町の人々
──きっかけが思い出せない。
そんなことを考えながら、放課後の商店街を真信は一人で歩いていた。
あの屋敷に通うようになって一週間が経過した。今日も深月と帰る予定だったが、放課後に用事があるから直帰していいと言われたのだった。
雇用主からそう指示されれば下僕な真信は従うしかない。
(そういえば、あの質問は何だったんだろう?)
去り際「友達は大切?」と無表情で訊かれた。
あの質問の意図はなんだろう。答えた内容に今後を左右する大切な因果があるのか、それともただの思いつきだったのか。
「気にしてもしょうがないか」
自身の中に答えのない疑問を切り上げて、真信は思考を戻す。
いったい自分はいつから平賀家から逃げたいと思い始めたのか。
そのきっかけを、真信は思い出せないでいた。
生まれたときから平賀の家で、平賀の常識に囲まれて育った。
金さえ積まれればどんな汚いこともやる。それは世間の表面を平和に保つための必要悪の一つでもある。決してなくならない。誰かがやらねばならない。その役割を長年負ってきたのが平賀家だ。
社会の歯車、その最下層。しかしこの歯車は、上から降ってくる汚いオイルに
真信自身も平賀の仕事を、仕事と割りきってこなしていたはずだ。
ならばいつから真信はあの家から逃げようと考え始めたのか。
最初からではない。だとすると、どこかに始まりがあるはずだった。人は理由もなく涙を流せない。感情の動きには全て理由があるはずなのに。
思い返すと、あの頃はただ逃げたい逃げたいとばかり考えていた。
冷えきった廊下を歩いているときに、ふと自分の中身が空っぽになるあの感覚。
今しがた考えていた思考がどこかに滑り落ちて、代わりに心臓から送られる血液の圧力だけが脳に響く。
目玉を動かして捉える視界は油絵のようにのっぺりしていて、立っている場所が
そんな錯覚ばかり覚えていた。
その度に、嫌悪感と逃避衝動が胸の内に
しかしその不満の出所を真信は把握していなかった。
それはいつの間にか真信の中にあって、存在が当たり前になっていた。感情の始まりなどとうに忘れてしまうほどに。
逃げ出すことができた今、改めて考えてみると不気味だ。自分はいつその衝動にとり憑かれたのか。
何が原因だったのか。
分析できないものは正常な思考の邪魔になる。
(僕は何から逃げ出したかったんだろう)
それは平賀の家業からだったかもしれない。
もしくは勝手に繰り広げられる後継者争いからか。
あるいはそれに
どれもしっくりこなくて、真信は首を
全て空虚に割りきってしまえるくらいには、慣れ親しんだものだったはずなのに。
自分は何に耐えかねて、ここにきた?
「────おい、──ず」
どうして自分は今の状況に満足していられるのだ。他者に命を握られ、逃げ出したはずの光景を見せつけられて。
「おい、坊主! 買うのかそれ?」
「──あ」
呼び声に我に還って、真信は眼をしばたたかせた。
どうやら八百屋の前でぼんやりと突っ立っていたらしい。手には丸々とした大ぶりのジャガイモが握られている。
無意識の内に野菜を選別していたようだ。
「すみません。もうちょっと見てていいですか?」
頭を掻きながら苦笑を浮かべると、八百屋の男は口のなかで何か呟きつつ離れていった。
(気が抜けすぎてるなぁ)
実家では決してしなかった失態だ。しかしこれも心に悩む余裕が生まれたからだと、前向きに考えることにした。
「これをちょうだいな」
「あいよ、三百円ね」
小銭が渡される音が間近で聞こえた。自分以外にも客がいたのかと横にずれようとして、真信はふと隣を向いた。
そこいたのは腰の曲がった老婆だ。団子鼻の目立つ横顔には見覚えがあった。先日見たばかりで、なおかつしばらく忘れられそうにない顔だった。
友人の
正直に言えば無視して立ち去ってしまいたかったが、真信は思案を廻らせ、挨拶ぐらいは必要だろうという結論に落ち着いた。
「こんにちは」
できるだけはっきり、ゆっくりと発音することを心がけた。無愛想だと余計に悪い印象を与えかねないからである。
老婆は最初、人のいい笑みを形作ったまま真信を振り返った。
そうして真信がこのまえ顔を会わせた若者だと気づくと、今度はじろりと彼の全身を見回す。
真信は標準通りの制服の着こなしをしているが、この時は暑いからと乱雑に
そこに人間的だらしなさでも見てとったのだろう。老婆の視線が怪しく光る。背筋が伸びて
他者を見下せる部分を見つけ出して心理的余裕を確保する。年老いて一線を退いた人間のよくやることだ。
人間は善意の剣で武装し、己の劣等感を誤魔化すために他人を見た目や属性で分類する。そうやって自分を守る生き物だ。
そう考えると目前の老婆は、どこにでもいるありふれた老人そのものであった。
「あんた、あの小娘と一緒にいた子だね」
老婆は尊大に真信を見上げた。その態度に真信は違和感を覚える。
真信が深月と共にいたことを老婆は知っている。では浮かぶ表情に欠片も恐怖が混じっていないのはどうしてか。
この前はあんなにも取り乱していたというのに。なにか精神的に優位に立てることでもあったのだろうか。
「そうですよ。常彦くんにはお世話になってます」
小娘と、深月をぞんざいに扱われたことに微かな苛立ちを感じながらも真信は笑みを作った。
老婆はその表情を見て、真信を友好的な者だと勘違いしたようである。態度から若干のトゲが消え、手を
「あのねぇ、善意から言わせてもらうばってん、あの子とは関わらないほうが身のためだよっ。うちの
「それはできない相談ですね」
「僕らはもう、友人は自分で選べますので」
別に深月を
自分の価値観を押し付けるのを、正義か何かと勘違いしているこの人達に。
老婆は真信の言葉でまた態度が
この反応は予想できていた。
人間が最も
「なっ──、何も知らないからそぎゃんこつ言えるったい! 大人が子供を心配さして守ろうとするんは当たり前だけん! それをっ、それをそげん言い方、……馬鹿にするのも
そう早口に怒鳴り付けられさすがの真信も困惑してしまった。方言
「あの家んガキはあたしが絶対追い出すけんね! 孫のためなら何でもするっちゃけん、あんたもすぐ自分の間違いに気づくばい。あたしは、正しいことしか言っとらんっ!」
一方的にがなりたてた老婆は、荒々しげに背を向けて去ってしまった。
「正しい主張が正解だとは限りません」
真信はそう呟いたが聴こえなかったらしく、老婆は振り返ることをしなかった。
背中が見えなくなってから、一連の騒動を見ていた八百屋の男がおもむろに真信へ寄ってきた。
「悪いね坊主。あの人ちょっと信心深いとこがあってね。悪い人じゃないんだ、許してやってくれよ」
五十代後半くらいの、日に焼けた肌をした男は苦笑いを浮かべている。
真信はふと視線を下げて指についた土の触感を確かめた。
「これ、屋敷に押しつけられてたのと同じジャガイモですね」
昨日触ったものと土の柔らかさが同じだった。
男は一瞬心臓をつままれたような顔をした後、口の端だけひきつらせた。視線も真信からそらされている。
この男が全てやったわけではないだろう。しかし事情を知っているのは事実のようだ。
真信はこれ見よがしに大きなため息をつき、眼をつけた野菜を順に指差した。
「これと、あれと、それ。もう少しお安くできますよね?」
真信はわざと高くて身振りのいい野菜を選んだ。
肩を落とし
「勘弁してくれよ。あれは親父の時からの慣習なんだよぉ」
「でしょうね」
男の泣き言に耳を貸す義理はない。真信が財布を取り出したその時、頭上を大きな影が通りすぎた。鳥かと思って見上げるが、何もいない。
道の隅では、お地蔵さまが我知らぬと云うように優しげに笑っていた。
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