噴き出す闇編

真信サイド


 ビルでの攻防から一夜が明け、月曜日の朝。屋敷の中に普段ならあるはずの人影が見当たらない。台所にも客間にも、玄関にもだ。


 それもそのはずである。この屋敷の主と、この家に通う世話係の少年は、家主本人の自室へ集まっていた。


 正確にはベッドに横たわったままの少女を気遣って、少年がこまごまと世話を焼いているのだ。


 驚くことにこの純日本風の家屋には、二階と一階に一つずつ洋式の部屋が存在している。深月は一階のその部屋を自室にしていた。


 六畳ほどの広さの部屋には飾り気のないベッドと机、本棚があるだけで、私物が少ない。見ると本棚に並んでいるのは歴代の教科書やノートだけだった。


 机の隅に一つだけ古く小さな犬っぽいヌイグルミが置いてあったが、それも捨てるのを忘れてましたと言わんばかりに、ぞんざいに放置されている。


 不自然なほど人柄や趣味の見えない、面白味に欠けた部屋だった。部屋の一角に置かれた柔らかそうなベッドに、人形のように整った顔をした少女がいまだ寝そべっていた。


 いつもなら少女が起きて来る時間を過ぎているのだが、今日はベッドから出る素振りもない。ぼんやりと天井を見上げる深月みつきは全体的に覇気がなく、いつも以上に返事が短いうえに口数も少ない。


 元から陶器のように透きとおった白い肌はさらに青白く色合いを失くし、血中の酸素が不足しているのか、桜色をした唇もどこか青みを浮かべていた。


 深月がとても学校に行ける様子にないことに気づいた真信まさのぶは、起き上がろうとした彼女に「無理しないでいいから」と優しく声をかけ、自分のいない間に少女が不便しないよう、水分や食事の用意を済ませてしまった。


「それじゃあ僕は行くから、何かあったら連絡してね」


「んー」


 気の抜けた返事を受けて、ようやく真信はベッドの脇から立ち上がる。


 深月がこんな調子で、この世の真理とその深淵を覗き込んできたような顔つきで「呼吸……めんどい」などと呟くから、過度に心配にもなるというものだ。


「誰か来ても無理に出迎えたりしないで居留守してもいいから、安静にしとくんだよ」


「ぅえーい」


「熱がなくても汗をかいたら着替えること。水分はしっかりとってね、今日は食べやすそうなもの作るから、ああやっぱり僕も学校休もうかなでも」


「真信ぅー、過保護が一段と酷いよー」


 少女はどこかうんざりした様子で真信を追い払う仕草をする。それは真信にいつも通り学校に通ってほしいという少女の心遣いであったが、真信は冗談半分に傷ついた顔をして見せて、肩を落として通学カバンを背負った。


「……そうだ食欲がないならデザートでも」


「もーいいから」


 丁度入ってきた三毛猫と入れ替わるようにして後ろ手で扉を閉めて、真信はすっと目を細めた。


 深月は気取られないようにしていたようだが、真信は他人に対してそれほど鈍くはない。彼女が無理をしていることは分かっていた。


 昨日の昼前までは、そうではなかった。深月の様子がおかしくなりだしたのはあのビルに突入してからだ。地下通路で眠ってしまってから深月は日付が変わる直前まで目覚めなかったほどだ。


 そして、あの地下通路で見せた虚ろな顔。あれは正常な精神状態にある人間が浮かべる表情ではない。


 なにが原因で深月がああなっているのか、真信には事情を推し量ることができない。理由は薬でも、トラウマなどの精神的損傷でもなさそうだ。少なくとも真信の知る方法ではないのは確かだった。ならばそれ以外に誘因ゆういんがあるはずだ。


 少年は無言のままに歩き出す。前髪に瞳が隠れ、掃き出し窓に彼の表情は映らない。映っていても、普段通りの顔があるだけだろう。


 しかしその実、やり場のない怒りと無力な自分へのいきどりに、真信は血がにじむほど強く拳を握りしめていた。





 いつもの通学路を真信が歩いていると、誰かが後方から駆け寄って来る足音がした。振り返ろうとして抱き着かれる。首に腕を回され絞められそうになったので真信は瞬時にそこから抜け出した。


「いきなり何をするのさ常彦つねひこ。おはよう」


「おはようっ! どうしたんだよ反応悪いな。いつもならボディーブロー食らう前に気づくのに。顔色悪ぃし風邪でも引いたか? んん? そういや深月さんはどうした?」


 そう矢継ぎ早に言って明るく歯を見せて笑うのは、クラスメイトの針木はりき常彦だった。


「深月なら体調不良で休みだよ」


「おお、久しぶりだな。ここ最近はずっと学校来てたから忘れてたが、そういや身体が弱いんだったな彼女は」


「そんなに休みが多かったの?」


「おう、一年の時は三分の二以上休んでたんじゃねぇかな。体育もクラスマッチも見学してたし。むしろここ最近がおかしかったんだ」


「そう……」


 やはり深月の体力の無さは今に始まったことではないらしい。それはなんだか、あの虚ろな表情と関係があるような気がして真信は口をつぐんだ。


 思考を巡らせていてふと、別のことが浮かんだ。


「ねえ常彦、最近あのおばあさんはどんな様子?」


 常彦は突然の話題に不思議そうな顔をしたが、すぐに意図を察したらしい。ちょっと考える素振りをしてから言葉を選ぶようにカバンを抱えなおす。


「ばあちゃんは、いつも通りだな。相変わらず深月さんのこと『あの一族は天からの使いだー』って言ってる。仲良くしてもらえーってさ。ほんと変わり身すげえよな」


 呆れたように苦笑する。今まで嫌悪をむき出しにしていた老婆が突如と信者になっていたら、孫でなくても困惑するだろう。


 真信の脳裏に深月の苦々しい顔が浮かぶ。彼女もこの話を最初に聞いたとき「そーっち行っちゃったかぁ」と遠い目をしていたくらいだ。人間の信仰心とはわからないものである。


 真信は脇にずれた思考を戻し、常彦に続けて訊いた。


「じゃあ、深月より前の当主の話とか聞いたことある?」


「それならこの前聞いたな。つってもいつの当主さんだかはわかんねえぞ?」


「それでもいいから」


 強く言うと、一瞬たじろいだ常彦は言いにくそうに視線を逸らしながら、渋々といった口調で語り始めた。


「……あそこの当主はコロコロ変わるみたいでさ。ほんの二十年くらいで、もう別の人が当主を名乗ってる。それもいつも若い女で、深月さんみたいにだいたいが未成年で、身体が弱くてあまり表に出てこない。

 ばあちゃんは『きっと特別な御仕事をなさっておいでなのだ』とか言ってたけど、それにしてもなんかおかしい」


 常彦はだんだんと真剣な表情になって、苦しそうに眉をひそめた。他家の事情に踏み込むことを告げ口するようで、気分が悪いのだろう。


 真信は彼の言葉で一つ確信したことがあった。深月に限らず、樺冴かご家の当主は身体が弱い。遺伝なのか、それとも……。だが深月の異常が樺冴の家にまつわるものだということは間違いない。


 聞きたいことは聞けた。真信は常彦からそっと離れる。


「友達のことあんま言いたくないけどさ。樺冴の人はなんか――っておい、どこ行くんだよ。学校はそっちじゃねえぞ?」


「ごめん。今日はサボるんだ。話してくれてありがとう。先生には適当に言っておいて」


 真信が手刀を切って手を振ると、常彦はちょっと考えてから、おもむろに口を開いた。


「なぁ真信。なんか困ってんならさ、話くらいいつでも聞くからな」


 突然のことに真信は呆気にとられた。常彦は優しい人間だ。事情など知らなくても、何か勘づくものがあるのかもしれなかった。


「あんま溜め込むなよ。お前みたいな奴は一回爆発するとひでぇことになるしさ」


「……ありがとう」


 照れたようにそう心配してくれる常彦にただ礼を述べ、真信は微笑んで彼に背を向けた。





 常彦と別れた真信は、学校に通じる道路から脇道にそれて、そのまま適当に進んだ。どこか目的地があったわけではない。とりあえず事のとっかかりとして人を探そうと思ったのだ。


 当ても無く町を散策する。一時間ほど歩いたが収穫はない。てっきり真信が一人になれば向こうから顔を見せると思ったが、当てが外れた。


 どこかで一度休憩しようかと周囲を見渡すと、ちょうど公園があった。


 ジャングルジムに滑り台、雲梯うんてい代わりにぶら下がった太いロープ。それらが一つに寄せ集められた中型の遊具の置かれた広めの公園だ。木がたくさん植えてあって見通しが悪い。


 ベンチで休もうと近づくと、木陰の向こうに見知った人物が子どもと遊んでいるのが見えた。



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