侵略者


 後ろ髪を引かれながら走り続ける。何度も振り返りそうになって、それでも足を送り出すことをやめない。何枚もの扉、いくつもの絵画を風景として後ろに飛ばしていく。


 その中のどれかに意味を見いだせるほど、心の余裕はないはずなのに。いちいち目につく鮮やかな絵の具の色につられて顔が後ろを向こうとするのを、理性で押し留めた。


 全員が無事に帰るために。いま自分にできることをやるべきだと分かっているから。


 遠くから絶え間なく銃声が響いている。真信はその音を頼りに前を向いた。


 奈緒が言っていた通り、ここは無駄に広い。ともすれば迷ってしまいそうになりながら進むと、ひらけた通路に出た。ここからだとシャンデリアが近くて眩しいくらいだ。銃声の出所はこの下の階か。


「あれは……」


 欄干に身をのり出し下を見ると、数十人の武装集団に囲まれるように黒い影が渦を巻いていた。三脚で足場を固定した軽機関銃が三台、途切れなく弾を吐き出し続けている。控えの者達が弾を補給するため、影は常に三方向から狙撃されている状態にある。


 あの影は以前にも見たことがある。間違いなく狗神だ。深月はあの中にいる。身動きが取れずに籠城状態にあるのだろう。


「あの武装は見たことあるな。……イナーシャか。どうにかしないと」


 そうはいっても、あれらが全て先日戦った男達と同等の実力であれば、一人で立ち向かうのは無謀だ。しかし策を弄して時間をかければ深月に限界が来る可能性がある。現に少しずつではあるが、狗神の渦は後退し小さくなっていっていた。


 こうなったら、と真信はポケットからボールを取り出した。広域用に調整された睡眠薬だか催眠薬。その辺りの定義はマッドに訊かないと分からない。


 一つしかないが、出し惜しみしている場面でもなかろう。真信は大きく振りかぶってボールを下の階の中心に向けて投げた。


 そして投げた後に気がついた。これ、深月も一緒に眠ってしまうのでは?


「み、深月――――!?」


 ボールが床に着弾し白い煙が一息に広がった。人々が煙に包まれ下の様子が見えなくなる。銃声もいつの間にか止んでいた。代わりに人の倒れる音が連続して起こる。睡眠薬が効いたのだ。


 やってしまった。そう確信した瞬間、煙の中から黒い物体が上方に向けて噴出された。


 黒い物体は空中で汚水のように溶け、犬の頭部に似た影へと変わる。すると中から一人の少女が出てきた。夏物のセーラー服に身を包んだ、薄いブラウンの髪をなびかせる少女。


 それが真信に向かって落ちて来る。


「おわっ、とっ、とっ――ごへぶっ」


 少女をなんとか抱き留めた真信は、そのまま尻餅をつき壁に頭を激突させた。


「真信、私の事呼んだー?」


「……うん、呼んだ。びっくりしたよ深月」


 相変わらずの眠たげな瞳で、深月は真信の上に馬乗りになっている。


 その顔を見て、真信の中の緊張が一気に解けた。胸の内にじくじくと痛みが広がっていく。少年は無意識に少女の身体を引き寄せていた。


 小さな頭を胸に抱きしめ、すべらかな髪に指をからませる。


「深月、僕は殺せなかったよ。僕の手で終わらせてあげるべきはずだったのに。その役目を静音に押し付けることになってしまった。あれは僕への復讐で、奈緒は復讐のために生きていたのに」


 声を震わせる真信に、深月は子どもをあやすみたいに、その背中を優しく叩いた。


「いーんだよ」


 深月は真信から身体を離し、少年の瞳を正面から見つめる。


「真信はさ、私のこと殺してって頼んだら、殺せる?」


「…………」


 真信はただ首を横に振るだけ。それに深月は、しょうがないと笑う。


「だよねー。私も真信のこと、頼まれたって殺さないよ。だって殺したくないから。……奈緒ちゃんのこと大切だったんだよね。真信は奈緒ちゃんを大事にしたかっただけなんだよ。何も間違ってない。そう教えてくれたのは、真信だよ?」


「僕?」


「うん。想いのままに。大切にしたいものは、大切にしていいって」


 何にでも理由をつけて、全てに因果があるように錯覚して。異なる事象を一つにまとめることで余計にややこしくしてしまうのは、人間の悪いクセだ。


 ──石に願ったから雨が降る。

 ──自分が声をかけたから相手が不幸になった。

 ──目の前で死んだ少女は自分の復讐を助けるため。

 ──責任を背負うなら、そこに感情を持ちだしてはいけない。


 人は繋がらない物へ無理矢理に関連性を見出す。それは信仰と呼ばれるものに近い。しかし、信仰とは心の拠り所だ。己の心を縛って身動き取れなくするようなものは、正しい信仰ではない。


 そんなもの、ただのかせだ。


 思うままにやればいいのだ。感情に任せてしまったほうがいいこともある。心は縛られてはいけない。それでは目の前の最善を見失う。


「ね、元気出たー?」


 たれた目元をさらに柔らかにゆるませ笑う少女に、真信は頷いた。立ち上がりながら少女を抱き起こし、優しく地面に下ろす。その表情からは少なくとも自分を責める自虐だけは消えていた。


 その時、地面を這って上ってくるような、身の毛のよだつ声がした。


「見いつけたぁ」


 二人は声のしたほうへ顔を向けた。廊下の奥から誰か近づいて来る。


 現れたのは、ピンクアッシュの髪を高い位置でお団子にまとめた少女。狂気的な笑みを浮かべてかかとを鳴らすのは、間違いない。今件におけるもう一人の復讐者、氷向ひむかい綾華りょうかだ。


 今日はスカジャンを着ていない。全身に堅い防護衣類を着込み、籠手や膝当てを付けている。肩と腰につけたホルスターには、それぞれ拳銃と刀剣をぶら下げていた。


「アンタら確か平賀真信と、……カミツキ姫だったかしら? ねえなんで下の奴ら寝てるのよ。あれでもボスから預かった私の部下なのよ? 叩いても刺し殺しても起きないの、アンタらが何かしたんでしょ」


「真信ー、なんかあの人、無茶苦茶なこと言ってるよー」


「あれ、言葉が通じないタイプの人だよ」


「何こそこそ喋ってんのよ! 聴こえないわよ。私に聴こえるように喋りなさいよ!」


 怒鳴りながら拳銃を撃ってくる。それを狗神で防いで、深月は腕を横に振るった。


「とりあえず、敵でしょ? わんこ――」


 深月の指示により狗神が身を躍らせ綾華に迫る。その牙が少女の身体を引き裂かんとしたまさにその時、綾華が早口に何かを唱えた。


「──南無なむ八幡はちまん大菩薩だいぼさつ


 同時に綾華の手の中で何かがひらめく。


 すると狗神が声なき悲鳴を上げた。


「なっ!?」

「ぐぅっ――!?」


 狗神が深月のもとまで後退する。その鼻先には大きな切り傷がついていた。中のどろどろした汚水のようなものが傷から漏れ出している。


 深月が苦しそうに胸を押さえた。その顔には脂汗が滲んでいる。まるで狗神の負った損傷が深月にも届いてしまったように。


 深月を支えながら真信は困惑のまま綾華を見つめる。綾華は見せびらかすように指の中で何かを弄んでいる。それは中程から折れて先端だけが残る矢であった。さっき振るったのは、その矢じりであろう。


 しかし銃弾すら相殺してしまう狗神に、あんなお粗末な刃でどうやって傷をつけたのか。疑念の視線に答えるように、綾華が人差し指で自分のこめかみを突く。


「なんだったかしらねぇ。えー…………『案の如く、日來ひごろ人の申すにたがはず、御悩の刻限に及んで』――?」


 それは真信にとっては聞き慣れない口上だったが、深月には何か分かったらしい。驚きに目を見開いて、綾華の言葉を継ぐ。


「――『ひがし三條さんじょうの方より、黒雲一むら立ち来て、御殿の上にたなびいたり。頼政よりまさきつと見上げたれば、雲の中に怪しき物の姿あり。射損ずる程ならば、世にあるべしとも覚えず』……」


「深月、それは……?」


「平家物語、まき第四、ぬえの事。みなもとの頼政よりまさが帝を悩ませるぬえを射殺した逸話だよ。ということは、あれは……」


 深月の見つめる先で、綾華が不敵に笑って矢の先端を指でつつく。


「そういうこと。かの頼政よりまさ? がぬえを貫いたその一矢。本当は身体を裂いた剣のほう欲しかったけど、行方不明らしいから。まあこれで? アンタのがどれだけ特別製でも、犬神である限りは決して勝てないってことよね」


 二人だけで話が進んでいく。未だに理解の及ばない真信は恥を承知で、追い詰められたような顔をしている深月に問いを投げた。


「えっと……どういうこと?」


 対する深月は綾華を見据えたまま狗神を撫でて答える。


「今の頼政伝説が、犬神起源たんの一つなんだよ。頼政よりまさが退治したぬえは三つに切り裂かれ、頭部は讃岐さぬきの猿神に、尻尾は伊予いよ蛇神スイカヅラに、そして胴体は阿波あわの犬神になったっていう伝説。ぬえの形態には諸説あるけど、この伝説が一部の人たちに信じられてきた事実は否定できない。狗神わんことの相性は最悪」


 深月は悔し気に唇を噛む。


 真実がどうあれ、そう信じられたのなら本物になってしまうのが信仰の恐ろしいところであり、呪術の本質であった。


 頼政の放った矢は確かにぬえの命を奪った。そしてその切り分けられた死体から犬神が生まれた。


 樺冴家の狗神は他の犬神と成り立ちは異なるが、その根底にあるのは犬神に違いない。犬神の誕生が頼政の弓矢に敗北した結果である伝説がある限り、その矢じりは例外なく狗神を傷つけるだろう。


「けど、どーしてそんなものを呪術者でもないこの人が……」


 奈緒の説明によれば、イナーシャは合理的でない呪術を嫌悪し滅ぼそうとしている科学側の組織のはずだ。その仲間である綾華がなぜ伝説に語られる呪具じゅぐを持っているのか。


 思考の合間に、さっき聴いたばかりの声が響いて来る。


『彼等は、ボク等が守ってきた神秘にまでメスを入れて解剖し、自分たちの手駒にしようとしているらしい』


 深月は自分の背中を、冷や汗が伝っていくのを感じた。


「あれは、こういう意味だったの」


 考えていたよりも事態は深刻なのかもしれない。


 綾華は折れた矢をペン回しのように雑に振り回して嫌悪感丸出しの顔で唾を吐く。


「はっ、私だってこんな呪物モノの力なんか借りたくないわよ。けどクソ汚い手を使う呪術者共を殲滅するには敵のこともよく知って対応しないと。ホント反吐へどが出るほど嫌だけど」


 こめかみに血管が浮かび上がるほど歯ぎしりした後、綾華は表情をがらりと変えて喜色を浮かべた。


「ま、もうすぐで部下がわんさか押し寄せてくるわ。ついでに、私が戻らない時はその辺に設置した爆弾を爆発させるから。時間稼いで仲間呼ぼうったって無意味よ? 建物ごとぺしゃんこ。そういうわけで――――ここでアンタら、大人しく死んでちょうだいよ」


 言いながら右手に矢じりを握り、左手で拳銃を構える。完全に殺る気だ。


 深月は真信を振り返り、一瞬だけ視線を合わせた。真信はそこに宿った意思を読み取り小さく顎を引く。


「真信、こっちは任せていい?」


「わかった。そっちも気をつけて」


 短く言葉を交わし二手に分かれた。真信は綾華の前に立ちふさがり、深月は下の階に身を躍らせる。深月は長い髪をなびかせ、真下に出現させなおした狗神に乗って逃走する。


 狗神では敵わない綾華には真信が。真信一人ではしのぎ切れない大群は深月が。そういう役割分担だ。


 しかし綾華には真信が深月を逃がしたように見えたのだろう。盛大に口角をつり上げ、眼差しに侮辱ぶじょくに対する怒りを宿す。


「アンタ一人で私を倒すつもり? はっ、められたものね」


 その燃え盛るような怒りを一人受け止めながら、真信は肩から力を抜き、自然に構えた。


めてなんかないよ。ただ……が死力を尽くすをだけだ」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る