突きつけられた現実


「他者を呪うのも恨むのも、人間の専売特許だ。感情があるから他者をうらやむ。特に愛情という奴は厄介だ。だからこそ、元が人間であった狗神は多くの呪詛を生み出したというわけなのだよ」


 男が滔々とうとうと語る。しかしその言葉の大半は真信の耳に入っていなかった。音だけが鼓膜を震わせ、意味は脳みそをすり抜ける。

 少年は両の手で顔を覆い、指の間からは大きく見開かれた目が床を凝視していた。


「違う、違う。悪いけどそんな、過去の話なんてどうでもいいんです」


 真信は顔を上げる。顔に添えられた手は震え、爪が皮膚を引っ掻かんとしている。


「大事なのは、なぜそれを深月が知っていてなお、『仕事を持ってきて』なんて言葉を発するのかってところです」


 ギョロリと血走った眼が源蔵を貫く。それに源蔵は笑みを浮かべ、また喉を鳴らす。首筋を掻きながら奇怪な物でも見るような目で真信を見返した。


「なんだ、やはり盗み聞きしていたのかい。鼻歌歌いながら器用だな君は」


 耳の奥に届く低くて粘着質な、他人を小馬鹿にしたような話し方だった。それがただの挑発なのは目に見えている。自分の身にみついた技術と悪癖を称賛された真信は、自虐的な笑みを返した。


「残念ながら僕の本業はそっちだったので。それより答えてくれませんか。深月は狗神の話を、全て知ってるんですよね」


「もちろん知っているとも。仕事を回せと言っているのは狗神を使うためさ。――――深月はね、自分の代で狗神を使い潰す気なんだ」


 耳を疑った。狗神の呪詛は使えば使うほど削れらていく。そして同時に、狗神の力を使うということは、その代償として使役者の精神を削っていくことを示す。


 深月はこれ以上さらに自身を犠牲にささげようというのか。あんな、墓穴に頭から突っ込んだみたいな状態で。今朝の彼女の姿がどれだけ痛々しいものだったか、彼女自身は理解していないのか。


 肌の青白さを思い出して全身に鳥肌が立つ。その怖気おぞけは否定の言葉へと勢いよく直結した。


「できるわけないっ。歴代の当主が廃人になってまでいでようやく五割っ。百年以上かかってやっと半分だ! しかも樺冴家の当主は二十歳前後で必ず代替わりしてる。

 それって、すぐに精神が削られ切って使い物にならなくなったってことでしょう!? 一人で残り半分なんて――――」


 樺冴の当主がすぐ代替わりするのは、狗神に心を喰われて空っぽの廃人になってしまうからだ。つまり今までの当主達は狗神を継いで十年前後で心全てを食い尽くされている計算になる。


 深月は樺冴の十二代目当主だと、静音から受け取った資料にあった。つまり今まで十一人の精神を全て犠牲にしてきて、やっと半分にまで狗神の呪詛を弱めてきたということだ。


 それを、十一人分かかった五割を、深月はこれから一人で削って行こうというのか。


 絶対に無理だと首を振る。だが意外にも源蔵はそれを否定した。


「君は勘違いしているな。深月の前の代までで削れた狗神の呪詛は、最初から考えて三割に過ぎない」


「…………は?」


「だから、深月は当主を継いでからの約十年間で、二割削っているのだよ」


「二割……それって」


「そう、先代までの三割と深月が新たに削った二割の合計で、五割だ。結果があの体たらくだがね」


 つまり、十一人が必死で三割削り、深月は一人で二割削った、そういうことだ。

 真信は思わず息を呑んだ。いったい、どれだけの精神力があればそんな離れ業をこなせる。


 源蔵は懐かしい記憶を掘り起こすように目を細めた。


「……あれでも深月は狗神を継ぐ前は活発な子だったんだ。ああいう家の人間だから友達を作ることは許されなかったが、それでも自ら外を走り回り、家事を進んで行い、洋服を買っておしゃれを楽しむくらいに元気な子どもだったさ。

 それが今やあの始末。欲求が薄まり新たな望みも抱かない。あれは目的のために日々を生き抜いているに過ぎない。

 真信君、君を保護観察ではなく世話係としたのはね、そう遠くないうちに深月は寝たきりになると思っていたからなのだよ。まあ、君という新しい刺激を受けて一時的に活力が多少なりとも回復しているようだが」


 真信は出会った時の深月の姿を思い出す。狗神を使った直後だったということもあったろう。それを差し引いてもあまりに見ていられない有様だった。


 自力で歩行することも困難で、食事も摂らず、学校の休み時間には常に机へ突っ伏していた。少し歩いただけで息切れを起こし顔を青ざめさせる女子高生が、他にどこにいるというのか。


 始めはただ、深月は体力がなくてゴロゴロするのが好きな女の子なのだと思っていた。


 けれど違ったのだ。体力がないのは、精神を削られ気力を奪われ自ら動くことが減ったせい。もともと動くことが好きだった人間が、どれほど病床にせればあれほど筋力が衰える。あれは日常生活の基本動作すらこなせなかった結果だ。


 もしこのまま深月が狗神の力を使い続ければ、源蔵の言う通りすぐ寝たきりの生活を余儀なくされていただろう。


 それなのに、今からさらに五割を削ろうというのか。二割削るだけで、それほど消耗したのに。


 深月の精神力の強さは認めよう。だが、それでもこれ以上は無理だ。


 不可能。


 どれほど虚勢を張ろうと、無茶をしようと。できないことはできない。彼女はすでに人間としての限界に達している。


「それじゃあ、ただの自滅じゃないですかっ。なぜ止めないんですっ」


「樺冴の女が自滅するのを見るのは初めてじゃないからな」


「なっ――――!」


 真信の憤りを嘲笑うかのように源蔵は吐き捨てた。


 この男は信じてすらいないのだ。深月が狗神の呪詛を削りきり己の宿業から解放されるなど、微塵みじんも思っていない。


 分かっていて放置している。むしろ仕事を回し手を貸しているだけ、この男は悪質だ。


 頭にカッと血がのぼる。パイプ椅子の吹き飛ばされる音が病室に響く。気づけば真信は、ポケットからナイフを取り出し源蔵の上に馬乗りになっていた。


 男の大きな身体を乱暴に床へ圧し付けて真信は歯を食いしばる。


 荒い息が洩れる。自分がどうしてこれほど怒っているのか、判断できないほどの怒りが昇って来る。頭はぐちゃぐちゃで心臓は爆発しそうなほど早鐘を打っていた。


 他人へこれだけ憎しみを向けたのはいつ以来だろう。少なくとも記憶にはない。真信は自分を支配した感情に戸惑いながら、ただただ掴んだ胸倉に拳を押し付け続けた。


 返って来るのは沈黙と冷たい肌の感触。抵抗も反発もないために、煮えたぎる怒りが徐々に静まっていく。


 首筋にナイフの刃を当てられてなお余裕の表情を崩さない源蔵を見て、だんだんと頭が冴えてきた。


 突発的な怒りが収まった後には悲しみしか残らない。眼球の奥に熱いものが溜まっていくのを感じながら、真信は泣き出しそうなほど弱弱しい声音で源蔵へ問いかけた。


「……深月の心が消えれば困るのはそっちなんじゃないのか。深月以外に後継者はいないんでしょう」


 真信の悲哀を受けた源蔵の口が開く。それは言葉を発しようとして、しかし途中で嗤笑ししょうの形へ歪み変貌した。


 笑い声と共に告げられたのは、真信をさらに絶望へと突き落とす言葉だった。


「あっははははははっ! なあに、知らないのかい? 心が無くても身体さえ無事なら子は残せるのだよ」


 真信は今度こそ絶句した。男の言っている意味が分からない。心がその意味を理解することを拒んでいる。構えていた指から力が抜けた。ナイフが床に落ちる硬い音が短く鳴る。


 男は身を起こし首元をさすりながら、瀾々らんらんと闇に輝く瞳を真信へ向けた。


「口の堅い名家から、そういう心を失ったを抱くのに興奮するようなクズ男を引っ張って来て、子を作らせるのだよ。

 ねらい目は資産家の次男や三男でね。そういう性癖異常者は世間体を気にするあまり家族からも疎まれるからな。少し甘い声を掛ければ厄介払いと言わんばかりに承諾してくれる」


「まさか、いままでの人たちも――」


「むろんそうして来たが……。ああ、心配しなくていい。深月の父親は用済みで殺した。さすがに近親相姦は遺伝的に貧弱な子どもが生まれるからな、避けてきたさ。

 深月の相手は新しく探すとも。心が欠片でも残っていれば、深月自身に相手を選ばせよう」


 だから安心しろと、源蔵は諭すように甘く笑う。

 その笑顔に後ろめたさや懺悔ざんげは欠片も含まれていなかった。


 恐怖と嫌悪感に突き動かされた真信は、馬乗りの状態から跳ね起きるようにして男から距離を取った。源蔵はゆっくりと立ち上がり服の埃を払っている。その所作は人間そのものなのに、真信には目前の存在を人として受け入れることができない。


 狗神なんかよりも、こいつのほうがよっぽど化け物なんじゃないのか。

 狂っている。この男も、こんなことを続けてきた樺冴家も。みんなみんな、狂ってる。


(深月はいままで、こんな世界で生きてきたのか――――!)


 理解できていなかった。彼女の抱える問題のその根深さを。

 理解できていなかった。彼女がいままで、どんな気持ちで生きてきたのかを。


 理解、できない。

 どうして深月は、こんなにも狂った場所で、ああも平然としていられるのか。


「なら、もし深月が死んだらどうするんだ」


 呟きは、半分諦めを含んだ言葉だった。過去は変えられない。真信がどれほどえたてようと、狗神が深月に憑いている事実は決して消えない。すでに狗神に喰われてしまった深月の精神は還ってこないのだから。


 だから、それはただの確認だった。後継者争いに巻き込まれてきた真信だから、その言葉が出たのだろう。純粋な疑問はしかし、踏み抜いてはいけない禁忌に触れていた。


 真信は気づいていなかったのだ。


 樺冴を取り巻く闇には、まだ最底が存在していたということを。


 真信の問いに源蔵はなんだそんなことかと言うように、穏やかな笑みを浮かべてシルクハットをかぶりなおす。


「その点は抜かりない。また子を作ればいいだけだ。ほら」


 サーカスの幕でも上げるように、源蔵が閉まっていたカーテンを示す。薄茶色の布は独りでにレールを滑り、隠されていたベッドを露わにした。


「うそ、だ……」


 掠れた声で喉に痛みが走って、真信は目の前の光景が現実だと思い知らされる。

 赤子のように首を振り、後ずさりすると病室の壁にぶつかった。それ以上逃げる場所なんてないのにそれでも身体を壁に押し付け距離を取ろうとする。


 人間の気配などしなかったはずのベッドには一人の人間がいた。


 上体を起こし前を見ているが、その目は虚ろで何も映さない。口は半開きになり端からよだれが糸を引いてしたたり落ちている。


 女性だった。歳は三十代を過ぎた頃か。頬は痩せこけ唇は乾燥し、長く伸びたブラウンの髪が乱雑に肩を透かしていた。


 元は綺麗な顔立ちだったのだとわかる。しかしその分、生気のなさが死人じみたグロテスクさをより引き立てていた。


 面影でわかる。この女性は、この人は、すでに死んだはずの――――


「気づいているとは思うが、彼女は深月の母親だ。空っぽの廃人だからね、挨拶ができないのは勘弁してやってくれたまえ」


 女性は源蔵に肩を叩かれ、揺れて、そのまま前のめりに倒れる。その様はまさしく糸の切れた操り人形のようで……。


 そこに、人間の心の残っていないことは、明白であった。







 日が暮れて、入ってきた時とは別種の怒りを抱えた真信が落とした折り畳みナイフを拾い上げる。


 憮然とした表情を隠そうともしない彼は果たして気づいているのだろうかと、再びパイプ椅子に腰かけた源蔵は興味深げな視線を少年へ注いでいた。


 このあと彼は深月に会いにいくのだろう。しかし、彼らの間に対話が成り立つわけがなかった。


 なぜなら、二人は似た境遇にあるようでその実、正反対の道を進んでいるのだから。


(はてさてどうなるものやら。……結末が楽しみだ)


 相容れない二人の未来を想像し、源蔵はほくそ笑む。


 真信はスライド式の扉を滑らせ病室を出る寸前で、ちょっと立ち止まって天井を仰いだ。そのまま振り向かずに、一つの問いを源蔵に投げ掛ける。


「……女性を強引に手に入れ、友人をおとしいれ、二人の子どもを使って狗神を封じた男は、名字をなんというんですか」


「…………」


「男の家名ですよ。あなたは、ご存知でしょう」


「……その中途半端なさかしさはいつか身を滅ぼすぞ」


「でしょうね。父にも同じ忠告を受けました。……答えてください」


「────菅野すがのだ」


「あぁ──」


 やはり、という言葉を呑み込む気配がする。顔が見えないため男からは真信がどんな表情をしているのか窺い知れない。ただ、彼の背中が少し震えたのに源蔵は気がついた。


 それ以上言葉はなく、真信は廊下へ踏み出した。自然と閉まりゆく扉を見ていて、源蔵はふと思い出す。


「ああ、そうか」


 以前聞いた真信の鼻歌。ずっと曲名が分からなかったが、ようやく思い出した。あれはたしか古い映画、そう、ゴッドファーザーのテーマだ。


「君が奏でるには、少し皮肉が過ぎやしないかい?」


 男には珍しく素直な配慮の言葉だったが、それを聞いている者はいない。


 意思のない脱け殻と狡猾こうかつな男だけが残った部屋に、椅子が草臥くたびれたようにきしむ音だけが鳴っている。


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