救出意義


「真信君、君は深月を助けてどうするつもりかね」


 先に立って歩く源蔵がそんなことを尋ねた。質問の意図を掴みかねて、真信は訝しげに彼を見上げる。


「君がどうしようと結末は変わらない。あの子の精神はすぐに喰い尽くされるぞ」


 軽い調子で告げられた言葉に真信はすぐ返答ができなかった。真信自身、悩んでいたことだったからだ。


 運命に立ち向かい続ける深月の力になりたい。真信は確かにそう思う。


 だが同時に、それを否定しようとする自分もいた。狗神の呪詛を削りきることなどできるはずがない。彼女の行く末は変わらないのだと。


 病室で見た痩せ細った女性の姿と深月の姿が重なり、真信は目眩を堪えた。


 信じると、信じたいと思っていても、見せられたあの強烈な結末が真信は忘れられない。表向きは死んだとされつつ、もしもの時のスペアとして生かされ続けるだけの肉体。たとえ心がもう宿っていなくとも、人の尊厳を全て剥奪されたあの有り様は胸に痛い。


 深月にああなって欲しくない。だが彼女が意思を変えない限り、避けられない終わりがある。


「開けるぞ」


 思案しているうちに部屋の前まで着いたらしい。源蔵が壁のボタンを押すと、繋ぎ目一つなかった壁が動き始めた。


 同時に耳元の小型無線から報告があがる。


『プログラミングに基づいて、編集された映像が流れ始めました。そこの監視カメラは全て停止してます』


「そうか」


 ほどなくして背の低い入り口が現れる。促されるまま何気なく分厚い扉をくぐって、真信は言葉を失った。


 体育館ほどの広さの空間だった。殺風景なその中程に、四本の木切れが等間隔に突き立っている。


 その中心に人が倒れていた。端正な造りの人形が眠っているようにも見えるが、目は薄く開いている。その瞳はどこも見ていない。意思のないうろの影が少女の顔に落ちている。


 少女の周囲を漂う物体があった。風景にぽっかり浮かんだ影のような黒いかたまり。影は煤の集合体みたいな姿をしていた。人間大より少し大きく、端から崩れていくのになぜか体積が減る様子はない。


 それは間違いなく狗神で、倒れているのは樺冴深月に相違なかった。


 目に飛び込んできた光景が脳髄のうずいを通り越し、直接真信の心を掻き乱す。


 深月から生気が感じられない。扉の開いた音に反応する素振りもなかった。それは血の匂いどころか争った形跡すら存在しないこの部屋の中で、何かが起こったことを示していた。


「お前ら、僕の主人に何をした」


「っ────!」


 真信の腹の底から立ち上ったのは、煮えたぎるような怒りをまとった声だった。


 濡れた刃物のようにギラつく眼光に射竦いすくめられ、静音達が踵を鳴らす。額には一瞬で脂汗が噴き出していた。


 真信は唇を噛んで深月のもとへ駆け寄ろうとする。だがそれを直前で制止する声があった。


「止まれ。そう荒ぶるな。彼らの責任でもないだろう」


 入り口に寄りかかっていた源蔵が口を挟む。この事態を生み出した依頼主はこの男だ。


「深月に何をしたんです」


「薬を打った。効能については……そこの娘の方が詳しいのではないか?」


 顎で示され、真信はその方向を向く。そこにいたのはマッドだ。だが真信がいくら視線で問うても彼女は答えない。


 ふて腐れたように唇を尖らせているマッドに代わって、静音が進み出た。


「打ったのはマッドが製作した薬です。本人は作りかけだと言っていましたが、任務が急でしたので安全性だけ確認して使用しました」


「効果は」


「……精神を不安定にし、本人の一番見たくない物が幻覚として見える、と」


 考えうる限り最悪の返答だった。舌打ちが漏れそうになって、真信は頭を掻いた。


 物理的な攻撃は全て狗神が阻む。だが精神的な汚染は狗神では防げない。


 なにより今、深月の心は弱っているはずだった。簡単に捕まり、ここに連れられてきているのがその証拠だ。


 責任の一端は真信にもある。


 深月がどんな幻覚を見たのか真信にはわからない。だがその結果いたずらに狗神を使用し、精神を消耗させて倒れたのは確かだ。


(今は落ち着いてるみたいだけど。……このままじゃ駄目だ。深月を起こすべきか、いや、問題は薬の効果がどれだけ残ってるかだな。場合によっては起こすと酷いことに──)


「あっ、ミケにゃー!」


 真信が今後想定される可能性を必死に検討していると、マッドの声が部屋に反響した。


 人々の足の間から三毛猫が飛び出していく。


「マッド! 連れてきたのか!」


「抜キ足、猫足、忍び足。気づカぬあっし、いワゆるマッド……」


「疑ってごめん!」


 言っている間にも三毛猫は深月へと駆け寄ってゆく。そして刺さった木の棒の範囲をその柔らかな前足が踏んだ瞬間、予期せぬ出来事が起こった。


「なっ──」


 あろうことか、狗神が三毛猫を襲ったのだ。


 三毛猫は間一髪で飛び退き狗神から離れたが、近づこうとするとその度に狗神が襲ってくる。

 こんなことは今まで一度たりとも起きなかったというのに。


 猫が渋々といった様子で真信達の元にまで帰ってくる。すると意思のないはずの狗神が真信達を振り向き、吠えるように牙を震わせた。

 音がないのに大気が震え、真信はたたらを踏んだ。狗神からは明確な敵対心が伝わってくる。


「敵味方の区別がついていない。暴走……?」


「だろうなぁ。深月は気を失っている。狗神は最後に与えられた命令を守っているのだろう。つまり、近づくものには死、だ」


 洩れた呟きを芝居がかった低い声がぐ。その言葉で、真信の中に漠然とした焦燥感が湧いてきた。


「止めないと」


 この状態が続くなら、深月の心はさらに喰われてしまう。


 じっとりとした焦りが臓器を這って上ってくる。真信はマッドに掴みかかるように細い腕をつかんだ。


「マッド!」


 しかし少女はいつもこれでもかと浮かべている笑みを引っ込め、わかりやすく口をへの字に曲げていた。


「むーん。作リカけの薬勝手ニ使われテ、マッドはゴ機嫌斜め10度デふテ寝態勢ばっちシん」


「キミは毎回、解毒剤作ってるよね。持ってるなら渡してくれないかな」


「ん~デモコれ作るのお鼻ムズムズなモんな。一つしカ完成しテないしデータ取れテないし」


 マッドがそっぽを向いてしまう。真信はそんな彼女の両肩を掴み、分厚いレンズに隠れた少女の瞳を真っ直ぐ見つめた。


「……マッド。マッドはいつもやり過ぎるところがあるけど、その技術力と探究心には期待してるんだ。誰が何と言おうと、僕はマッドを応援してるよ」


「────」


 瞬間、少女の顔が興奮の色に染まった。引き結んでいた口をゆるませうねうねと身体を揺らす。そして懐をまさぐってガラスの小瓶を真信の鼻先へ突きつけた。


「持っテけ泥棒高跳びー! 気付け薬モ兼ねテるのデゆっくリ飲まセテヤっテください」


「ありがとう」


 差し出された小瓶を受け取った真信は、礼を言いながらもすでにマッドを見ていない。


 さすがに憐れと思ったのか、静音が真信へにじり寄った。


「真信様は、マッドには容赦ないですよね」


「ちゃんと偽らざる本音だよ。一番被害をこうむってるのが僕なのは否定しないけど」


 食事におかしな薬を混ぜられるくらいは日常茶飯事だった。おかげで毒味係が臆してしまい食事が冷えて困ったものだ。


 答えながら小瓶の中身を確認する。どうやら飲み薬のようだ。粘りけがあるようでいて透き通っており、真っ黒にも見えてやはり色がある。何がなんだかわからない。率直に言って不味そうである。


「薬の効果自体はソロソロ切れ切れ細切れデすゆえ。それ、緩和系解毒剤デ十分なのデすよ。味は保証するゼっ!」


 マッドが健気けなげに説明を付け加えた。決めポーズは誰も見ていない。


 ふたゆるみを確かめた真信は大きく深呼吸して、威嚇するように宙を揺れ動いている狗神に臨む。


「あとは深月にどうやって近寄るかだ。僕が囮になるから──」


「それには及ばん」


 全体へ指示を出そうとした言葉をさえぎられる。一番後ろにいたはずの源蔵が、いつのまにか真信の前に立っていた。


「狗神がどうしてこれほどに強い呪詛を生んだのか分かるかい? それは、この男が己を恨んでいたからだ。友の想いに気づかず、愛した女を幸せにすることすらできなかった自分を、こいつはうらんだ。外に向けた怒りはいつか燃え尽きる。だが自分の内で醸成され続ける己への憎しみに終わりはない。醜く膨れあがるだけだ」


 真信が止める間もなく、源蔵は誰にともなく言いながら靴音を響かせて狗神へと歩み寄る。白いスーツに包まれた背中が真信には、ひどく疲れて見えた。


「私は狗神の終わりを見届けなければならない。それが二人を壊した私に課せられたつぐないだ」


 嘆くように声を震わせて、男は突き立つ木片の内で歩みを止めた。事もあろうに、源蔵は狗神を迎え入れるように両腕を広げてみせる。その口元に浮かんだのは微笑みだったか。


「さぁおいで、陽介ようすけ


 古い友へかけるような優しい呼び声に、狗神の顎門あぎとが源蔵の身体へ喰らいついた。


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