曝け出された思い


 月は分厚い雲に隠され辺りは真っ暗だった。風に乗って湿った匂いが漂ってくる。雨雲が近づいているようだ。


 遠くからは鳥の声が幽々と聞こえてくる。ほーほーほほー、と不可思議なリズムを低音で繰り返し鳴き続ける声は反響し出所を掴めない。


 どこかに隠れているのか、それとも真信がひたすら下ばかり見ているから目に入らないのか。おそらくはその両方なのだろう。


 落ちている電燈の灯りと闇とを交互に数えながらしばらく歩き、真信の意識はようやく自分の足以外を映した。飛び石を一つずつ律儀に踏んで、もはや慣れ親しんだ屋敷の玄関に辿りつく。


 風鈴は今朝ぶりの顔に歓迎を示そうとしたが、うつむいた真信のただならぬ雰囲気を感じてか音を奏でるには至らなかった。何事かと様子を窺っているようだ。


 真信は沈黙を保ったまま靴を脱ぎ、ふすまを開ける。


 ここ最近の習性通りにまず台所に向かうと、そこには三毛猫がいた。食器棚を見上げて一鳴きする。食器の位置が昨日と変わっていたようだが、真信は猫の頭を撫でるだけで、気がつかない。


 暖簾のれんの向こうには明かりがついている。布を掻き分けてくぐると、そこには着崩した白の着物に紅いストールを掛けた少女が座卓に突っ伏していた。足音で気づいたのか、その顔がのっそりと真信の方に向けられる。


「あ、真信遅かったねー」


 まだ少し顔色は悪いが、普段通りの間延びした口調で深月は真信へ微笑みかける。


 少年は彼女の様子を見てほっと息をつき、しかしすぐ眉間に悲壮なしわを作った。何か言おうとして口元が戦慄わななき、上手い言葉が見つからない不甲斐なさに唇を噛む。


「どーしたの?」


 いつもと様子の違う少年に深月が心配の声を上げた。

 だが真信はそれに答える言葉を持たず、ただ病院からここまで己の中で渦巻き続けた嘆きを瞳に映す。


 目の色の変わった真信に、深月は彼が今朝と同じ精神性にないことを理解した。


 そうしてもう一度、今度は慎重を期して呼びかけた。


「……どうしたの? なにかあったの?」


 深月は座卓から身を離し、座ったまま真信へと向き直った。微かに腰が浮く。心配に駆け寄ろうかどうか判断しかねているのである。

 そんな彼女の様子に耐えかねて、真信は意を決して声をあげた。


「狗神のこと、樺冴の過去のことも、全部聴いたよ」


 ようやく出た声は我ながら震えていた。無意識に握りしめていた拳にさらに力を籠めて、深月の反応を待つ。生唾を飲み込み俯きながら、眼だけを動かし視界の隅に少女を捉える。


 腰を浮かせていた深月からスッと表情が消えた。ため息を隠すように目を細め、浮いていた腰を下ろして真信を見上げた。


「ふーん。そう」


 声に温度はない。他人事みたいな態度だった。


 真信は愕然がくぜんとした。彼女の反応が予想外だった。別段、何を期待していたわけではない。けれど投げやりにも見える深月の様子がどうしようもないほどショックだった。


 真信が二の句を継げずにいると、深月はどんな感情も読み取れない無関心な声で続きを促す。


「それで? なにか言いたいことでもあるの?」


 興味なさげに問われて、いつまでも黙っていることができなくなった真信はひりつく喉から言葉を絞りだした。


「僕は、さ。前に言った通り、実家から逃げ出した人間だ」


 それはなぜか自分が、いろいろと理由をつけてずっと避けていた話題だった。深月にだけは知られたくない。そう思っていたことだから、次の言葉を告げるのにずいぶん苦心した。


「僕の実家は、裏の仕事を引き受ける仕事をしてる。その業界では結構有名で、大きい組織だ。

 この家みたいに呪術がどうのってことはないけど、誰からの依頼も受けるんだ。積まれた金額次第で、情報を盗んできたり人を見張ったり、もちろん殺しだってやる。僕は当主の息子、三男坊でさ、次期当主候補の一人だったんだ」


 父親は生まれた順番や経験で後継者を選ぶつもりはないと言った。それは、たとえ真信が三男であろうと後を継ぐ可能性があることを示していた。


 深月は黙って聞いてくれている。真信は自分がどんどん饒舌じょうぜつになっていることを自覚していたが、どうしても止められなかった。


「部下からの期待も、目に映る血だまりも、僕にはきっと耐えられなかったんだ。だから、逃げた。普通の生活がしたかったのかもしれない。とにかく逃げた、全部捨てて。本当にそんなことしていいのかって、最初は思ったよ。でも後悔はしてない」


 家を出るとき躊躇いがなかったわけではない。しかし今は自分の選択が間違いだったなどとは思えないのだ。だから、と。自然真信の語気は強くなる。


「時にはさ、逃げることも必要なんだっ」


 言っていて真信はなぜか自分の言葉に違和感を覚えた。自分の主張は正しいはずだ。なのに、なぜこんなにも引っかかるのだろう?


「何が言いたいの?」


 深月がそう尋ねる。長めの前髪に隠れてその表情は窺い知れない。

 真信はここが本番だと己を奮い立たせ、自分の中の既視感を打ち消した。


「……狗神の呪詛を削りきるなんて本当にできると思ってるの? その前にキミの限界がくる。そんなこと、不可能だ。――――僕は深月に、あんな風になって欲しくない!」


 真信は酔っていた。己の言葉の正しさを語る陶酔感に。だから深月がどんな表情をしているのか、確かめる余裕もなかった。


「そっか、お母さん見てきたんだ……」


 彼女の口からこぼれたのは、そんな呟きだった。それは真信の想いに対する返答ではない。いささか肩透かしな気持ちを抑えて、真信は沈痛な面持ちで頷くことしかできなかった。


 深月はそれ以上語らない。しかし否定もなかった。真信はすがる思いで続けた。


「どうせ深月一代で残りの呪詛を削るなんてできないんだ。ならいっそ、逃げようよ。もう狗神を使わなくていいように。そうすれば少なくとも、深月があんな廃人にならなくてすむだろ!? 僕も一緒に行くから。二人で探せば逃げ道はきっとあるはずなんだ!」


 必死な叫びが屋敷に響く。


(頼む……)


 心の内で手を合わせ少女に向けて嘆願する。


「源蔵さんの先祖が犯した罪を、深月一人が全部背負う必要なんてないじゃないか!」


 言わなければと用意してきた言葉はそれで全てだった。自分の想いは全部ぶつけた。あとは深月の反応待ちだった。


(頼む、深月。頷いてくれ――!)


 沈黙が膨張し部屋の中を圧迫する。極度の緊張に心臓が痛かった。手を伸ばしたくなるのを耐えてじっと深月の答えを待つ。


 どれだけ時間が経っただろう。深月の肩が微かにゆれて、細く柔らかな髪に隠されていた瞳が露わになる。彼女の口元がふっとほころんで、受け入れてもらえたかと真信が安堵した途端、真信の身体は壁に叩き付けられた。


「────っ!?」


 衝撃に思考が飛び、一瞬何が起きたのか理解できない。床に尻餅をついて軽い背骨の痛みに混乱しながら顔を上げると、深月はだらりと伸ばした右手をわなわなと震わせ、歯を食いしばって肩で息をしていた。


 紅いストールが肩から落ち畳に広がっている。その横には狗神がひかえていた。


 がらりと変わった彼女の雰囲気を感じとって、ようやく思い至る。自分は狗神に吹き飛ばされたのだと。


 指示したのは他でもない、深月だ。


「……逃げて、どうなるの?」


「えっ?」


 あらゆる感情を押し殺した腹の奥底からの声に、真信は思わず疑問まじりの吃音をあげた。

 そんな声を出す深月を始めて見たから、その言葉が彼女から発せられたものだと瞬時に判断できない。


 激昂を秘めた声音のまま深月は下ろした手を握りしめた。


「逃げ出して、私が安穏あんのんと生きられると? 全部忘れて心安らかに生きていけるとでも?」


 深月の視線が真信を貫く。真っすぐ向けられた瞳にはありありとした憤懣ふんまんが渦巻いていた。


 狗神を従えた少女の口から、淡々とした怒りがこぼれ出す。


「樺冴家の狗神は、始祖の血縁者のうち女人しか受け継ぐことはできないの。後継者を絶やすことも許されない。私が生きてる限り逃げてもいつか連れ戻されて、私が死んだ後もこの因習は続いていくんだよ」


 唇を噛み切るほどのいきどおりを噴出させ、少女はキッと瞳に力を籠める。


「だから私は逃げない」


 それは真信と対峙しながらも、彼に向けて吐き出された言葉ではない。


「私は、私に続く誰かに同じ思いをして欲しくない。こんなものを誰かに背負わせたくないっ!」


 それは彼女の奥底に沈みこまれていた感情だった。目のふちに涙を溜めながら、彼女はずっと以前、己に定めた決意を言い放つ。


「因習は、必ず私の代で絶つ。私が全部終わらせる!」


 そう言って痛みに耐えるように胸を押さえた少女の姿には、弱弱しくも目が離せない輝きがあった。


 空気が、いや心が震えた。


 真信は圧倒されてしまったのだ。嗚咽を噛み殺しながら荒々しい呼吸を苦し気に繰り返す眼前の少女に。


 そうして真信は、ようやく彼女という人間を理解した。


(……そうか。強いんだこの人は。だから他人を疑う必要なんかないし、簡単に誰かを守ろうなんて言えるんだ。彼女の、そんなところが僕は。僕は……)


 ――――うらやましくて、ねたましい。


 自分の内に浮かんだその言葉に真信はぞっとした。踏み入ってはいけない思いに触れた気がして意識を逸らす。


 そうする間にも深月は真信を観察し続けていた。呼吸を整えた深月が今度は自分が尋ねる番だというように真信へ矛先を向ける。先の勢いがない代わりに、その顔には自嘲と疲れが浮かんでいた。


「確かに、最初に真信をこっちに巻き込んだのは私達だよ。……けれど、ねぇ、どうしてあなたはここから離れようとしないの? あなたの言う通り、本当は逃げ道なんて探せばすぐ見つかるんじゃないの?」


 誰しもがたどり着く疑問だったのだろう。


 血の匂いの漂う生活が嫌で逃げ出してきたなら、どうして真信は未だに深月の傍にいるのかと。逃げ出した景色を見せつけられてなぜ彼は笑っていられるのだ。


 その問いに真信は、昨日のようなその場しのぎの理由ではもう取り繕えないことを感じていた。けれど、どうしても分からない。真信自身にすらその答えを見つけられずにいたのだから。


 深月は口ごもる真信を追い詰めるかのように続ける。


「“普通の生活“? 真信には無理だよ。だって、ほら」


 深月が右手を軽く払った。それに合わせて狗神の牙が踊る。一本の刃のようになった影が真信のズボンの端を舐めて行った。


 ポケットが切り裂かれ、中に仕舞ってあった硬い物が落ちた音がした。真信が足元を見るとそこには、幼い頃から肌身離さず持ち歩き続けた折り畳みナイフがあった。


 呆然とする真信に、トドメの言葉が放たれる。


「それ屋敷うちに来る前からずっと持ってたよね。何かあるとそれを指で触るの、クセなんでしょう? 家から逃げた後も真信はそれを捨ててない。平和なんてものを信じるのが怖くて手放せなかったんだ。

 それが、真信の本質だよ」


「っ……ぁ――」


「ね? 逃げることなんてできてない。逃げたってのがれられっこない。自分でもできていないことを、他人に押し付けるのはやめて」


 感じていた自分の内の違和感、その核心に触れられて真信は耳を覆いたくなった。否定したくて、首を振ろうとして、それができないことを理解する。


 彼女の言葉の正しさを、真信の脳みそはもう受け入れてしまっていた。


 それでも何か言い返えさなければと胸にわだかまる思いへ目を向ける。もはや八つ当たりの混じった叫びがあがる。


「じゃあ深月には無事に呪詛を削りきる算段でもあるの? その自信はどこから湧くんだよっ」


 返事はない。深月はじっと目を逸らさず、真信を見つめるだけだ。

 これ以上深月は語らない。その決意は変えられない。


 背負うべきものから逃げ出して、自分の想いにすら気づけていない真信には、彼女の意思を覆すことはできない。


 結局、逃げ出した真信と、立ち向かい続ける深月とでは、話が合うわけがないのだ。一生続く平行線。どちらかが折れなければ相容れることはない。


 そして深月は、決して己の決意をたがえることはないだろう。


「どうして分かってくれないんだ。奇跡なんて起きない。ちょっと考えれば不可能だってわかるだろ!?」


 壁伝いに立ち上がった身体は、勝手に後退を始めていた。


「なんで、どうしてわかってくれないんだ」


 深月の鋭い視線から逃れるように、真信は自分の足元に目を落とす。


「どうして逃げてくれないんだよ……」


 もはや力なく呟きながら一歩一歩、少女から遠ざかっていく。


「これじゃあ僕が――――」


 最後の言葉は空気を震わす前に、真信の意識に留まった。自分が言わんとしていた内容を、真信は自分で理解できていなかった。


(僕は、今なんと言おうとした?)


 自分がどれだけおぞましい考えにおちいりそうになっていたか、唐突に気づいてしまった。身体の芯から震えが伝う。まるで自分の足元から立ち上った冷気に心臓を掴まれたみたいに。


「深月……」


 逃げ出した自分が、運命に立ち向かう深月の隣にいることが恥ずかしくなって、


 彼女を、自分と同じところまで引きずり落とそうとした。


「っ――――!」



 ────真信が深月に対して初めて抱いたのは、親近感だった。


 広がる血だまりを前に妖艶に嗤っていた彼女。真信はその笑顔に見覚えがあった。


 ――――それは、自分だ。


 人は自ら生み出した地獄を前に、嗤わずにはいられない。その滑稽さ、無様さに、自嘲を浮かべることしかできないのだ。


 少女の笑みは、真信のものと同じだった。


 だから分かった。この血だまりは彼女が生きていくために必要な犠牲の一つに過ぎないのだと。あまりに自分と彼女が似ていたから、それを否定する術を真信は持たなかった。むしろ親近感を覚えてしまったのだ。


 だから真信は自分のできる限り、彼女のための味方でいようと決めた。

 しかしそれは同時に、いまだ切り捨てられない自分の一部――平賀の人間として生きてきた今までの自分――を慰めたかっただけに過ぎなかった。


 重ね過ぎてしまった。真信は彼女自身を見ていなかった。


 だから現実の自分と深月の意思が乖離かいりしてしまった時、彼女を引きずり込むことで安心しようとしたのだ。


 深月が己の責務から逃げ出して、真信と同じ立場へ堕ちてくれれば……と。



 思い至った自分の考えに、真信は己の浅ましさと弱さを突きつけられた気がした。



 いつの間にか真信は脇目も振らず駆けだしていた。


 自分の醜さと、少女の真っすぐな視線から逃げるように。


 真信は樺冴の屋敷から飛び出した。


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