誰そ彼


 針木ムギが一人公民館を出ると、いつの間にか日は暮れかけ、夜の時間が迫っていた。


 町に百体近く存在する地蔵の由来を、どうすれば多くの人間に周知できるか。そう案を詰めていたら少し長居しすぎてしまった。


 老婆は痛みを訴える背骨をゆっくりと伸ばす。米寿を目前とした老体には事務作業ですらいささか辛い。しかし可愛い孫のためと思えばやめるという選択肢は浮かばなかった。


 常彦の両親は放任主義だ。だからこそムギが常彦のをしなくてはならないと、ひそかに意気込む。


 ──あれは犬神の憑き物筋だから、深入りしてはいけないよ。


 もう遠く過ぎ去った幼い頃、母が自分にそう忠告したのを覚えている。


 確かにここ数十年、樺冴かご家が町人に害を及ぼしたという話は聴かない。だが前例がある限り安心などできるはずもなかった。


 あんな家の人間と関わればいつか常彦は呪われてしまう。そんなことは許せない。


 必ず、常彦の周囲から化物を取り除くのだ。


 ムギが改めて決意を固めていると視界にお地蔵さまが映った。お供えしてあったであろう紫色の花が、花差しから引き抜かれ散らばっている。


「こぎゃんこつしたのは誰かい。罰当たりなっ」


 どうせ育ちの悪い子供の仕業であろうと決めつけ、針木ムギは丁寧に花を集めて供えなおす。


 そのまま屈み、お地蔵さまに手を合わせた。孫を、自分を、あらゆる災厄から守ってくださいと。


 丁度、夕と夜との境の時間である。老婆の頭上で白熱電球がちかちかと瞬き道の電灯が点り始める。


 眼を開けると地蔵の顔に影が落ちていた。電球の強い光で、光輪の外が一段と暗くなったように思えた。


 なんという皮肉だ。文明の光が、逆に闇を際立たせる。


 見渡せる範囲に人はいなかった。そう油断して立ち上がったムギの背後で、軽やかな声が響いた。


「おひさしゅうございます。熱心な信者もまだ数多きご様子。安心いたしました」


 ムギはぎょっとして反射的に振り向いた。


 そこにあったのは、セーラー服に身を包んだ少女だった。夕闇に紛れ姿形が判然としない。色素の薄い長髪だけが、陽を反射して風景に浮かんでいるようだ。


 少女はまるで長いこと人待ちしていたように手を後ろで合わせ、背にした民家のへいに寄りかかっている。


 老婆の肌が粟立つ。


 おかしい。


 ついさっきまで、そこに人などいなかったはずなのに。


 見た目は先日見たあの少女だ。しかしなにかが違う。


 電灯に群がる虫の弾かれる音だけが聞こえる中、ムギは思い至った。今は黄昏たそがれ時。いわゆる誰そ彼。人ではない異形が、人に混じって跋扈ばっこする時間である。


 塀から身を離し、少女の姿をしたなにかがムギへ近づいてくる。その足取りは不自然に重く、不安定だ。


 老婆は思わず逃げ出すように後ずさった。しかしどうしてか、光輪から出るのは心理的な抵抗がある。結果、先程の立ち位置から右へ体をずらしたようになった。


 少女が目前へと迫り背中を冷や汗が伝う。声も出せないまま棒立ちになる。


 だが電球の照らす輪に半身だけ身を乗り出した少女は、そのまま老婆には目もくれず、地蔵に微笑みかけた。


「この町で始めに造られた、原始の地蔵さま。近頃は勘違いしている人間の多いこと、同情に耐えません」


 少女のどこか芝居がかった喋りを聞いて、ムギは自分の中に芽生えた違和感の正体に気がついた。


 この少女は、忌まわしき犬神憑きの娘は、脇に佇む老人になど話しかけていない。彼女が言葉を投げかけるのは正面に鎮座する古ぼけた地蔵に対してだ。


 もちろん返答などあるはずもないのに、少女は続ける。


「あなたが町の人々を私から守っているわけではありませぬ。我々こそが、地蔵を慈しんでいるというのに。

 私はあなた達が傷つくのを見たくありません。ですが、この平穏をあえて乱すやからがいるのなら、仕方がないのでしょうね」


 心底残念だというように少女がかぶりを振る。


 瞬間、周囲の景色が消えた。光輪の外が真っ黒に染まる。


 急に夜が降りたわけではない。なにかに周りを包まれたのだ。闇が生物のようにうごめいたことで老婆は気づく。


 ────ここはすでに、化物の喉元だ。


「──ひッ」


 首に冷たい感触を感じて、針木ムギは縮み上がった。喰われる。そう思ったから。


 しかしいつまで経っても予想した痛みはやってこない。恐る恐る腕の隙間から顔をあげる。するとあの闇はどこにもなく、普段通りの夕暮れがあった。


 幻覚でも見ていたのかと胸を撫で下ろすと、ごとりと重たい音がして、足元に何かが転がってきた。

 不自然なほどに丸い石だ。その石には凹凸があり、陰影は顔のように見えた。


 その正体に思い至って、老婆は声にならない悲鳴をあげた。


 それは地蔵の首だった。

 さっきまで普通に鎮座していた地蔵の首が砕け、そのまま落ちたのだ。


「お痛わしい、身代わり地蔵さま。あなたお一人では、一度しか信者を守れない」


 唄うように軽やかな声がする。まだ幼さの残るその声はどうしてか耳に残る気がした。


「平穏が取り戻されるなら、私はあなた達の加護の尽きるまでこれを繰り返しましょう。何体土塊つちくれに還せば、私の牙は不埒ふらち者に届くでしょう? それとも今まで通りの沈黙が帰ってくるほうが早いでしょうか」


 それは他ならぬ針木ムギへの忠告だった。

 いくら地蔵に祈ろうと、全ての地蔵が壊れるまで手を止めることはしないという。


 最初から認識が違ったのだ。樺冴の人間がその気になれば、地蔵の有る無しに関わらず老婆一人など捻り潰せる。いままで町が平和だったのは地蔵の加護ではなく、少女の慈悲によるものだった。


 震え上がる老婆の足元から少女が地蔵の頭を拾い上げる。そうして丸い頭を撫でて、地蔵の胴体に頭を乗せた。


地蔵菩薩じぞうぼさつよ、心正しき人を私自ら害することはありません。人々の祈りをお守りください。……私が怒りに手を滑らせぬように」


 少女は最後に首の割れ目を指でなぞり、優しい笑みを浮かべて闇の中へ去っていった。


 いつの間にか腰の抜けていたムギが立ち上がる頃には、少女どころか夕日すら姿を消していた。


 ムギが恐々こわごわと地蔵に手を伸ばし頭に触れると、びくともしない。それどころか確かにあったはずのひび割れすら見当たらなかった。


「…………奇跡か」


 気がつくと、ムギは無意識にそう呟いていた。


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