受容者の作法
「よし、換気は十分かな。静音そっちは?」
言いながら真信は開け放していた
「こちらも問題ありません。もうミスターGBが姿を現すことはないでしょう」
「ミスかミセスかもしれないよ」
「なるほど。盲点でした」
誰よりも早く屋敷へ時間通りに帰宅した彼らは、素早く換気を終わらせた。家じゅうに薬を散布するのだから換気は大事だ。
この屋敷は空気の通り道を確保しておくと、山から下りて来る風が通って籠った熱気も吹き飛ばしてくれる。そのせいか、夏でも比較的過ごしやすいようだった。
一息ついて麦茶をあおっていると、玄関から風鈴が鳴る音が響き、ただいまーっと間延びした声が聴こえてくる。どうやら深月達が帰ってきたらしい。静音が玄関へ出迎えに行った。
ほどなくして二つの控えめな足音が近づいて来る。計算の合わない足音の数を真信が不思議に思っていると、障子が開いて竜登と静音が現れた。静音は人間を小脇に抱えている。透けるようなブラウンの髪がだらりとぶら下がっていた。
真信は危うく、口に含んでいた麦茶を吹くところだった。
「それはいったい……」
「鬼のような勢いで着せ替え人形にされて疲れ果て干からびた姫さんです」
「奈緒さんが背負って帰ってきたので、預かりました」
並んだ竜登たちが続けて言う。深月が片手だけ上げた。垂れ下がった髪の間から小さくただいまーっと声もする。
深月が珍しく和服以外を着ているのには真信も気づいていたが、驚くタイミングも褒めるタイミングも逃してしまった。
「ところで、その奈緒は?」
「いったん自宅に帰ってからまた後で来るとのことです」
「そうか……」
真信が吐いたとき一緒にいた奈緒に、あのフードの男を見かけなかったか確認したかったのだが。
(まあ、後でもいいか)
一人頷いて、真信は空のバルサンが何ゴミに分類されるのか確認しに行った。
外に出ていたメンバーも全員戻り、午後の穏やかな時間を各々過ごしている。夕食の簡単な仕込みを終えた真信は自室に戻って
明後日の授業で教師に当てられそうな部分を優先して解く。よく誤解されるが、真信はそこまで真面目な生徒ではない。最低限の気遣いで真面目に見えるよう、要領よく物事をこなしているだけだ。
以前は平賀で生きるために尽力してきた。そして今は、辛い宿命を背負ったあの少女のために、できるだけ力を尽くすつもりでいた。必然、学業は二の次になる。
今さら人として幸せな時間を求めているわけではない。真信は平和が欲しいのではなく、あの少女が幸せに生きられる未来を掴みたいだけだ。高校の授業も当たり障りなくこなせれば十分だと考えている。
そんな風に雑念まじりで問題を解いていたためか、真信は近づく足音にすぐ気がついた。
「どうしたの、深月」
障子の前で立ち止まった人影に呼びかける。すると
そこにいたのは、やはり深月だった。すでに着物に着替えている。少女は真信の前に腰を下ろした。
「ちょっと、話したいことがあって」
どこか真剣さを帯びた少女の言葉に、真信はシャーペンを置いて膝を滑らせた。
「わかった。なんの話かな」
「あー、その前に。真信ちょっと目を閉じて」
「こう?」
言われたとおりに目を閉じた。すると真信の顔に少女の小さい手が触れる。そのまま頬を包まれ、真信の心臓が訳もなく跳ねた。
細く冷たい指先がするりと真信の首筋をなぞる。いったい何をされているのか分からない。いつまで目を閉じていればいいのかも分からず、動くこともできなかった。
二人の間に沈黙が続く。心なしか、深月の指先は震えている気がした。
どれだけの時間が経っただろうか。互いの呼吸音だけが聞こえてくる。
深月が身を乗り出したような着崩れの音に続いて、彼女の香りが強くなる。頭部に何かが押し付けられる感覚。
驚いて目を開けると深月の手が真信から離れた。少女の頬は紅く染まり、瞳は熱に潤んでいる。微かに開いた唇から漏れる吐息がどこか
思わずなにかが触れた頭を押さえると、深月はさらに顔を赤くして俯いてしまう。
「…………さすがに……にするのは、なんか無理」
呟きは小さすぎて、真信にはよく聞こえない。問い返すのも無礼な気がして真信は口を閉じた。
「そっ……。それより、真信に聴きたいことがあるんだよー」
一瞬裏返った声を誤魔化すように、深月がことさらいつも通りに真信を指差す。
「真信は、昔自分が殺した誰かの家族に憎しみを向けられたら、どうする?」
真信の脳裏に
正直に言って、綾華に対する同情はあれど、言う通りに殺されようという気にはなれない。だから悩んでいるのはそこではなかった。
きっと綾華以外にも自分に憎しみを向ける人間はいっぱいいるはずだ。綾華を殺して先に進んで、また同じ憎しみの眼に出会った時、その誰かの怒りが正当で真信が何も反論できなかった時、どうすればいいのか。
未だに答えは出ていない。
本当は命に区別をつけるべきでないのかもしれない。
なぜなら自分の価値観で相手の憎しみを完璧に量れるはずがないから。自分一人の感情で命を選別すべきではないから。誰が善で誰が悪など、分かるはずもない。
だったら全部殺すか、全部生かすか。どちらかに決めるべきだ。もしくはいっそのこと、自分は
そんなふうにずっと迷っていたから、真信はつい、質問し返してしまった。
「分からない。……決められない。ねえ深月、僕はどうすればいいんだろう」
しかし深月は、沈痛な面持ちで首を横に振る。
「それは真信が決めなくちゃいけないこと。だから、今から言うのは私の意見。
……
だから憎しみを向けられる側には、きっと復讐を終わらせる義務があるよ。話合いでも、命の奪い合いでも。とにかく何らかの決着を二人の間につけるべきだと思う」
それは、憎しみの化身である狗神に精神を侵され続ける深月だからこその結論だった。
「真信はどう思う?」
問いは真剣に、もう一度成された。
たとえ答えが出ていなくとも悩んでいることを素直に言ってしまうべきだと考え、真信はずっと思っていたことを口にした。
「奈緒が
言った途端に部屋の外で床板の軋む音がした。重たい何かの動く時に出る音。誰かがそこにいて、真信の言葉でその場を離れたような。
「今、何か」
「……気にしないで。続けて」
腰を浮かせかけた真信を深月が止める。なんだか彼女の顔色が悪い気がする。それに音がしたのと同時に、深月が呟いた気がしたのだ。『やっぱり』、と。
その態度に違和感を覚えながらも、真信は言われた通りに続けた。
「僕は奈緒の
爪が食い込むほどに拳を握りしめる。自分の言葉が正しいのか、また間違ってはいないか。ただの逃げになってしまっていないか。自分では判断できなかったから。
不安と共に吐き出された真信の答えに、深月は温かく微笑んだ。
「そうだね。私も、そうあって欲しいって思う」
短い肯定の言葉。真信にはそれで十分だった。
あれほど重かった胸がすく。気分が楽だ。肩に乗っかっていた重しが一気に軽くなったように感じる。真信は嬉しくなって、ちょうど思い出した次の話題に移った。
「そうだ、僕も訊きたいことがあったんだ。姿を隠すだけじゃなくて、人々の認識からも消えるような術はある?」
あのフード男のことを思い浮かべる。しかしさすがの深月もそれだけでは意味を測りかねたらしく、難しい顔になってしまう。
呪術に
「えっと例えば、今しがた会った筈なのに、会ったことを思い出せなくなるようなの。会った記憶すら想起できなくなるみたいな」
深月は与えられた情報を吟味しながら、人差し指を回す。
「んー。その人が異界と現世の
「その狭間に、任意で入ったり出たりすることはできる?」
「よほどその道に精通した呪術者なら、あるいはね。けどそんな人、さすがの呪術者でもあんまり居ないと思うよー。異界にいると人間は精神に異常をきたすの。
「でも、居るには居るってことだよね。それはどこでも使えるの? その中は移動できる?」
真実が近づいている。真信が問い詰めるように身を乗り出すと、深月はその勢いに戸惑った様子でちょっと後ずさった。
「……神隠しと一緒で山とか神域とかに場所が限定されるよー? もしくは最初から場所を切り取って、結界として狭間を作っておくとか」
「この町の中でなら移動できるんじゃない?」
今しがたの深月の説明とは噛み合わないことを真信は言う。この町に神域は広がっていない。移動など……。そう言い返そうとしたであろう深月が、質問の意図に気づいたように、はっと顔を上げた。
「今なら結界がゆるんでた余韻で、狭間に入りやすくなってるかも……」
深月は以前説明していた。狗神は現世と異界との境を刺激し曖昧にしてしまう。神隠しが起きたのは結界が一部ゆるんだせいだと。
ならばその狭間にもまた、入りやすくなっているかもしれない。真信の推測は的中していた。
カメラに映りそうな都合の悪い場所は、狭間を利用して移動する。フードの男がどうやって町に入ったのかようやく方法が分かった。そしてそれは、もう一つの可能性を導き出す。
「つまりあの男なら、どうにかカードを仕込むこともできるか……?」
少年が呟く。すると深月はその言葉の一部分に反応した。
「カード? あっ、奈緒ちゃんから預かってたの忘れてた」
深月が袖からシンプルな折り畳みのカードを取り出して、真信に差し出す。それはまさしく真信が思い描いていたものと同じ。
少年は、自分の身体から血の気が引くのをはっきりと感じた。
「えっ……? 待ってよ深月。それ、奈緒からってどういうこと?」
「さあ? 真信に渡してって言われただけだから」
深月も事情に明るくないことを覚って、真信はカードを受け取った。
そこにはこう記されていた。
『――招待状
下記の方々を明日の
また護衛として二名までの同伴を許可します。
当会場への道案内は我が友、
「おや、奈緒さん。真信様にご用事ではなかったのですか?」
玄関に向かっているとそんなふうに声をかけられ、奈緒は足を止めた。そこには静音が取り込んだ洗濯物を抱え、なんの疑いも持たずに奈緒を見つめて立っている。
「あ~、用事はもう済んだんです。だからもう帰りますね」
静音はまだ何か話そうとしていたようだが、奈緒は振り返ることなく屋敷の外へと走り出した。
走って、走って、足を止めることなく走り続ける。そして奈緒は、真信が吐いていたあの路地に辿り着いた。
弱った真信がこの路地を選んだということは、ここが屋敷の監視カメラに写らない死角なのだと、分かっていたから。
息を切らせた奈緒は薄暗い路地に入り、
それもそのはずだった。
奈緒は、腹に手を当て笑い出す。
「あはっ、あはははっはははははは! 見つけた! やっと見つけた! 家族の
冷たい路地に乾いた笑いが響く。声は反響し、まるで姿の見えぬ影法師が共に笑っているようだ。
奈緒はひとしきり狂ったように笑い、しかし突然、電源が切れたかのようにその笑みを消した。
「どうして……」
代わりに浮かぶのは、希望を奪い去られた子供のような、今にも泣き出しそうな表情だけだった。少女は悲壮に眉を寄せ、喰い破るほどに唇を噛む。
「どうしてよりにもよって、あなたなんですか、真信先輩……」
皮膚が裂けて血が出るのも意に介さず、奈緒は両の拳を塀に叩き付けた。
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