地蔵の町編
登校準備
午前七時。本格的に人々が動き出すにはまだ少しだけ早く、三文の得を得るには遅いような気もする微妙な時間。
学ランに身を包んだ
こんな時間に昨日の今日でここにやって来たのには
つまりは世話係の大事な最初のお仕事というわけである。
世間はそろそろ五月に移り変わろうとしているが、しつこく残った冬の寒さが町に降りている。
九州地方はもっと暑い場所だと思っていたが、真信の予想よりも日本列島は小さいらしい。首都圏に勝るとも劣らない肌寒さに、思わず身震いした。
いつまでも玄関先で立ち尽くすわけにもいかず、真信は意を決して戸を開けた。頭上で鳴る風鈴の音にお邪魔しますと挨拶して中へ入る。
広い玄関は昨日と同じ殺風景で、生活感のない寒々しさが漂っていた。
「おはようございまーす。
ムリに明るい声を出してみたが返って来るのはしんとした静けさだけ。背後で真信を慰めるように風鈴が鳴るが、欲しいのは人間の返事である。
と、そこで昨日の源蔵の言葉を思い出した。
(ご両親が他界してるってことは、もしかしてあの子は一人でここに住んでるのか)
これほど広い家に高校生の少女が一人。しかも玄関には鍵穴すらついていない。不用心にもほどがある。それとも侵入されることなど痛くも痒くもないということか。
真信の脳裏に紅色が浮かぶ。誤って泥棒にでも入ろうものなら、その人間の未来はここで
それはさておき真信は許可を得て来ているのだ。まさか家に上がった途端に首がおさらばなんてことはあるまい。
これは交換条件であり、仕事だ。なら嫌でもやらなくてはならない。それに真信は人の世話など生まれてこのかたしたことがない。そういう意味では未知の役割に好奇心もうずく。
一向に誰も出迎えてくれないので、真信は靴を脱いで玄関すぐの
たしか昨日三人で話をしたのはこの向こうの部屋だったはずだ。深月の部屋がどこなのかは分からない。とりあえず知っている場所に行こうと考えた。
一度濡れ縁に出た。片側に庭があり、反対側には障子が並ぶ。記憶を頼りに進んだ。横目で確認するが、庭にはやはり血痕の一つも残っていない。
そんなふうによそ見しながら障子を開けたせいだ。入り口すぐの所に転がる少女に気づかず、真信は思わず布の裾を踏みそうになってしまった。
「ぬぉわっ、いたなら返事してよ」
情けない声に反応して、光を透かしたブラウンの髪がさらりと揺れる。そこに仰向けで転がっていたのは言うまでもなく
昨日とは違い真っ白で生地の薄い
真信はそれがなんだか知っていた。寝間着だ。祖母が同じようなものを持っていた気がする。
といっても真信の知るそれよりも造りが繊細で、数倍値が張りそうな意匠が細かに施してあるが。
「返事はしてたよ、
訪問者を前に寝間着で和室に寝転がる異様な女子高生が、面倒くさそうに真信を見上げた。
浴衣でも相変わらず着崩れている。腰帯一本でとめてあるからより乱れが酷い。それでも大事な所は完璧に隠れている辺り、和服を着慣れているのが分かる。
「風ちゃん?」
真信が聞き返す。深月は当たり前のように頷いた。
「うん。風鈴の
(名前がついているのか、あの風鈴……)
恐ろしいイメージばかりが先行していたが、少女にも可愛らしい部分があるようだ。
それでちょっと気が緩んで真信は微苦笑した。
「いや、キミが返事しないと意味ないでしょ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
「んー、そっかー」
あどけなく唇を尖らせる様子は、狗神を使役して人を殺すような人間には見えない。どこにでもいそうな、ちょっと美人なだけの女の子だ。
「ところでさー、きみ誰だっけ」
「えぇっ、昨日会ったばっかりだよ」
さすがに忘れられているとは思わず真信は肩を落とした。そんな少年を深月はぼんやりと眺めている。顔を睨みつけるように凝視した後、記憶を呼び起こそうというように唸りだした。
真信がちょっと期待を込めてしばらく待っていると、深月は確認をとるようにか細い声をあげた。
「むむー。…………シンシン?」
「僕のどこにそんな中華要素がっ」
「字面しか思い出せなくて」
「字面? えっと、真信……しんしん……なるほど。確かに僕はシンシンか」
「あってた?」
「ノン、まさのぶ」
「ニアミスですなー」
自分の名前にこだわりはないが、さすがに譲れないものがある。真信は日本生まれの日本育ちだ。間違っても愛らしい白黒熊などではない。
そうこうしているうちに、思ったよりも時間が経ってしまった。
「ほら、学校に行くならそろそろ着替えないと。制服は?」
真信は手を叩いて深月に問いかける。しかし深月は、
「そっちの部屋から出てー、廊下を右に曲がったら奥」
と指差すだけで動こうとしない。
「……まさか持ってこいと?」
「働けー世話係ぃー」
あくまで寝転がったまま真信に指示する深月の様子は、恐ろしい断罪人どころかただの怠け者にしか見えなかった。
「お邪魔しました」
「いってきます
「いや、重いから」
玄関を出ると、制服に着替えた深月がすぐさま真信の背中に体重を乗せてくる。
ようやくこの少女の立った姿を見れたというのに。
(立てば
さすがに良い家に住んでいるだけあって屹立した深月の姿勢は美しく品と趣が感じられたのだが、歩こうとするとどうにも真信に体重を預けてくる。おかげで真信は、未だに彼女の自立歩行を目視できていなかった。
女の子に頼られて悪い気はしない。しかし、すでに二人分の通学カバンを持った状態で人間を抱えては、学校まで体力がもつ自信はない。
なぜか
「重くないよー。ほら、私美少女らしいから」
「それと重量のどこに関係が?」
「美少女の重さは熟れたリンゴ三個分なんだってー。知ってた?」
「知らなかった……。そう言われると軽いような気も? まあいいか」
観念して屈み込みしっかりと深月をおぶさって立ち上がる。さすがにリンゴ三個分とまではいかないが、なるほどこの少女は普通よりも軽い。本当に肉がついているのかと不安になるが、背中にやわらかななにかを押し付けられたことで真信は思考を止めた。
いままで和服だったから気がつかなかったが、この少女、意外にも……?
ともあれ、これで登校できる。予想していたよりも遅い時間になってしまった。
(世話係とは、なんとも大変な仕事だったんだな)
深月が特殊な案件なのだと気がつかないまま、真信は天を仰いだ。
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