静まり返った部屋


 まだ面会時間は終わっていないというのに、第三病棟はしんと静まり返っていた。


 ナースステーションの明かりだけが磨き上げられた床に強く反射し、残りは節電なのか薄暗く弱光が灯るのみ。


 中には看護師が詰めているようだったが、まるで隠れ潜むかのように姿が見えず、しかし視線だけが背中に刺さる。何人そこにいるのかすらようとして知れない。


 床に規則正しい靴音を響かせ、真信は国立病院の最上階、そのさらに最奥を目指す。


 通り過ぎた病室にはいずれも入院者を示す名札がない。全て扉は開け放たれ、ベッドはすぐ新たな患者を迎えられるように整頓されていた。


 不気味な清潔さと、不自然な静寂が満ちる長い廊下。その一番奥に、目的の病室はあった。


 取っ手に手をかけようとして、下げられたプレートの文字が目に入る。


『関係者以外立ち入り禁止』


 それでちょっと足踏みして後ろに下がった。それから部屋番号をもう一度確認して、スライド式の扉を滑らせる。


 中の電気は付いていなかった。窓から差し込む西日で部屋の全体像を把握する。


 ベッドを囲む薄茶色のカーテンは意味ありげに閉め切られていた。布の向こうから生者の気配はしない。そういえば表に名前のプレートは差し込まれていなかった。

 そもそもこの部屋に患者などいないのかもしれない。


 カーテンの前には面会用のパイプ椅子が置かれ、そこに一人の男が座っている。染み一つない真っ白なスーツを着込んだ初老の男性だ。シルクハットは脱ぎ、膝の上に乗せている。


 菅野すがの源蔵げんぞう。真信は彼に連絡をして会う約束を取り付けたのだった。


「やあ真信君、いやはや酷い顔をしている。疲れただろう。わざわざこんな所にまでご足労すまないね」


「ここを指定したのは貴方でしょう」


 にこやかに挨拶をする源蔵に冷たく返す。男の軽口に付き合っている余裕は、今の真信にはなかった。男は肩をすくめて自分の横に置かれた椅子を示す。


「まあ座りたまえよ。邪魔は入らない。まずはゆっくりと身体を休めて――」


「狗神について、知っていることを教えてください」


 真信は強い語調で源蔵の言葉を遮る。男の顔から笑みが引っ込み温度が消えた。


「以前説明したが?」


「あれは一般的な犬神の話でしょう。僕が訊きたいのは、樺冴家に憑いてる狗神についてです」


「ほう……、いいのかい? 以前は深く踏み込まないようにしていたように見えたが?」


「やめました。性に合わない。やるなら徹底的にだ」


 淡々と感情を抑えて、真信は目下もっかの男へと答える。しかし彼の語気の端々には暗い覚悟が滲みだしていた。


 それは怒りとも嫌悪とも、あるいは不安とも区別できないものだった。そのない交ぜになった感情は心底に湧き溜まり、ぐつぐつと醸成されていくかのように膨れ上がる一方である。


 少年の無表情の中に揺れるほむらのような感情の動きを感じ取った源蔵は、口角を吊り上げ突然笑い出した。


「はははははっ、おいおいどうした。能天気の仮面がはがれているぞ」


 心底愉快だというように源蔵は下腹を抱え喉をクックッと鳴らす。真信はそんな男の反応に一瞬眉を引きつらせ、されど心の機微を隠すように嘆息した。


「仮面じゃなくて、あっちが素のつもりですけどね。あと、能天気では印象が悪い。楽天的と言ってください。僕自身はあまり人を探るようなことはしたくないんです」


「では、今はその必要があると?」


「…………」


 真信の沈黙を肯定と受け取ったようである。源蔵は満足げに頷き顎の髭を撫で始めた。


「強い呪詛を生み出すのは人間に限る。犬っころ風情ふぜいの呪詛があれほど強大になるわけがない……。そう、君の予想通り、樺冴の狗神は特別でね。君たちの推測は惜しい所まで迫っていたのさ」


「――――なぜ……」


 源蔵は確かに言った、『君たち』と。それは、その会話は、真信と静音があの公園で交わしたものだ。

 あそこにカメラはなかった。盗聴には日頃から気を付けている。ならば、なぜこの男はあの会話の内容を知っているのか。


「それはもちろん見ていたからさ。町で起きること程度なら手に取るようにわかるのだよ。私を誰だと思っている。樺冴家の後見人だぞ? このくらいこなせずにどうする」


 見透かしたような言葉だった。

 日が暮れてきた。夕日を映して源蔵の目が怪しく光る。冷笑の影が濃く男の口元に漂っていた。


 真信はこの男を始めて恐ろしいと感じた。恐怖に指先が痺れ、自分の心音が耳に響く。

 真信は思わず息を呑み後ずさりしてしまう。それを見ていた源蔵はもう一度横の椅子を指し示した。


「座りたまえ。長い話になる」


「…………」


 男に近づきたくないと神経が拒絶している。だが、真信はそれを態度に出さないよう椅子へ腰かけた。

 この男は他人の葛藤を楽しんでいる。そのことに気づいてしまったからだ。


 真信が椅子に深く腰を落ち着けたことを確認し、源蔵が語り始める。


「あの狗神は、普通の動物霊のそれとは構成が違うのだ。あれは、犬の霊が半分。そして残りの半分は――――人間の魂でできている」


「人間……?」


 予期せぬ言葉に真信は耳を疑った。いや、真信自身、静音から怨霊の話を聞いた時に狗神との類似性について考えることくらいはした。だが実際にそう告げられてしまうと耳から入った情報を素直に飲み込むことができない。


(人……? 本当にあれが、人?)


 思い出されるのは浮かぶ暗闇だ。煤の集合体のような現実味の無い、輪郭が曖昧な姿は犬の顔に酷似していた。身体は存在が世界に否定でもされているかのように、端からボロボロと崩れてゆく……。


 あれのどこに人間としての要素が、尊厳があるというのか。


 人間。


 自分と同じ人間なのだ。それが、どうやったらあんな姿に堕ちる。真信は喉元まで出かかった叫びを、口を塞いで押し留めた。全身に鳥肌が立ち身震いすると、源蔵が真信を覗き込んでくる。


「なぁに、すでに人間の意識などあの影にはない。ただ入力された命令をこなす兵器に過ぎん」


 源蔵は楽しげに冷笑をたたえ、どこか遠くを見るようにして告げる。


「あれは、身分違いの女を愛し、友に裏切られた哀れな男の成れの果てなのさ」





 蛇口から流れる水は冷たく、指先を凍らせるようにしたたり落ちる。深月の火照った身体にはむしろそれが心地良よかった。

 手早く器の泡を流して軽く水を切る。遅めの昼食に使った食器はそれで最後だ。


「自分でお皿洗ったの、何年ぶりだろ……」


 タオルで手を拭きながらそんな呟きがもれる。随分前から、こんな当たり前のことをこなすことすらできなくなっていたのに。


 まだ身体はだるい。だが動けないほどではない。それをいいことに、深月は久方ぶりに家事をしていた。面倒だ面倒だという思いばかりが付きまとっていたが、頭を空っぽにして皿を洗うのは案外悪くない。


 まだ動けそうだったので掛けてあった食器拭きに手を伸ばす。ここひと月はずっと真信が台所に立っていたので、深月の記憶にあるそれとは少し位置が変わっていた。

 三毛猫が尻尾を揺らし、その様子を見守っている。


「真信、今頃なにしてるかなー」


 どうせ学校で授業中だとは思いながらも、深月は目元に優しい笑みを浮かべ濡れた器を手に取った。


 彼が戻ってきたらどんなことを話そうか。今後のことについても二人で検討しなくてはならない。体調が回復しそうだから玄関で彼を出迎えるために待っていようか――。


 そんな平和を頭に思い浮かべながら。



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