木蓮奈緒


 真信が拳銃を下ろしてしまった時、奈緒はどうしようもない悲しみを覚えた。優しいこの人は、奈緒が嘘つきだって知っても、奈緒を嫌いになってくれなかったってことだから。


 それでも、殺さないという選択肢は奈緒にはない。何より今も背後に感じる家族の怨念がそれを許してはくれない。


 背後に響く、復讐を勧める怨嗟の声。それが全て偽物だということには随分前に気づいていた。


 それは異界と現世の狭間はざまに長く居たために刷り込まれた強迫観念。


 自分の脳が作り出した幻覚だと知っている。


 それでも、奈緒は幻覚を振り払えない。


 家族が好きだ。

 優しくて厳しい父親が好きだ。

 頑固だけど包み込んでくれるような母親が好きだ。

 賢く温かな姉が好きだ。


 今も変わらず。ずっと、奈緒は家族を愛している。


 愛しているから、どうして自分が代わりに死ななかったのかと考えてしまう。


 けれど奈緒は今の生活も嫌いになれなかった。真信がいて、深月がいて。静音やマッドも、奈緒に良くしてくれる。騙されているとも知らずに。

 あるいは、騙されていると知ってさえも。


 彼らの笑顔を見るたびに、とっくの昔に捨てたと思っていた罪悪感が立ち現れて胸を痛ませる。


 だから身体が何かの衝撃に揺れた時、奈緒は安堵した。胸の痛みのほうがずっと痛かったから、銃創の痛みなんか感じなかった。


(これで終わるんだ……。あたしの復讐は、やっと終わる)


 血と共に命が身体から零れていくのを感じながら、奈緒は心の底から安堵した。


(これで、命の帳尻は合う。あたしがここで死ねば、真信先輩を殺さなくて済むんだ)


 相手の命か、自分の命か。それを以て奈緒の復讐は幕を閉じる。


(だったら……最後に一つくらい、わがまま言っても、いいですよね)


 それは嘘ばかりついてきた奈緒が、人生の終わりにやっと言える本心。


「――――好きです……」


 薄れゆく意識と、言うことを聞かない身体で、真信に向けて微笑む。上手く笑えたかは、分からなかった。


 頬を伝ったのはきっと想いを伝えられたことへの嬉し涙に違いない。


(ああ、なんて顔してるんですか、先輩。あなたにはまだ、やらなくちゃいけないことが沢山あるでしょうに……)


 ――本当に、弱っちくて、優しい、大好きなあたしの先輩。


(ごめんなさい。お父さん、お母さん、お姉ちゃん。あたしは、あのとき生き残れて良かった)


 あなた達が人生をくれたから、この人達に出会えた。深月に会えた。真信に会えた。

 短い間だったけど恋ができて、好きになった人を殺さずに済んで……。


 ……生まれてきて、ここで死ねて、本当に良かったんだ――――


 もう何も見えない。聴こえない。感じない。真っ暗な虚の中へ落ちて行く意識のどこかで、石の砕けるような音を、奈緒は聴いた気がした。







 倒れた少女の身体を中心に血の円が徐々に広がっていく。奈緒の身体を呑み込むように、赤色が勢力を強めていった。


「あぁ…………」


 どれだけ手を伸ばしても、檻が邪魔で届かない。


 死んでいく。真信の目の前で、大切な人の命がまた一つ散ろうとしている。


 真信が檻を殴ろうとした刹那、轟音が鳴って鉄の棒が動き始めた。

 そしてそのまま檻は床下に消えていく。


 空ぶった真信が地面に顔を激突させ己の混乱を助長させていると、その声が聴こえてきた。


「フんふフフんふーん! 変なリモコン拾ッたマッドは真信サマたチを助けちみたリー」


 扉の向こうから、どこかへ消えたはずのマッドが現れた。手には奈緒が使っていたものと同じリモコンが握られている。檻を消したのはマッドのようだ。


「おオっ、ニャんだカみんな倒れ――――なおちー……?」


 真信ばかり見ていたマッドが、部屋を見渡して動きを止める。メガネに隠れたその視線の先には血に沈む少女の姿があった。


「奈緒ちー!!」


 悲鳴のように叫びなから、マッドが奈緒に駆け寄った。


 瞬時に奈緒が意識のない状態だと確認し、白衣を脱いで背中の止血に使う。背負っていたリュックから救急セットを取り出すその動きはどこまでも迅速で的確だ。


 それでも、マッドの顔に浮かぶらしくない焦りが、奈緒の行く末を暗示していた。


「真信サマ、マッドが奈緒ちー助け……。真信サマ?」


 真信は半ば這いつくばりながら二人に近寄る。そこで名を呼ばれ、はっとその顔を見返した。


 聡い彼女に、心の中の迷いを見透かされているのが分かった。


 真信の中で、どうせ奈緒は助からないと、今までの経験が囁いている。これほど血を流し意識も無いのだから。これで助かった者など今までいなかっただろうと。


 それに真信は、奈緒を助けていいのか分からなかった。このまま彼女の望むように、その復讐を終わらせてあげるべきではないのか。


 二の句を継げない真信の態度にマッドは歯を食いしばり、眼鏡を外して投げ捨てた。真信でも久しぶりに見るマッドの緋色の瞳。その縁には大粒の涙が溜まっていた。


「真信サマは! マッドに人を殺さセないっテ約束しテくれますタ! だからマッドは、真信サマのしたいこと、手伝ウ言った!」 


 それは昔交わした約束だった。忘れるはずもない記憶。それをマッドもまた、覚えていたのだ。


「――真信サマ。奈緒ちーはまだ生キテるます。マッドに奈緒ちーを殺さセるの?」


 切実な眼差しが少年を貫く。その美しさに、真信の中から雑念が消えた。


 マッドの前には、助からないとか、奈緒の望みとか、そんなことは関係ないのだ。ただ、やるかやらないか。マッドが問うているのはそこだけだ。


 だったら真信はマッドを信じるだけだ。後のことなんか知らない。


 気づけば、真信はマッドを強く見返していた。


「マッド、奈緒を助けて……っ!」


 少年の願いに、マッドはニヤリと笑う。


「任セろ」


 リュックから取り出した消毒液を頭から被り、手には医療用のゴム手袋をはめる。


 あまりの豪快さに真信が驚いたその時、建物が大きく揺れた。まるで地響きのようだ。天井から落ちてくる粉にマッドが舌打ちする。


「なっ、なんだ?」


 揺れはすぐに収まった。地震という感じではない。建物の一部が爆薬で吹き飛ばされたような、人口の揺れの臭いがする。


「真信サマっ。ソれ持っテって」


 マッドから投げ渡されたのは、ゴムボールのようなものだった。先日見せられた催眠薬の試作品に似ている。


 マッドは手を止めることなく目前の傷に意識を集中させたまま言った。


「一個だけ完成デしたです」


 マッドがこれを渡すということは使う場面があるということだ。つまり大勢の敵が侵入しているということ。それは、深月の身の危険を表していた。


 真信のやるべきことは、別にあるのだ。


「ありがとう」


 マッドに礼を告げ、ボールをポケットに入れた。


「真信、様……」


 身体を引きずって静音が近づいて来る。彼女は真信よりも重症なはずだ。しかしその顔からは、彼女が肉体以外の痛みに耐えているのが分かった。


 奈緒を撃ったことを静音がどう考えているかまでは分からない。けれど、その顔は青ざめ悲痛に歪んでいた。


 辛い役目を押し付けてしまった。それだけは分かる。だから真信は静音の肩を叩き、多くを語らずその場を託した。


「静音。二人を頼む」


「──っ。……はい」


 真信は一瞬だけ倒れた奈緒を振り返る。そうして静音に二人を任せ、真信は深月の消えた通路へと駆けだした。


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