眩しい満月だった。


 真信の去った公園のベンチで、静音は膝の上で組んだ指に額を乗せて座っていた。


 部下や同志には決して見せられない姿だ。

 そんなことに気遣う余裕もないほどに彼女の心は重たく沈んでいた。


 このままでは真信は決して帰ってこない。それが分かってしまうからだ。


 正直に言ってしまえば静音は彼が何を求めているのかに薄々勘づいていた。約六年もの間、毎日共にいたのだ。たとえ本人が気づいていなくとも、己の仕える主人の心情が分からない静音ではない。


 分かるからこそ、彼の求めるものが平賀にないことも理解できてしまう。

 今の自分には到底それを彼に奉げることができないということも。


 なぜなら静音は、真信を裏切っているのだから。


 現在の静音はとある任務に従事している。町に潜伏する他の門下も同様だ。それは樺冴家の現当主にも関わることで、静音は真信に嘘を吐いていることになる。


 彼は嘘を欲していない。清浄な世界を夢見ている。だから、嘘にまみれた静音では彼の心を動かすことはできないだろう。

 そのうえ真信は、深月という仮の止まり木を見つけてしまった。


 どうしようもない。行き場のない八方ふさがりに迷い込んで、それでも静音は言わねばならない。戻って来てくれと。貴方こそ必要なのだと。


 決意を新たに顔を上げると、至近距離に女の子の顔があった。どうやら静音を覗き込んでいたようだ。


「ど、どうしました?」


 驚きを隠して笑顔を向ける。すると女の子は大きな瞳を見開いて、小首を傾げて静音に尋ねた。


「さっきのお兄ちゃんは、おねえちゃんのコイビトさんなの?」


「ふぁっ!?」


「パパとママもね! コイビトさんだったんだよ! おねえちゃんとお兄ちゃんもそうでしょ?」


 予想外の質問に変な声が出てしまった。顔が赤くなっていることを自覚しつつ、静音は咳ばらいをして先の挙動不審を誤魔化す。


「そ、そういう関係ではありません。もちろん、主人としてお慕いしているのは確かですが」


「? すきなんだよね?」


「いえ、そういう俗な感情ではなく…………子供相手になに弁明してるんですかね私は。――とにかく! 私は出会った時から若に忠誠を誓っている身ですので。よこしまな感情は抱いていません」


「ねぇねぇ、ふたりはどうやってであったの? パパとママのなれそめ? はグレートパンチでごめんなさいだったの!」


 女の子は静音の言葉も聞かずに盛り上がっている。話に脈略がない。


「ねぇーえー! おしえておしえてー!」


「ちょっ、落ち着いてください。引っ張らないでっ」


 彼女の両親の出会い方のほうが気になる静音だったが、女の子に服を引っ張られてせがまれ、抵抗を諦めた。


「わかりました、話しますから暴れないでください」


「やったー!」


「……そうですね。真信様と出会ったのは、今から六年前。私が誕生日を迎える前の、十七歳の秋のことでした―――」







 静音の門下としての事の始まりは、真信と出会うより前にまでさかのぼる。


 今から十年以上前のこと。静音の両親は静音の目の前で死んだ。

 突然押し入ってきた強盗に殺されたのだ。


 動かなくなった両親の身体は重たく硬く、ついさっきまで自分を抱きかかえてくれていた物と同じには見えない。まるで精巧なマネキンみたいだと思ったことを覚えている。


 四人組の男達は、無心で涙を流し悲鳴を上げ続ける静音にも容赦なく包丁を振りかぶった。


 しかし静音は死ななかった。たまたま通りかかった平賀の門下達に命を救われたのだ。


 門下達は依頼で強盗達を探していたのだという。男達は同様の事件を繰り返していた連続強盗殺人犯だったのだ。


 強盗達は、静音の両親と同じマネキンへと姿を変えた。


 天涯孤独の身となった静音はそのまま平賀に引き取られた。静音は戸籍上は死んだことになっている。平賀で生きていくことになったとき本名も捨てさせられた。両親が呼んでくれた自分の名前を、静音はもう思い出せない。


 厳しい訓練と教育を、静音は必死にこなしていった。特出した才能がないのは自覚していた。それでも、生きるためには学ぶしかない。


 数人の同期は皆任務の途中で死んでいった。門下の大人たちは『彼らは平賀のいしずえとなったのだ』と言っていた。それに反発する意識が持てるほど、当時の静音には精神的な気力は残されていなかった。


 時は流れ、静音は十七歳になった。本来なら高校に通っているような年齢だ。しかし戸籍の無い静音は高校どころか、中学校にも小学校にも通っていなかった。そのせいだろうか。学力については他人に負けない自信があったが、同年齢の一般人との馴れ合いには未だ慣れない。


 ただただ繰り返し鍛錬を積み、任務におもむくだけの日々。

 平賀本家の人間からすれば門下とは消耗品に等しい。彼らの作戦は時に門下の者すら騙して、その命を捨て駒として利用した。

 常に死と隣り合わせの日常。擦り減っていく精神に気が狂いそうだった。


 この虚無を超えた先に平賀への真の忠誠があるのだと、門下の先輩達は一様に口にした。皆が通ってきた道だから大丈夫だ、とも。

 静音はそれをちっとも信用することができなかったが、とにかく生きるために、がむしゃらに己を鍛えた。


 そうしてあの肌寒くなった秋の日に、静音は大怪我を負った。右半身が爆風に曝されてしまったのだ。


 任務の遂行中に通りかかった子どもを庇って負った傷だった。

 まだ自分が幸せに生きていた頃を思い出させる幼い子どもを見捨てることが、静音にはどうしてもできなかった。


 我ながら酷い傷だったが、門下の者達からは鎮痛剤だけ渡された。傷が残ろうと、化膿して死のうと。門下には替えがいくらでもいる。仲間は言外にそう言っていた。


 静音は唯一しがみついてきた居場所に見捨てられたような気がした。


 その日の深夜、鎮痛剤が切れて痛みと熱に耐えきれなくなり、せめて夜風に当たろうとこっそり起き出した。

 庭はすっかり涼しくなっている。風が木々を揺らし薄い雲を運ぶ。庭には一面玉砂利が敷いてあり、空には大きな満月が出ていた。


(なんでしたっけ、中秋の名月? そんな感じの……)


 うろ覚えの知識を思い出しながら一人夜空を見上げていると、人の近寄って来る気配がした。


「綺麗な月が出てるね」


 変声期前の幼い少年の声だった。声を掛けられて驚いて振り返る。


 半袖半ズボンのシンプルな服を着た、小柄な体躯がそこにはあった。年のころは十一か十二ほどか。

 少年は気負うことなく静音に真っすぐ近づいてくる。雲の切れ間から月明りが差す。照らされた顔を見間違えるはずもない。今まで遠くからしか見たことのない平賀家三男坊、平賀真信だった。


「まっ、真信様。これは失礼を――――!」


 慌ててひざまずこうべを垂れた。門下の中にも身分というものがある。静音の位では、当主直系の人間の前へ無防備にたたずむことなど到底許されることではなかった。


 死すら覚悟して砂利に落ちた自分の影を見つめる。そこにもう一つの影が重なり、視界は一段と暗くなった。

 予想した叱責はない。顔を上げろと小さな声が降りてきた。恐る恐る見上げると、膝をついた自分と同じ高さに真信の顔がある。彼も屈み込んでいるのだ。


「今日の任務で怪我を負った人間がいるって聞いたけど、キミのことかな」


 やわらかな声音で言って、真信が静音の頭に巻かれた包帯を撫でる。乱雑に巻かれたそれにはすでに血が滲んでいたが、かまわず指を這わせ、そのまま頬を包まれた。


 静音の片目に映る少年の顔には、優しげな微笑みが浮かんでいた。


 従順な末っ子、操り人形。

 門下の先輩たちから聞いていた印象とはずいぶん異なる。静音には彼が、ちょっと大人びているだけの普通の少年に見えた。


「あの任務の指揮は次兄つぎにいだったかな。また無茶な命令でもしたんでしょ。迷惑をかけたよね。兄に代わって謝るよ」


「めっ、滅相もありません! 門下が若に頭を下げられるなどあってはならないことです! それにあれは私の勝手な独断専行で――」


「どうして? 人命救助だったって聞いてるよ。褒められはせど叱咤しったされることじゃない。

 それに立場は違えど僕らは同じ人間じゃないか。むしろこんな小僧に謝られても腹の虫が治まらないでしょ。朝までには医者を手配するから、それまで辛抱しんぼうしてほしい」


 少年は指についた血を擦り合わせ、そのまま手を握り締めた。その表情はまるで自分のことのように苦痛を訴えている。


「なぜ、そこまで……」


 静音の口から思わず疑問が漏れる。たかが門下一人が怪我をしたくらいでどうしてそこまで構うのかと。

 真信は静音の当惑に、ことも無げに答えた。


「せっかく綺麗な顔なのに、このままじゃもったいないよ。美人は任務の幅も広まる。これは平賀のためにもなることだ」


 なんだかすごいことを言われた気がしたが、猜疑心さいぎしんに支配された静音は気づかない。静音の問いたかったことはもっと根本的な問題だ。


「いえ、そうではなく、私の代わりなどいくらでも――」


「いないよ」


 言葉を言い終わる前に否定が被さった。呆気にとられて目を丸くすると、少年は言い聞かせるように静音の左肩を掴む。


「身体を見ればわかる。全身にほどよく筋肉がついてて、足運びも完成されてた。もちろん語学の成績も確認済みだ。失うには惜しい努力家じゃないかキミは。

 ……なにより、たかが三男坊にそこまで切実に頭を下げる人間は門下にも少ない。誠実な人柄が出てる。そういう人を僕は依怙贔屓えこひいきしちゃうんだよ」


 兄さんたちには内緒だよ? と人差し指を唇に当て苦笑する少年に、静音は自然と涙を流した。

 門下の上に立つような高貴な人間に、道具としてではなく人間として扱って貰えたことにどうしようもない程の感嘆と敬服を覚えた。


 認めてもらえたこと。優しさをくれたこと。そして、人として扱ってくれたこと。全てがない交ぜになって、静音の心を感動が包んでいく。


(この人だ……。この人こそ、平賀を背負うに相応しい!)


 それは彼女の純粋な心とほどこされた洗脳がせめぎ合った結果の歪んだ思考だったが、静音はただ本心からの言葉と捉えていた。


 自分がいままで生きてきたのはこの人に出会うためだったのだと、本気でそう思ったのだ。







「お兄ちゃんはいい人なんだね!」


 薄暗い所をぼかした過去語りを聴いた子どもが、そんなことを言う。

 女の子は瞳を輝かせ満面の笑みを浮かべている。静音もつられて微笑んだ。


「あの人はもう、覚えていないでしょうがね」


 もう昔のことだ。真信は静音にだけ手を差し伸べたわけではない。彼は皆に優しい人だ。真信と静音の邂逅かいこうは、彼の記憶の中に埋没まいぼつしてしまっていることだろう。


(それでも構いません。私があの時の感情をずっと覚えていれば、それで)


 あの出会いの翌年、静音は正式に志願し真信の付き人となった。それからはほぼ毎日を共に過ごしてきたのだ。だから余計に断言できる。あの家の中で、真信こそが一番優れた精神性を宿していると。


 直属の部下以外を捨て駒としか見ていない長男。門下をストレス発散の道具として扱う次男。

 双方ともに情を切り捨てたという意味では裏社会の統治者に相応しい。


 しかし静音には、あの二人のどちらかが当主となった平賀の未来は、行き詰まりに思えてならなかった。


 もちろん真信に非情な面がないわけではない。正式な任務であれば真信は、静音の目前で笑っているこの幼子でも躊躇ためらいなく殺すだろう。


 ────優しいだけでなく、冷血なだけでなく、しかしどちらの仮面も貴方自身ではない。


 そんな真信だからこそ、静音たちは期待してしまうのだ。



 ────自分たちが感じているこのを、彼こそがどうにかしてくれるのではないか、と。



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