命一つ


「四年前、あなたはあたしの家族を殺した」


 奈緒が何を言っているのか最初、理解できなかった。なぜならそれは奈緒が偽の経歴カバーとして使っていた『木蓮奈緒』の話で、彼女のことではないと思っていたから。


「人間って面白いですよね。自分で見つけた真実はそれが本物だって疑いもしない。経歴の偽装を一つ見つけたらそればかり信じて、もっと前に遡って調べたりはしないんですから」


 その言葉で真信はようやく理解した。奈緒が今まで彼に嘘をついていたことを。そして彼女が、かつて真信が撃ち殺した一家の生き残りであることを。


「キミが、あの時の人たちの……」


 少年の呟きに、奈緒は口元だけに歪んだ笑みを作る。


「あはっ、覚えてたんですか。そうです。あたしにはお姉ちゃんがいます。あたしは深月先輩に嘘をついたことはありません。あの人の信じた通り、あたしが『木蓮奈緒』なんですよ」


 少女は冷めた目付きで自分の胸に手を当て己を定義する。そして手にしていたリモコンを放り捨てた。真信達を檻から出すつもりはないという無慈悲な宣告であった。


「あたしは家族のかたきを取るために。復讐を果たすために生きてきました。そのために同姓同名の拷問姫ごうもんきの死体と入れ替わったりもした」


 真信は、静音が疑問に思っていたことを思い出す。残忍非道の拷問姫は中学に上がってから仇討ちに限って仕事を引き受けるようになった。そこに何か心境の変化でもあったのだろうかと。


 違ったのだ。変わったのは心境ではない。人そのものが変わったから方針もまた変わったのだ。


 つまり拷問姫と呼ばれた少女はすでにこの世に亡く。いま目の前にいるのは、仇討ちの代行者である『誅伐者パニッシャー』なのだ。


「どうして、復讐なんか……。復讐に価値なんてないって言ったのは、奈緒じゃないか」


 少年がなんとか喉から絞り出したのは、以前少女と語ったことだった。奈緒は確かに言っていた。復讐に価値などない。忘れて幸せを求めたほうがいい、と。


 しかし少女は忌々しげに真信を見下ろし、眉間にしわを寄せる。


「同時に言いましたよね。価値なんてどうでもいいんです。あたしは、割り切れないだけなんですよっ」


 少女の握り締めた拳は力を込めすぎて白くなり、やがて爪が皮膚を切り裂いたのだろう、指の合間から真っ赤な血をこぼし始める。


 その手で真横に空を切り血を撒き散らしながら、奈緒は憎しみのままに叫んだ。


「だって、あたしの家族は何も悪いことなんかしてなかった! 悪を正そうと立ち上がっただけ。目の前の不幸を見過ごせなくて、助けたかっただけなのに。どうして殺されなくちゃいけなかったんですか。どうして、幸せな未来を奪われなきゃいけなかったんですか! どうしてあたしは……生き残ってしまったんですか」


 言葉は次第に小さく、弱々しくなっていく。皮肉にも向けられる感情のうねりが、真信の奈緒への理解をもたらした。


 彼女の中で木蓮奈緒とは、家族を犠牲に生き残った罪人なのだ。一人今も生きていることが、命を奪ったのと同等の罪であると思い込んでいる。


 真信はそんなのはおかしいと声を上げようとして、意味がないことに気づく。真信もまた彼女にとっては同罪の罪人だから。そんな人間の言葉が、彼女に届くはずもない。


 少女は膝を付きそうになるのを懸命に堪えて、さらに告白を続ける。


「分かりますか? 楽しいって思うたび、幸せだって思うたび、それをもう二度と手に入れられないあの人たちの姿が浮かんで、心が空っぽになるんです。どうしてここに、みんなが居ないのかって……」


 恐怖に抗うように身体を抱く。手から溢れる血が白いセーラー服を汚す。少女の瞳に、再び憎悪の火が灯った。


「許せない。忘れない。許さない。忘れられない! 命をっ、家族の未来を奪ったその人間が生きている理不尽が、不条理が! あたしには許せない! 割り切れない!」


 叫ぶ少女の中に未来はない。過去にだけ囚われている奈緒にとっては、自分の幸せなんてどうでもいいのだ。理想を語りながらそこから自分を切り離してしまうくらいに。


 だからこそ、終わりは相手の命か、自分の命でなくてはならない。


 復讐劇は、どちらかの罪人の命で幕を閉じる。


「もう疲れたんです、あたし。

 憎むのに疲れて、悲しむのに疲れて、責めるのに疲れて、責められるのに疲れて、殺すのにも疲れた。

 悪意の理由を聴くのはうんざり。人間は身勝手な生き物だと繰り返し理解させられる。自分も同じ人間なんだって思うと虫唾むしずが走る。もう嫌だ。聴きたくない。これ以上絶望させないでほしい……。

 けど、あたしはこれを続けなくちゃいけないんです。そうやって何度も憎しみを再燃させないと、家族に申し訳なくて自分を見失っちゃう」


 ──幸せになるのが怖い。だってそれは、家族を犠牲にして手に入れた幸せだから、と。


「もう終わらせましょう」


 奈緒は打って変わって穏やかな表情になった。


「先輩のほうは静音さんのほうより電流弱めたんですから、動けるでしょ? さあ、銃を構えてください」


 微笑みすら浮かべて少女は言う。それは事が、もう後戻りのできない終幕へ入ったことを意味していた。


「あたしが死ぬか、あなたが死ぬかしかないんです。それでしか終わらせられないんです。解放されないんです。ほら、先輩。撃鉄を起こして? 命に値するのは、命だけですから」


 促されるまま懐から拳銃を取り出しながら、真信は考えた。


 他に道はないのか。何か、彼女を救うドラマチックな奇跡が起こらないかと。


 けれどそんな願いは、現実の前に無意味だ。


 この世は優しい人間への思いやりなんて持っていない。世界にドラマなんかない。あるのは人間の感情と、偶然の重なりによって必然へと変わる悲劇だけ。


 真信は震える手で撃鉄を起こした。少女の心臓に銃口を向ける。


 それで、はっきりした。


(…………撃てない。僕には奈緒を、殺せない)


 命は人間の感情で選別していいものではない。いままで仕事で奪ってきた命と、目の前の少女とを区別してはいけない。

 悩むべきでない。今まで殺しに感情など見出してこなかったのだから。今回もこの引き金を引いて、それで終わりにするべきだ。


 けれど、殺したくない。死んでほしくない。生きていて欲しい。その想いを止められない。


 真信だってべつに死にたいとは思わない。まだやるべきことが沢山あるのだ。

 それでも。


(僕には無理だ)


 憎しみを向けられる人間はどんな形であれ、その復讐を終わらせる義務があるはずなのに。


 自分には、どっちの命も選べない。


 胸の中にストンと落ちた結論に、真信は構えた銃をそっと下ろした。


「……天秤てんびんから降りる。それがあなたの答えですか」


 耳に届く呟きは、どこか悲しさに満ちている気がした。


 拳銃を包む奈緒の手に力が籠る。腕を真っすぐ伸ばし、引き金にゆっくりと指をかけた。


「さようなら、真信先輩」


 引き金が引かれ、直後、部屋中に乾いた銃声が響いた。音の余韻がいつまでも後を引き、硝煙の香りが漂ってくる。


「…………っぁ?」


 けれど、真信は死んでいなかった。


 身体を揺らすのは奈緒だ。銃を構えた奈緒の腹部に、真っ赤な染みが広がっていく。


 真信は撃てなかった。ならば何が起きたのか。理解の追い付かない事態に、真信はなんとか上半身を起こして檻にもたれた。


 真信の視線の先で、少女がたたらを踏み、拳銃を取り落とす。その手で自分の腹を押さえ、離したそこに温かな血液がついているのを見た。


 奈緒それで察したようだ。


 少女が首だけを動かし振り向いた先には、檻の向こうで倒れたまま痛みと痺れに耐え、歯を食いしばってふらふらと拳銃を掲げる女性の姿があった。


「ははっ――――ごほっ」


 少女が咳き込み吐血する。内臓が損傷しているのだろう。手のひらに広がった血の量は思ったよりも多かった。


 奈緒の瞳から、だんだん光が遠ざかっていく。


 口から零れる血を拭いもせずに、奈緒は真信を見つめた。何かを伝えようと、その胸を押さえる。


 少女は胸元で手をぎゅっと握り締め、微笑みと共に、かすれた声で一言だけ告げた。


「――――好きです……」


 その瞳からこぼれた涙の理由わけは、いったい何だったろうか。


 奈緒は真信に手を伸ばそうとしてあえなく膝をつき、そのまま前のめりに倒れた。


「な、お……っ奈緒――――!!」


 少年の絶叫は、もう少女には聴こえない。



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