変貌と停滞編

早朝四時 前


 歓楽街などとは程遠い九州の片田舎にあるその町は、住人の全てが寝静まったような静寂に包まれていた。


 すでに丑三つ時も過ぎ、早朝と呼んでも差し支えない時刻になろうとしている。六月の終わりといえば梅雨も盛りの季節だ。じめじめと重たい湿気が生温く肌を撫でていく。


 老年人口が多く活気の少ないこの町の、さらに外れに位置する山際のさびれた一本道に、珍しく一人の男の姿があった。


 生け垣に沿うように歩を進める男は、緊張を誤魔化すように首もとのボタンをゆるめている。男の目は周囲を気にするようにやたらとせわしなく動く。全身紺色の服装でそろえ闇に紛れて音もなく移動する様は、限りなく不審な印象を人に与えるだろう。


 幸い、彼を見咎みとがめる視線はここにはない。


 生け垣が途切れて、男は歩みを止めた。等間隔に敷かれた飛び石の向こうに平凡な玄関が覗く。なぜかその頭上には、少し気の早い風鈴が吊るしてあった。風がどこかから吹いたのか、風受けの紙が揺れ小さくか細いが鳴る。


 一度深呼吸をして、瞳にその屋敷の全貌を映した。


 二階建ての大きな屋敷だ。表からの印象だけなら大仰なだけの一般家庭に見えなくもない。しかし実態は違う。


 その広い敷地を奥に隠したここ樺冴かご家の屋敷には、人智を越える独りの化物が住んでいる。


 男は与えられた任務を思い出し、ぎゅぅと力を込めて目頭を引き絞った。


 その化物に見つかれば決して帰ってくることはできない。それが彼の所属する結社に伝わる樺冴家の噂だ。


 なぜそんな場所に男はやって来たのか。

 それは、またもやとある噂が各方面に流れ始めたからだ。


 男はそれを確かめる任務を帯びてここにいる。うまくいけば死なずに済むという希望的観測があった。先日、親交のある組織の人間はここに潜入して化物に見つかったにも拘らず、生きて帰されたと聞く。


 以前は侵入するもの全ての命が、かのカミツキ姫の手によって刈り取られていたというのに。


 なにやら彼女の心持ちか、あるいはその周囲の事情に変化があったらしい。逃げ延びた人間がもたらす噂の真偽はつかない。だからこそ男は人の寝静まったこの時間に屋敷を訪れた。


 昨日の早朝に仕掛けた眠り香が今頃、屋敷の住人を夢の中へ誘っているはずだ。あれは即効性こそ無いが効果に間違いはない。男はそうして己を奮い立たせ、玄関ではなく濡れ縁から屋敷へ足を踏み入れた。


 正面のふすまをかすかにずらして中を覗き込む。畳敷きの和室には大きめの座卓があるだけで人の気配はない。


 なんとなく、そのまま内へ入るのは気が引けて襖を閉めた。いつまでもこうしてはいられない。別の場所から進もうと男がきびすを返すと、背後で聞こえるはずのない声が聞こえた。


「おっ入らないのか?」


 共に秘密基地へ遊びにきた友人のような、気楽な声かけだった。男は心臓が止まるほどの衝撃と共に振り返る。そこにいたのは長身の青年だ。髪を尖らせ耳にはピアスを開けている。派手な出で立ちで目の前にいるのにその気配が感じられない──。


 コイツはヤバいと本能的に察知した男は強張こわばる身体を無理に反転させ逃げに走ろうとした。


 だが、それもまた阻まれる。


「あらぁ、逃げちゃダメよ?」


 耳元で囁くような甘ったるい女の声がしたかと思いきや、背後から細身の誰かに抱きつかれた。柔らかく滑らかな手が服の下へ潜り込み場違いな快楽が脳髄のうずいを貫く。思わず無様な悲鳴のれそうになった口を、今度は正面の青年に塞がれる。


 拘束からどうにか逃れようともがくが、前と後ろから男を留めるその腕たちからは不思議と抜け出せない。なおも暴れていると、青年が顔をぐいと近づけ、男の口を塞ぐ手から人差し指だけを掲げて自分の口へとかざした。


「しぃー……」


 真横に伸ばした口から鋭く息が吐き出される。男にはその意図がすぐにわかった。静かにしろ。つまりはそういうことだ。


 喋れないので代わりに顔を上下に動かし肯定を示す。すると青年はゆっくりと、その身と手のひらを男から離した。背後の女が微笑んだ様子がなんとなく伝わってくる。女の手は男の胸部をい撫でたままだ。背中には魅惑的な弾力まで感じる。


 背筋を駆け抜ける痺れるような快感をこらえながら、男は青年の怒りを買わぬよう声を抑えて早口に言葉を放った。


「かっ、カミツキ姫に外部の協力者が現れたというのは、本当だったのかっ」


 そう質問することが、今の男にできる最善手だった。しかし青年はニヤニヤ笑うだけで答えない。


 男はだんだんと焦り始めた。せめて、せめて一言でも肯定してくれればそれだけで良いのに……。


 痺れを切らして男は続けた。


「なぁ、そうなんだろう? じゃないとこんな、得体の知れない屋敷に、カミツキ姫以外の人間がいるわけねぇんだからっ」


 男はその確認のためにここに来た。今まで孤独と孤立を貫いてきた樺冴家が、謎の集団と手を組んだと聞かされれば呪術組織は必ず興味を示す。もっと言えば、さらに奇妙な噂までもが業界を席巻し始めていた。


「答えろよ。あんたか? あんたがカミツキ姫のなのかっ?」


 以前は襲いくる者を祓うのみであった樺冴家の当主だったが、当代に代わってからは手のつけられないほどの猟犬と化した。怪しげな動きをする組織をこの数年で続けざまに壊滅させているのである。


 そんな裏の世界に名を轟かせるカミツキ姫の、その手綱を握る者が現れたのだと。

 およそ信じられないような噂が流れているのだ。


 もしそんな存在がいるのなら……。

 ある者は利用しようとするだろう。

 別の者は恐れおののくだろう。

 樺冴家の力にあやかろうとすり寄る者もいるかもしれない。


 とにかく情報が必要なのだ。噂は本当なのか、本当ならばその飼い主とはどんな人物なのか。こちらの益になるか害となるか──。


 男は固唾を呑んで答えを待つ。

 沈黙していた青年は、堪えきれないというように吹き出した。


「くふっ、ははっ真信まさのぶ様そんな伝わりかたしてんの?」


「まさのぶ……?」


 それが『飼い主』の名前か──!


 目前の青年がくだんの人物でないことに安堵しながら男は歓喜した。


 名前さえ分かればどうとでもなる。後はどうにか生きてここから逃げ出せれば、もし自分の記憶や意識をいじられたとしても情報は仲間に伝わる──


「喜んでるところ悪いんだけどね? 不便なことにこのお屋敷、イケない機械は全部壊れちゃうのよねぇ」


 まとわりつくような女の声に男は勝利の形に口元を歪ませたまま停止した。


 目の前に掲げられた女の細く長い指に、男が隠し持っていたはずの盗聴機がつままれていたからだ。


「んなっ、いつの間に!」


 取り返そうと手を伸ばすが、突如背中を押されてたたらを踏む。次の瞬間男の視界には濡れ縁の木目が広がっていた。瞬時に接近してきた青年が男の足をかけて引き倒したのである。


「おい静かにしろよ。眠り姫が起きちまうだろうが」


 言葉に溢れる怒気を隠そうともしない。女が男の上に馬乗りになり、ついでに腕の関節を極める。青年はおもむろに上着のポケットに手を突っ込み細長い箱を取り出した。


 中から出てきたのは一本の注射器だ。いかにも身体に悪そうな禍々まがまがしさを感じる。


「おっ、俺は尋問に屈しない!」


 必死に顔をあげてえるが青年は眉ひとつ動かさず注射器を構える。針の先端から数滴の液体が流れ落ちた。


「ぐぁっ」


 抵抗の甲斐かいなく男の首筋に針が刺さる。血管を押し広げられる違和感の後、唐突に意識が薄れ始めた。


「安心しろオッサン。これは自白剤じゃねぇ。マッド特製量産型おやすみプンプンプリン弾だからな」


「それで安心できるのは私達くらいだと思うわよ」


「あー、それもそうすね。ま、もう見張りも交代の時間ですし、次の担当にコイツ引き渡しましょう。次誰でしたっけ?」


真信まさのぶ様たちよ」


「えっ嘘マジ?」


 遠くから不可解な会話が聞こえる。その意味を脳が理解する前に男の思考は千切れ、闇へと落ちていった。



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