最後の決断


 肉が弾けた。

 血が舞った。


 白スーツを着込んだ肩口から腰骨までがごっそり削られ、かすかに残った左半身が頭部の重さを支えきれず、裂けたチーズのように項垂うなだれる。


 それを、真信は確かに見た。

 はずだった。


「だがね、贖罪しょくざいに生きるのはとうに飽いてしまったのだよ。もういい加減に終わらせたい」


 真信は、信じられないものを見ていた。


 削れた肉が盛り上がる。失われたはずの血液が湧きだす。骨が独りでに組み上がり、霧散した人体を再び形成していく。


 現実離れした異様な光景に、誰もが言葉を失っていた。


「ははははは、何も驚くことはない。言っただろう?」


 ――――狗神は、最期の力を振り絞って男に呪詛の言葉を残した、と。


 上下のひっくり返った頭の、口がそう動いた。

 胴体が出来上がるにつれ頭は徐々に持ち上がり、元の位置へと戻る。


 繊維が織り込まれ、ついに真っ白なスーツまでもが完成した。


 狗神の牙が食い込んでいなければ時間が巻き戻ったようにしか見えなかっただろう。


 死体を玩具にする愚者が生み出したグロテスクな塊なら、任務の途中に幾度も見た。だが死んだはずの体が再生し再び動く様など真信は知らぬ。


 樺冴家の事情が伝えた呪術の、呪詛のおぞましさなど、まだ入り口に過ぎぬことを理解させられる。


 真信の脳裏に、樺冴の過去を語る源蔵の表情が再生された。


『中途半端なさかしさ』


 確かにその通りだ。問うべきは、確かめるべきは家名ではなかった。罪人の名前をこそ真信は訊くべきだった。


「まさか、まさかあなたは……百年以上――」


 真信は思い出す。電話の声がやけに聞き取りづらかったのも、その姿が監視カメラにもやのようにしか写らなかったのも。


 この男が、すでに正しく人間ではないからなのだとしたら?


 恐れとも驚愕きょうがくともつかぬ声に、狗神の貌を掴み捕らえた男が微笑んだ。


「なあに、あれからずっと死ねていないだけさ。狗神が消えるその時まで私に死は訪れない。これが陽介いぬがみが私へ最期に贈った呪いプレゼントだ。……まぁそんなことはどうでもいい。さあ手早く先の問いかけの続きといこうか。ほら見てみたまえ」


 狗神を抑えるのに両腕を塞がれた源蔵が、顎でしゃくって部屋の中心を示す。


「君たちがあれほど騒いでも、深月はちっとも反応しない。いや、もはや反応などできんのかもしれん」


(……そうかもしれない)


 低く囁くような声に真信の思考が引っ張られる。慌ててかぶりを振るが、一度受け入れてしまった考えを完全に締め出すことができない。


「ここ一時間、私は深月の様子を見ていた。あれは相当に消耗したはずだ。たとえその怪しげな薬を飲ませようと、深月の心はもう目覚めないかもしれん」


(そうかもしれない)


 真信には彼女の意志を曲げさせることはできない。せめて深月の力になりたいと願っていても、それが本当に彼女のためになることなのか、真信にはわからない。


 彼女の破滅をほんの少し遅らせる。できることはそれだけだ。


「それでもやるのかね。私とていつまでも狗神を抑えておくことはできん。深月が目覚めなければ狗神は君たちを襲い始めるぞ? いっそここで逃げた方が深月のためになるというものさ」


(きっと、そうなんだろう)


 彼女を助けたくてここまで来た。けれど助けてどうする。そもそも彼女にとっての救いとはいったいなんだ。

 どうせ消えてしまう感情と精神。それが少し遅まるだけのことじゃないか?


 手の中の小瓶がやけに重く感じられた。このまま指を滑らせて、ただそれだけで、きっと全て終わる。


 どうせ今回削られてしまった深月の精神はもう戻らない。感情の残量など数値化できるわけもないが、それでもそう多くはないのは確かなはずだ。もう人としての生活すら期待できないに違いない。


(――――――――いや、本当にそうか?)


 記憶の隅に何かが引っかかっていて、大人しく諦めてしまうには邪魔だ。何か重大なものを見落としているような違和感に真信は眉をひそめた。


 すると、またもや源蔵の言葉が思い出される。


『君という新しい刺激を受けて一時的に活力が多少なりとも回復しているようだが──』


 病室で聞いた言葉だ。そうだ、この言葉が引っかかる。聞いた時には特になにも感じなかったが、改めて思い浮かべればやはりおかしい。


(一時的な回復? 違う。心はそんな単純なものじゃないはずだ)


 人の心は、人格は、感情は。たった一人では形作ることすらできない。自分以外の他者がいて始めて、人は己を定義する。


 深月と過ごす真信と、平賀にいた頃の彼とで性格の差があるように。人間は接する相手に合わせて己を都合する生き物だ。


 その変わりようはまるで仮面をつけ換えているようだが、真信は仮面つくりものではない。両方が彼自身で、どれほど変わって見えても、真信は真信以外の誰かにはなれない。


 人は簡単には変われない。それは確固たる自分が己の内に出来上がってしまっているからだ。人間は人と自分とを比べて、好きな物や嫌いな物、人と違う部分と同じ部分とを並べていって、ただ一人の自分という存在を証明していく。


 笑うのも、怒るのも、悲しむのも、結局は外からの刺激を受けての反射に過ぎない。心は外部の刺激によって形成される。


 だから人間が人間らしくあるためには、自分以外の他人が必要だ。孤独は人を成長させるかもしれない。だが、孤独が人間を産むことはないのだから。


 深月にも、彼女の隣を共に歩む誰かが必要なのだ。彼女の背負う物を理解し、呪術の凄惨せいさんさを恐れぬ誰かが。


 その誰かが、今までただ一人もいなかったというだけ。


「救われる道がない? そんなわけない。皆が深月を一人ぼっちにするから、擦り減っていくばかりなだけだ」


 深月には身内がいない。部下も、仮初かりそめの友達すらいない。町の人間は彼女を恐れ、敵は彼女の心を壊しにかかる。唯一の後見人も深月自身を助けてはくれない。


 味方など何処どこにもいない。そんな中をたった一人で深月はいままで戦ってきた。理不尽な運命に立ち向かってきた。


 そんな彼女の強さに憧れた。その強さを支えたいと思った。


 ならば真信がこれからやるべきことは、たった一つ。


「僕は、深月を信じてる」


 その強さを信じぬくことだけ。


 深月はこんなことで負けてしまうような人じゃない。こんな所で終わっていい人じゃない。必ず目覚める。そう信じたいから、理由も理屈も放っぽり出して、ただ信じる。


 そうして確かに胸へ刻み込む。深月と共に生きていく覚悟を。


 真信はもう一度手に力を籠めた。小瓶を落さないようにしっかりと握りしめる。これから先、真信は決して迷わない。そんな少年の決意にスーツの男は笑みを深める。


「そうか、なら君が行きたまえ。余人の声などなおさら届かんだろう」


「言われなくても」


 源蔵の横をすり抜けて深月へと駆け寄る。真信の背中を見送る源蔵の口元には笑みが浮かんでいた。まるでカマキリの尻から目論見通りハリガネムシを引っ張り出した子供のような、残虐で楽し気な笑みが。


 真信が深月の前に膝をつき、倒れたその身を起こすと、頬には涙を流した跡があった。


 いったいどんな酷い幻覚を見たのか。こんな状況にまで彼女を突き落としてしまった事実に胸が絞めつけられる。


「深月、頼む。起きてくれ」


 呼びかけながら閉じた唇に親指を差し入れ、整列した白い歯を押し開く。抵抗なく開いたそこに、真信はゆっくりと小瓶の中身を流し込んだ。


 深月の喉が小さく上下する。そんな些細なことに安心しかける自分を真信はいさめた。


 一秒、二秒待つ。瞳に光は戻らない。三秒、四秒、祈るようにして冷えた彼女の頬を手のひらで包む。


「頼む……深月……」


 虚ろな瞳を覗き込み、ただ待つ。それしかできない己に歯がみしながら、それでも真信はうわ言のように名を呼び続けた。


「くっ、そっちに行ったぞ!」


 源蔵の叫びがあがる。振り返らずとも分かる。狗神が男の拘束を脱し、主に近づく不埒者ふらちものを排除しようと迫っている。


(間に合わなかったのか……?)


 不安がよぎる。すぐ近くでコンクリートのこすれる音がした。

 諦めと、それでも、という思いが心臓でせめぎ合う。


「深月ぃ――――っ!」


 たまらず目を閉じ、真信は懇願こんがんにも似た叫びと共に、絶望の間から大切な人の名前を呼ぶ。


 背後で突風が吹いたその瞬間、やわらかな何かが真信の首に触れた。


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