条件


 遠くから声がする。片方は低く腹に染みるような声。もう片方は軽やかな、それでいて耳に残る幼げな女性の声。

 ぼそぼそと聞き取りづらい。意味までは掴みかねたが何やら話込んでいる様子だ。


 会話が途切れて、真信まさのぶは意識を浮上させた。


 目を開くが視界は真っ暗だった。

 頭に何か乗っている。手で退けるとそれはぬるくなった濡れタオルだった。


 軽く上体を起こし、辺りを見渡す。


 見慣れない天井。どうやら畳敷きの和室に横たえられているらしい。あの屋敷の内部だろうか。

 外に面する障子は開け放たれ、先ほどの庭から夕日が差し込んでいる。誰かが片付けたのか、血痕も肉片も見当たらなかった。


 ふと足元へ目を向けると、一匹の猫が丸くなっていた。首輪をしているので飼い猫だろうか。白地にまだらな斑点がある三毛猫だ。耳がぴくぴく動くので眠っているわけではないらしい。


 真信は音を立てないように起き上がった。ついでに身体の調子を確かめる。前ぶれなく意識を失ったわりには痛みもなく、不調は感じなかった。


 真信が身を起こしたので猫もついと顔をあげた。大きな瞳が膝立ちになった少年の全身を映す。それにしーっと人差し指を口元に当て、真信は閉じられたふすまに近づいた。


 さっきまでこの向こうから会話が聴こえていた。移動した気配はなかった。ならば、この向こうに人がいるはずだった。


 意識を集中し、耳をそばだてる。予想通り人間が身動みじろぎするのが伝わってくる。


「おや?」


 低い声が呟きをらし、襖に近づいてくる気配がした。


 思わずズボンのポケットの中身に手が伸びかけた真信に、猫がファーッと威嚇いかくしてくる。

 それで我にかえった真信が手を下ろしたところで、襖が開いた。


「なんだ、もう目が覚めたのかい?」


 そこに立っていたのは、意識を失う寸前に見た白スーツの男性だった。







 足の短い大きな机を隔てて、男が口髭くちひげを撫でる。


 男は菅野すがの源蔵げんぞうと名乗った。

 渡された名刺には手鞠てまり模様の透かしがほどこされている。大仰おおぎょうな役職名が書かれていたが、結局何に関わる仕事なのかはわからなかった。


「それとこちらはご存知だと思うが、樺冴かご深月みつきだ。私の遠縁にあたる。彼女の両親は早くに他界してね。私が後見人として面倒を見ているのだよ」


 源蔵げんぞうが深月を示す。だが当の深月は部屋の隅に寝転がり、先ほどの猫と戯れていた。名を呼ばれても振り返りもしない。


 近くであらためて見ても深月は恐ろしく整った顔立ちをしていた。最初に見たときのような笑みこそ浮かんでいなかったが、ぼんやりと猫じゃらしを振る姿にはどこか愛嬌すらある。

 目を凝らすが、あの影の化け物は見当たらない。


 それはそれとして着物はやはり、はだけ気味である。


樺冴かご家は代々、狗神いぬがみを使役する家系でね。その力を買われて、国家の反逆者を処理する仕事を任されている。表沙汰にはできないが立派な公職なんだよ。知ってるかな、狗神」


「えっと……」


 急な質問に言葉を詰まらせながら真信は答えた。まだ事態が飲み込めていない。さっきの光景もあって、真信は源蔵と少女が目立った得物を持っていないことを確かめた。


 露骨に刃物を持っていたりはしない。一先ず安心して源蔵の顔に視線を戻す。


「名前くらいなら。犬の悪霊みたいなやつですよね」


「その認識で間違ってないよ。ただし、樺冴家の飼う狗神は式神として契約されたものだ。分別なく襲ったりはしないさ」


 にこやかに告げる源蔵の口ぶりに嘘は感じられない。だが時代錯誤な服装のせいだろうか、どうにも胡散臭うさんくさい。


「悪人、だったんですか。あの人達は」


 もちろんあの狗神に喰われたスーツの人間のことだ。視線がつい庭のある方向に引き寄せられる。


「そうでなければ処理してないさ」


 源蔵は当たり前のように答えた。

 そう言われてしまえば、もう挟める口はない。


 真信は己が一般的な善性を備えてはいると自負していたが、人殺しは絶対にいけないなどという甘言が通じない世界があることを、幼い頃から知っていた。


 だから死んだ他人のことはこれで終わりだ。


「あの、それで、これから僕はどうなるんですか? できれば夕飯の買い出しにいきたいんですけど……」


 肩を縮めながら、おひたし用のホウレン草が欲しいのだと主張する。しかし源蔵は難色を表す。


「君、殺されても文句言えないくらい重大な秘密を知ったんだって、理解してる?」


「……平和に生きていきたいです」


「それは無理というものさ。……深月」


 源蔵の呼びかけで、深月がようやく真信へ顔を向けた。寝転がったままのその影からあの狗神が出現する。


 影のようなちりのような姿の怪物が、その口をいやらしく開閉している。


「うわっ──あ、あのっ」


「私の提示する条件を呑むか、今ここで死ぬか。どちらがいい?」


 さすがに膝を崩して腰を浮かせる真信を意に介さず、源蔵は指を組み、あくまで微笑みを浮かべて問う。

 それは有無を言わさぬ取引だった。


 真信は、今度は自分の意思でズボンのポケットに人差し指をかけた。指先に慣れ親しんだ冷たく硬い感触が伝わる。


 真信はここから逃げ出す自分を想像してみた。


 部屋の中には自分と源蔵と深月の三人しかいない。屋敷からほかに物音はしないから増援はないはずだ。問題なのは源蔵と深月の実力が未知数なこと。そして……。

 一番の障害はやはり狗神だろう。


 正直あれから生きて逃げ延びられる気はしない。


(狗神に食べられて死ぬっていうのも希少な体験なのかもだけど……)


 眠たげな瞳と、細く鋭い老成した瞳とに身体を貫かれ、動くことができない。


(こんなあっさり死ぬために、家から逃げてきたわけじゃないよなぁ)


 浅い呼吸を繰り返しながら真信の意思は決まっていた。


「まずは条件ってやつを教えて下さいよ。なにも知らずに約束するなんて、不誠実ですから」


 ひきつりそうになる顔で笑顔を作り、出来る限りの軽い調子で真信は源蔵を見返した。男は微笑でそれに応える。


「ほう、いやいやなるほど。これは誠実な返しだね。

 なぁに、私は君のためにこの話をもちかけているんだ。君はもう望んでいた日常には帰れない。だから君のことは、深月の世話係として我々の監視下に置かせてもらう」


「世話係……ですか?」


「この家のことを知った以上、君を利用したい人間は山ほど現れる。だから手元に置こうというのだ。君が我々に従う限り、樺冴家と私の名にかけて、あらゆる魔の手から君を守ろう」


 国家にまつわる重大な機密。なるほどそれを知ったなら、情報を得ようと真信に害を成す者が現れても仕方ない。真信が本当に何かを知っているかどうかは相手にとっては些細な問題だろう。


 役立たなかったなら殺せばいいだけだから。


「それに、これは君にとってもいい話じゃないかな?」


 思案する少年へ源蔵は加えてささやく。


「そうだろう? 平賀家三男坊、平賀ひらが真信まさのぶ君」


 名乗ってもいないのに、男は真信をそう呼んだ。それは目前の少年にだけに聴こえるよう吐き出された言葉。

 それが、真信の脳を揺らした。


 わざわざそんな言い回しにしたのには確実に意味がある。目前の男が何を目論んでいるのか。真信は動悸どうきが速くなるのを覚えながらも、湧き上がる興味を消しきれなかったから。


「……分かりました。その条件を呑みます」


 少年の瞳が薄暗く光るのを、和服の少女が興味なさげに観察していた。







 誰にも見送られることなく玄関から出る。 すでに夕日は地に消えかかっていた。


 周囲に人気はない。それをいいことに真信はちょっと意識を飛ばし、自分がこの現実味のない世界に迷い込んだ原因を考えた。


 ついでにプリントを渡してきてくれと頼んできた担任。

 面白いからと、大きな屋敷を紹介した友人。

 引っ越し先にこの町を指定した父。

 真信の願いを聞き届け、家を出る味方をしてくれた兄。


 脳裏に浮かぶ映像は逆再生のように記憶をさかのぼる。


 ────いったい、どこからどこまでが、誰の差し金だったのか。


 殺風景な玄関を振り返る。来たときと同じ、冷たい空気で満たされた屋敷。

 玄関の戸を閉めてそれを視界から消した。


(まぁ、なんとかなるだろ)


 あくまで能天気に真信は思考する。そうやって通学鞄を自転車のカゴに詰めると、また風鈴の音が聞こえた。


 風は吹いていなかったはずだ。

 しかし、確かに聞こえた。


 真信は戸の前に吊り下げられた美しい風鈴を一瞥いちべつし、なんとなく頭を下げた。


「お邪魔しました」


 自分の行動に苦笑しながら自転車にまたがる。

 武家屋敷から少し離れると、また澄んだ音色が聞こえた気がした。






「なーんなんだろうねー、あの男の子」


 電気もつけずに畳の上を転がる深月の言葉を、三毛猫が尻尾を揺らして聞いている。


 突然の来訪者も帰り、いつも急に現れるあの後見人も姿を消した。

 

「悪い人じゃなさそうだけど、わんこが気に入ってたからなー」


 そう誰ともなく呟き自分の影に触れる。実体を持たないはずの影が、深月の手を撫でるように揺れた。


「なんだか、"悪い"匂いがするよね」


 少女はそのまま目をつむる。

 同意を示すように、猫がにゃあと鳴いた。



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