『いとおしい人』


 それは明治の初頭。大日本帝国憲法が施行されてからそれほど時の経たない頃だった。


 明治維新の折に陰陽頭おんみょうのかみ陰陽博士おんみょうはかせを代々世襲していた土御門つちみかど家が廃止され、日本の陰陽道は事実上終焉を迎えていた。陰陽寮が暦を作り気象を見る時代は終わったのだ。


 それは呪術の衰退を示している。少なくとも、呪術は日本の表舞台から完全に姿を消した。


 それでも農村の稲荷いなり信仰を基盤に各地では独自の民間信仰が根強く残っていた。

 近代的意識と前時代的呪術宗教とが人々の意識の中で入り混じっている、不思議な状態が続いていたのだ。


 そんな混沌とした時代に一人、若くして陸軍の頭脳である参謀本部の囲いの中へと踏み入った男がいた。男は上層部にも覚えめでたく、軍人ながらも実家は商業で名を上げている稀有な存在であった。


 男には幼い頃より二人の友人がいた。


 一人は自分よりも二つ年下の少女。

 平安の頃より帝の宝物庫ほうもつこを守る樺護かご家の一人娘で、小柄で色は白く色素の薄い髪質をしている。

 思ったことを臆せず口にする性質たちで、それでいて他人の心の機微にうとい。

 そんな彼女を男は昔から一筋に愛していたが、それを告げたことはない。


 もう一人は、家令の少年だった。

 彼の家は数代前から男の実家に仕えており、俗にいう使用人の子であった。彼の一族は呪術を生業なりわいとして犬神を飼い、それにより事業の怨敵を祓う役目を担っている。男には呪術というものが全く分からなかったが、兎に角そういうことらしい。

 少年は男よりも一つ年下で、心優しく傷つきやすい。時折女と見紛えるほど身体は華奢きゃしゃで、三人で遊ぶ時は決まってこの少年が二人の後を追いかける形になった。

 少年は少女を愛しており、また少女はこの少年を憎からず想っていた。


 三人はともにつかず離れず成長していき、やがて婚姻を考える歳となる。


 樺護家は一人娘を、すでに成功の道を歩み始めていた男のもとへ片付けようと考えていた。内密に持ち掛けられたその縁談を男は少年への引け目を感じながらも二つ返事で快諾かいだくした。


 だが少女はそれを拒絶した。それどころか家を出るとすら言い放った。

 男の知らぬ間に少年と少女は心を通わせ、ひそかに契りを結んでいたのである。


 裏切られたと感じた男は強引に少女の輿入こしいれを進めた。そして同時に、少年に家業を継がせ犬神を継承させた。


 犬神憑きは今も昔も、他家から疎まれ蔑視される存在である。忌まわしきとがを背負わされた少年に、旧家きゅうけの令嬢との婚約など叶うはずもなかった。


 男は加えて少年に汚れ仕事を命じた。少年に会おうと逃げ出そうとする少女は、家の奥深くへと幽閉同然の生活を強いた。そうして二人を引きはがし、名実ともに少女を手に入れたのだった。


 少女は絶望して男に心を開かない。どれだけ言葉をかけようと、贈り物をしようと、その表情はぴくりとも動かない。


 男は表面上試行錯誤を繰り返し続けたが、心の奥底では理解していた。もう、三人で遊んだあの頃の笑顔が自分に向けられることはないのだと。


 それでも彼女を自分の下に留めておけるだけで男には十分だった。死ぬまで永遠にそうやって彼女を手放さない。醜い独占欲だと己で自虐しながら、そう思っていた。


 だが男は理解していなかった。人間の感情とは厄介なものであり、特に愛情というものは常識も不可能すらも打ち破り、時に人を驚かすほどの行動力を見せるということを。



 少女を妻としてから七年の月日が流れた。この長い間、少年は決して男に背かず自分の手を汚すことをいとわなかった。もはや彼らに語る愛を持つことなど叶わぬ。男はそう考え始めていた。


 ――――ある日、少女が消えた。同時に少年の姿も見当たらない。


 まさかと思った。

 調べさせると、少女と少年――すでにそう呼べる年齢にはないが――は連れ立って逃げ出したのだとわかった。人質代わりに、帝の持つ神器の中から重要な宝を携えて。


 追手があることなど二人は分かっているはずだった。男の権力は以前よりも格段に成長していた。逃げのびることなどできない、そう理解しているはずなのに……。


 それでも二人は逃げたのだ。ただ、自分たちの愛を貫くために。


 追手はすぐさま放たれた。二人は逃げる。一週間が経過し、ついに九州北部まで追い詰めた。


 しかしそこにあったのは、今度こそ心を失くした少女と、半ば怪物と化した少年の姿だった。


 ああ、そこでどんな会話があったか安易に予想できるだろう。


 少女は「共に生きられぬのなら、いっそ死のう」と言い、しかし優しすぎる少年には少女を手にかけることなどできない。ならば「せめてこの心を貴方だけのものにしてくれ」と少女は懇願しただろう。そして少年は犬神と同化し、少女の精神を喰らい自分の中に閉じ込めた。


 報告を受け男が駆け付けるが時すでに遅し。少年は呪詛により強大に膨れ上がった犬神の力に呑まれ正気を失い、近づく者全てを殺し始めていた。


 これはもう戻らぬ。放っておけば無関係の人間まで手当たり次第に殺し尽くすだろう。


 そう判断した男は、連れてきていた幼女を前に押し出した。


 それは、男と少女の実子として育てられた七歳の幼子だ。彼女は父の指示通り、怪物を神格化し、制約で縛って、自分に憑りつかせ封じた。


 少年は最期の力を振り絞って男に呪詛の言葉を残し、自我を完全に失って狗神となった。



 ――――それが、樺冴家の始まり。



 狗神は持ち出した宝をも喰らってしまっていた。狗神と分離させることはできたが、不思議とその地から離すことができない。男は責任を負わされ、今までの地位を失った。そうしてその地に留まり樺冴を補佐し、宝を守護することとなる。


 狗神の呪詛はあまりに強い。無理に消そうとすれば大災害が引き起こされると見られている。内包された少年の魂を壊さず成仏させるためにも、狗神の呪詛を削りきらねばならない。


 呪詛を削るにはその力を振るえばいい。しかし大きな力を使うには、相応の代償が必要となる。


 それは使役しえき者の精神。


 樺冴家は代々長女に狗神を継がせ、少しずつその力を削っていった。その過程で歴代の使役者は全て心を失い生きる屍へと姿を変えた。


 狗神の呪詛を削りきるには、数百年が必要となると推測されている。

 あれからすでに百年余り。樺護は樺冴と名を変え、現在も九州のとある町で帝に仕え続けている。


 残る狗神の呪詛は、ようやく五割を切っていた。


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