土塊よりも
時は十九時を過ぎ、辺りはすっかり暗くなってしまった。
「あ~、ダメだ疲れたー」
誰にともなく不満を呟きながら、深月は幽鬼のように
いっそ狗神に乗って飛んで帰りたいが、まだ人通りが絶えていないうえに、深月の実力では
老婆が公民館から出てくるのを待つだけで辛かったが、術を使うのにずっと気を張っていたので余計に疲れた。
(ああいう手合いは定期的に沸くからなー)
普段は無関心で静かにしている町人だったが、時々ああやって騒ぎ立てる人間が現れる。
樺冴家への恐怖を打ち消しているのは、信仰だ。
深入りせず、伝承に従って野菜や物を贈って自分の身を守る。万が一呪われようとも、身代り地蔵が傷を引き受けてくれる。
だから、自分には関係ない。
自分だけは安全だ。
そういう根拠のない妄信的な安心感。それにより樺冴家と町人との間には適切な距離が保たれる。
だが身内や知人が樺冴の人間と接触した時、町人は気づいてしまう。
眼を背けようとそれは常に存在する。しかも、思ったより身近に住んでいるのだと。
そうして突如恐怖を実感した人間は荒れ狂うのである。だからこそ深月はあまり他人と関わらないようにしていたのだが……。
今回の起爆剤は、
過保護な祖母と、彼女に懐いているかわいい孫。そこに毒のある虫が近づけば、保護者は庇い、殺虫スプレーでも噴射するだろう。
狗神にはスプレーなど効かない。しかし煙たいのは嫌いだった。
町を離れられない樺冴家は町人と敵対するわけにはいかない。だが、そのままにもしておけぬ。
(さくっと殺すっていう手もあったけど)
その権限が樺冴の当主には与えられている。
しかし針木ムギの反応は人として当たり前のものだった。それに深月は快楽殺人鬼などではない。殺すほどの理由ではなかった。
(それに……)
あの少年が言ったのだ。
『友達には、心安らかに過ごしていてほしいよね』と。
彼の作るご飯は美味しい。ずいぶん我が
「考えてたらお腹空いてきたなー」
この一週間、あの少年は本当に深月の食事を三食用意するようになった。そのせいで深月の食生活は改善され、麻痺していた空腹感まで取り戻しつつある。
(でも今日は直帰でいいって言ったから、いないよね)
いないはずだ。そこまでの義理は彼にはないだろう。
冷蔵庫の中には何かあっただろうかと記憶を辿る。いつの間にか屋敷に到着したので、風鈴に声をかけて殺風景な玄関土間に入った。
異変にはすぐ気がついた。誰もいないはずの屋敷に、なにやら良い香りが漂っている。
背後でなぜかもう一度風鈴が鳴る。その音を聞きつけたのか
「おかえり、深月。ご飯作ってあるけど食べる?」
お玉を持って出迎えたのは他でもない。真信だった。
深月の中に驚きだとか困惑だとかが去来する前に、お腹が鳴った。
「…………」
醤油の焦げる臭いは空腹に刺激が強すぎたのだ。
「お腹減ってるよね、すぐご飯よそうから待ってて」
「今日は直帰じゃなかったの?」
身を
お腹が空いた。ご飯がある。それはいい。
だが、なぜこの少年がここにいる?
「僕もそのつもりだったんだけど。野菜買うとき間違って、深月から預かってる食費のほうで支払っちゃってさ。量も多いし、こっちで作りおきしていこうと思って」
「なーにそれ」
真信の返答を聞いて、深月は呆れてしまった。人がよく死ぬこの屋敷で、この態度。なんと呑気なものか。
「そっかー、うん。じゃー食べる。今日の献立は?」
「いいお野菜が格安で手に入ったから。いつもより工夫を凝らしましたとも」
真信が自信満々に胸をそらす。深月は着替えを後回しにして、そのまま座卓についた。
木目の上に突っ伏し背伸びをする。筋肉がほぐれて気持ちがいい。
横目でエプロンを着けなおす真信を盗み見る。すると台所に向かおうとした少年が、何か思い出したように振り返った。
「そうだ、深月」
「なーにー?」
「この町の人はいろいろ言うけどさ、僕はお地蔵さまなんかより、深月のほうが信頼できるよ」
少年は何気なく言って、のれんの向こうに消えていった。
「…………あんにゃろ」
さらに、深月の身体から力が抜けた。
襖の向こうの廊下では、餌入れにご飯を貰った三毛猫が舌舐めずりをしている。
その様子を眺めながら、もはやどっちが飼い主なのか分からないなと、深月は苦笑をこぼした。
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