですか?」


恐る恐る疑問を呈する奈緒に千々石ちぢわが横から解説を加える。


「生前退位が起きない、うん、問題にならないなら、その話題が湧いて出たことそのものが問題ってことだよ。奈緒は神秘の原理を知らないからそう呑気のんきでいられるんだ」


「ふむ、そのへん深月から聞かされていないようだね。深月め、また自他を切り離せていなかったな。自己の認識を他人にまで当てはめてしてしまうのは先祖譲りの悪い癖か。それに優しさが加わっているのだからとは別方面で扱いづらい。木蓮君の事情に気付きながら真信君へ伝えなかった件といい、他人と関わり始めてこれが顕著だな」


「源蔵氏、今いない人間の話はやめましょう。そしてすでにいない奥方ひとの話も。我々は未来を、うん、今を見据えなくては」


 千々石ちぢわが言外に続きを促す。源蔵はすまないと片手を振った。その挙動にはどこか疲れが見えた。


「ふぅ。これは複雑な原理だからね、簡潔に説明しよう。

 この世の神秘は国ごとだ。日本には日本の神秘体系があり、他国には他国のことわりがある。他国の神秘は我が国の土壌では効果が鈍くなり、逆に日本の呪術は他国の領土においてただのままごとだ。神秘のみなもとはそれを信じる人間の感情だからね。住む人間も積み重ねた歴史も違うのだから、国によって原理が変わるのは当たり前というわけだ。だからこそ、侵略国家はまず相手国の文化を駆逐し、自国の流儀に矯正していくのだよ。

 さて、神道のように実在の神が降ろす力を基盤とするならば、神の権威轟く範囲で力は揺るぐことはない。だが日本の呪術のように人間の認識という曖昧なものを発生源とするものは、何か軸がなくては制御が効かなくなり、やがて消滅する」


 長ったらしい講釈に千々石が補足する。


「国によってその軸はいろいろさ。王権だったり遺跡だったり、はたまた宝石や血筋だったり。それが絶えたことで神秘を亡くした国も、近代には多い。日本における神秘の核は今上きんじょう。うん、つまりはみかどという地位そのものさ。その席に正しき血筋の者が鎮座する限り、呪術体系は崩れない」


「近代化の波が我が国を襲った時、上は一世一元制を敷くことによって国の暦と帝の地位をより強固に結び付けた。今上帝きんじょうていがお隠れになれば、元号が変わる。つまり時代そのものが変わる。今や帝の命は日本国の時間そのもの。近代化の波にさらされたあの時代、加えて帝を神格化することで、科学への信頼により弱まりつつあった呪術の力を補強したのだ」


「一世一元制になる前は、帝の生き死ににかかわらず改元されていたから。災害が起こったり吉凶占いの結果だったりで。けど今や、日本の時代はたった一人の肉体に支配されている。面白い、うん、とても興味深い選択をしたよね、明治政府は」


「ゆえに、帝の退位は時代の移り変わりと同等の意味を持つ。今上帝きんじょうてい退しりぞけば呪術は軸を失い、原理を失うのだ。消滅までの短い間、呪術は術者にすら扱いがたい制御不能の禁忌に堕ちかねん。その術式の狂った現象を科学に取り込まれ定着でもされれば、それこそ悪夢だ。我が国だけの問題ではなくなる」


 源蔵がため息をつく。低い声音とくぐもった声音に両側から説明された奈緒は、情報量の多さに目を回していた。


「待ってください、ちょっと理解が追いついてないんですけど。え~っとつまり、帝が退位したら呪術のルールがめちゃくちゃになるから、今回の生前退位をでっちあげた人はその混乱を狙ってるってことですよね。でも、今上帝きんじょうていが退位したって、次の人が帝になるだけでしょ? ちゃんと……えっと、皇太子こうたいし? さんはいるんですし」


 今上帝には正式な世継ぎがいる。そうニュースで言っていた。継承権だの継承順位だのは奈緒にはよく理解できていないが、今の帝が退位したところで問題があるとは思えない。


 ようは帝の地位に誰かがいればいいのだろう。それを大人二人は何を焦っているのか。


 奈緒の素朴な疑問に源蔵は少し悩むそぶりを見せ、すぐ意を決したように口を開いた。


「今の皇太子こうたいしは呪術的素養が薄いのだ。彼に帝の役割は果たせない」


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