主従の形


 もはや懐かしい彼女の香りが鼻孔をくすぐる。自分の首に細いなにかが回され、視界には光を透かすブラウンの髪の端が揺れた。


 一瞬遅れて真信は、自分に抱き着いた少女が肩越しに身を乗り出し背後へ手を伸ばしているのだとさとった。


「わんこ――」


 幼さの残る涼やかな声が耳元で鳴って、真信はそれが現実なのだと理解する。


「──まて」


 力なく伸ばされた深月の右手が、少年を噛み砕かんと迫る狗神の鼻先に触れた。あるじの声にピタリと静止した狗神は、暫時ざんじ小刻みに震え、渦を巻くように収縮し始める。先程まで猛威を奮っていた怪物はものの数秒で姿をかき消した。


 ブラウン管のテレビを消した時に似た、絞りきられたような沈黙が満ちる。

 深月の身体が離れて目の前にはだけた着物からのぞく白い肩口が現れた。深月の眠たげな眼が真信を見つめている。潤んだ瞳が人待ちをするように揺れた気がした。


「深――――」


いぃ。うへぇー。まーずいよぉーっ」


「のわっ」


 儚げな少女の顔が唐突に歪んだ。真信の膝に乗ったまま、深月は彼の肩に額をぐりぐりと押し付ける。


「あーもう、口の中が甘くて辛くて苦くてしょっぱいー」


 不平を言いながら真信の胸をこぶしでポコポコ殴る。どうやらあの飲み薬はよほど酷い味がするらしい。マッドは気付け薬と言っていた。不味さで必ず目覚める類の劇薬だったのかもしれない。


 大きなため息をついて深月はようやく落ち着いたのか、真信の肩から顔を上げた。少しふらつくのを少年に支えられて少女が苦笑する。


 少し困ったように眉が寄り、細められた瞳が光をゆらす。口元がはにかむような弧を描いて、すっと通った鼻筋に薄く影がかかった。


「変なもの飲まされて、うるさーいくらい名前呼ばれてさ……。思わず起きちゃったよ」


 真信にはそれが、どこか泣き出しそうな、慈愛に満ちた優しい微笑みに見えた。


「────っ」


 言葉にできない様々な感情が噴き出し少女を抱き寄せる。ちょっと驚いた顔をした少女も、彼の肩が震えているのを見て、その背中に手を回した。


 抱きあう二人が互いの熱を確かめ合う。真信は嗚咽を噛み殺しながら、折れそうなほど細い少女の身体を強く、強く抱きしめた。


「よかった……よかった……深月っ」


「うん」


「ごめん。……傷つけてごめん。逃げ出してごめん。キミを信じてあげられなくて、ごめん」


「……真信が謝ることじゃないよ」


 深月が真信の頭をなぐさめるように撫でる。しかし少年は首を横に振って身を離し、彼女の手を握った。


「いいや、謝らなくちゃいけないんだ。じゃないと僕は、胸を張ってキミの隣にいられない」


 強い意志の籠った瞳が深月を見つめる。少女の顔は瞠目どうもくと、身の内から湧き上がる暖かな気持ちとに揺れ動いていたが、やがて全てを理解したように目を伏せてやすらかな微笑を映した。


「そっか……。全部、ごめんね。それから、全部ありがとう、真信」


 真信の手に自分の手を重ね、深月はそのまま続ける。


「真信が私に対して何か負い目を感じているならさ、そんな必要ないよ。それは、お互いが最善を願って行動した結果のはずだから。こうして一緒にいられるのなら、それでいーよ」


 自分を縛るかせから逃げ出した真信の抱く、深月へ対する後ろめたさ、劣等感。深月がそれを見抜いているとは思えない。ただ少年の謝罪を受けての言葉に過ぎないだろう。


 だが、真信にはそれ以上の意味があった。


(ほんと深月は、僕の欲しがってる言葉を簡単にくれるよね)


 救われてばかりだと、内心で不甲斐ふがいなくごちる。だからこそ真信は深月へ宣言した。


「これからは僕が君を助けるよ。僕は深月の世話係で、下僕だからね」


 安心させるように精一杯に笑って、深月を膝から降ろす。そうして立ち上がると、いつの間にやら静音が脇に控えていた。


「お待ち下さい。元が我々の任務の産物だったからこそ、カミツキ姫の救出に助力しました。ですがこれ以上その方と関わるのは黙認できかねます」


 憮然とした態度でそう言う。静音自身は目を背けているので本意ではないようだが、どうやらこれは真信の元に集まった門下達の総意であるようだ。静音は彼らを統括する立場のため出てきたのだろう。


 静音の心変わりも意外だったが、真信は彼らの言葉を聞くわけにはいかない。


「もう決めたことなんだ。僕は深月と行くよ。お前達も、このまま僕についてくるなら協力してもらう」


「以前にもご忠告したはずです。樺冴家と関わるのは危険過ぎます」


「そんなの平賀出身者が言う台詞せりふじゃないだろ。呪術を恐れるなら、これから正しく知っていけばいいだけだ」


 樺冴家の危険性を危惧きぐする言葉に真信は自分なりの主張を返す。真信も静音達も、実のところ呪術に詳しいわけではない。言い分に根拠がないのはお互いよく知るところだ。


 こうなったら意地の張り合いかと身構えたが、静音は異議を唱えはせず、ただ懇願するように真信を見据え胸を押さえた。


「私たちが仕えるのは真信様──貴方一人です。二君にくんを持つつもりも、貴方の上に誰かを認めることもない。……これだけは譲れません」


 真摯しんしな視線でそう断言されると真信は弱い。どう言えばいいのか答えに窮していると、隣から声が上がった。


「何かよくわからないけど、あなた達、勘違いしてるよ」


 口を挟んだのは深月だった。少年に支えられて立ち上がった少女は、静音だけでなく門下の者達も見渡して平然と言う。


「確かに真信は私のお世話してくれるよ? ご飯を用意してー食べさせてー、お風呂を沸かして髪乾かしてー、くしをとおして──」


「そんなことまでしていたのですか」


「えっ、世話係ってそういうものじゃないの!?」


 ジトっとした非難の視線が真信に突き刺さる。それは静音だけではない。門下全員が真信を糾弾する視線を向けていた。

 予想外に批判を受けて少年が狼狽うろたえる。真信にしてみれば真面目に役割をこなしていたつもりだったので、非難されるとは思っていなかったのだ。


 深月はそんな少年の腕をかき抱き、門下達に向けて妖しく挑発するような笑みを浮かべた。


「そうだよ」


 顔を赤くして硬直する真信を意に介さず、深月は彼にしなだれかかって妖艶に微笑む。


「私を誰だと思ってるの? 狗神の姫だよ? そんな風に狗の世話する立場なんてひとつだけじゃん」


 イタズラっぽく言って、もう片方の少年の腕をとり、その手のひらを自身の首筋へ持っていく。細い首に真信の武骨な指が食い込むほどに押し付け、深月は笑った。その姿はどこか、首輪をつけられた人間のようだった。


「私の飼い主の決定に難癖つけるなら、容赦よーしゃしないけど?」


 深月の背後に狗神が姿を現す。暴走する素振りはない。今度は完全に制御されていた。


 余人の意見など簡単に打ち砕く力をちらつかせる深月に、静音たちは反論できない。いや、反論などあるはずもなかった。


 主の頑固さなどとうに理解している。そんな門下達にしてみれば、自分達の仕えるべき人間さえ明確にできればよかったのだから。


「真信様はそれでよろしいのですか」


「えーっと……。なんかいろいろ予想外だけど、深月がそう言うなら文句はないよ」


 関係性が混沌こんとんとしてきたが、皆が納得しているならいいだろうと真信は結論付ける。


 門下達は警戒態勢を解き、マッドは三毛猫と遊んでいる。真信も安堵のため息をつく。


 とりあえず危ない橋は渡りきった。後は帰るだけだと油断していたそんな中、突如白々しい拍手が響いた。


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