まだ願いは形にならないけれど


 蛍火みたいにほのかな非常灯が足下を照らす。横幅五メートル前後のコンクリートで補強された長い地下通路では、そんな弱い光だけが頼りであった。


 通路には微かに血の臭いが漂っている。ここで繰り広げられたのは、いかなる出来事だったのか。


 真信と深月の前に現れたのは、見るも無惨な光景であった。





 一階ロビーで見つけた隠し扉を二人で抜けると、ビル内に設置された監視カメラの映像が一望できる部屋があった。


 部屋の様子を見て嫌な予感はしていたのだ。

 まるで慌てて逃げ出したかのように散らばった荷物と、すでに冷えきったソファーの弾力。


 あえて樺冴家当主をビルに誘き入れたとは思い難い有り様に真信は一つの可能性を考えたが、まさかと脳内で棄却し幹部たちの姿を探した。


 部屋の奥には何処いずこかへと繋がる通路が通っていた。真信が先に入り、つられるように深月が後へ続く。


 土と埃の香りが残る通路は薄暗かった。目が慣れるのを待って歩を進める。地面には薄く砂が被っていて、数人の足跡があった。先にここへ来た者がいるのだ。


「暗いね。深月、足下気をつけて」


 声が反響するが、返事はない。振り返ると少女は確かに後ろにいた。


(考え事でもしてるのかな……?)


 そんなこともあるだろうと真信は前へ向き直る。そのまましばらく進むと、その光景はあった。


「これは……死んでる?」


 苦悶の表情を浮かべ、通路に折り重なるように倒れた三人の男たち。全員が手に拳銃を握りしめており、それぞれ眉間やこめかみに銃創があった。


 弾は頭蓋骨を抜け貫通している。男たちは当たり前に死んでいた。


 他に目立った傷はない。コンクリートに積もったこの先の土にも足跡は残っていなかった。周囲に人の居た気配はなく、それはつまり、この男たちを殺したのはこの男たち自身ということになる。身内同士で殺し合うなど、なんとも悲惨な末路だ。


「もしくは自殺かな。それにしては何か──」


 男たちの手に握られた拳銃を非常灯にかざす。それは三階フロアにいた者たちが持っていたものと同じ型の銃だった。


 懐からはミミズののたくった跡のような字が墨で書かれた、長方形の紙が数枚のぞいている。深月が隠形おんぎょうに使っていた札に似ていた。おそらく呪術に使う札だろう。


 やはりこの三人の男が組織の中堅幹部達だと見て間違いない。そしてこの先に足跡は残っていなかった。これで、先の部屋にいた人間は全部のはずである。


 それは真信の誘拐(未遂)事件が、首謀者達の自殺という最悪の結果に終わったことを示していた。


 これでは組織の情報を誰からも引き出せない。死体からは表面的な情報しか得られないというのに。喋る口が塞がってしまったのだから。


 真信は壁に付着した血痕の位置を記憶しながら、後ろの深月へ視線を向けた。

 彼女はこの結末をどう思っているのか、知りたかったからだ。


 屈んだまま少女を見上げる。薄弱な光に照らされた彼女の顔には、なんの感情も浮かんでいなかった。


 それだけではない。目はぼんやりと揺れ、視線は前方へ固定されているのにどこも見ていない。


 背筋に悪寒が走った。


 立ち尽くす少女からは人間の意志というものが感じられない。まるで以前見た、拷問ごうもんの末に心を壊してしまった捕虜ほりょのようだ。


(いや、あれよりはまだ温かみがある。けど……)


 ここに立っているのは、いったいなんだ?


 突入直前の記憶が脳裏をかすめる。


『もし私が喋ろうとしなくなったら、声をかけてくれると助かる、かなー』


 冗談のように告げられたそんな"お願い"。その意味するところを、なぜ自分は真剣に考えなかった?


 いい得も知れぬ不安と恐怖がせり上がってくる。


「みつ──」

「深月、また思考を忘れているぞ」


 なんとか深月に声をかけようとして、それは別の声に邪魔をされた。


 真信達が入ってきた扉からこちらへ近づいてくるのは、深月の後見人である菅野すがの源蔵げんぞうだった。


 代わり映えのしない真っ白な紳士服を着こんだ胡散臭うさんくさで立ちの男は、深月の肩を叩き、彼女に顔を近づけてささやく。


「言葉を忘れた人間など、獣と同じだぞ?」


 瞬間、鋭い破裂音が鳴った。


 深月が源蔵の手を払いのけたのだ。


「──わかってる。わかってるから」


 深月は源蔵へ、憎いかたきにでも向けるような冷たい視線を浴びせながら唇を噛んでいる。


 それ以上先を彼女は口にしようとしない。源蔵へ感じる苛立ちよりも、男の言葉の正しさを理解してしまっているような。


「いやなに、分かっているならいいさ。それよりこの有り様はなにかね? いつまでたっても連絡がこないから様子を見に来てみれば。失策だな」


 源蔵は言いながら死体へ歩み寄った。革靴の爪先で死体の顔を動かす。


「まぁ、身元がわかるだけマシというものか。後の処理はこちらでやろう。それよりも深月、真信君に言うことがあったんじゃないのかい?」


「そうなの?」


 真信は源蔵から深月へ視線を移す。その先では深月が複雑な表情で黙していた。少年がじっと見つめると、観念したように話始める。


「交換条件の終わり、おわかれってやつ、だよ。私達は今回のために真信を利用してた。でももう全部終わったから。だから、もう真信は解放されていいんだよ」


「それって……」


「世話係は終わりってこと。いないとは思うけど、まだあなたに目をつけてる奴らがいるかもだから。真信には悪いけど遠くに引っ越してもらう」


 あまりに唐突な別れの宣告だった。深月はなぜかふてくされたような顔をして、真信の反応も見ずに続ける。


「この町にいたら、いつまでたっても樺冴家の関係者だと思われちゃうからさー。ならいっそ、用済みとして処分されかけたところを逃げ出したってことにしたほうがいい」


 淡々と告げられた内容を真信は黙って聞いていた。それは自分のことなのに、まるで別の誰かの話を聞いているようで現実味がなかった。


 息を吐く度に胸部に重たい何かがのしかかる。怪我なんてしていないのに胸が痛みを訴える。まるで冷たい冷気をまとった細かな針で心臓を刺されている気分だ。


 息苦しさの訳もわからず、そうやって呆然とただ聞いていると、後方で皮肉げな低い声がした。


「私は反対したんだがね。遠ざければそれだけ目も行き届かなくなる。いっそ手元に置いた方が安全だろうに」


 源蔵がそう口を挟むが、深月に睨まれて引き下がった。これ見よがしに肩をすくめ口元だけに笑みを作っている。


 深月はそれにため息をつき、付け加えるように言った。


「もちろん遠くにいても、絶対真信の身の安全は保証する。だから真信はここで別れたほうがいい。ここが平和な日常に帰れる、最後の分岐点なんだから」


 これ以上関われば真信は完全に樺冴家の関係者として認識されてしまう。それも今までのような行きずりの関係ではない。樺冴家の事情に深く関わる者として扱われるのだ。


 それは、今回のようなことに巻き込まれる危険が増えるということだった。


 確かに身の安全を優先させるなら深月の言うことに従うべきだ。


 だが真信は、反射的に否定を口にしていた。


「それはできないよ、深月」


 予想していなかった言葉に深月は首を傾げた。後ろで胡散臭い男が愉快げに鼻を鳴らす音が聞こえたが、真信は気にせずに深月へと歩み寄る。


 いや、少年には気にかけている余裕なんてなかった。ただ、このままでは駄目だと思ったのだ。けれどその思いの出所がわからなくて、必死に考えて、ようやく理由を一つひねり出した。


「僕は自分の家から逃げてきたんだ。あの町でならと、条件付きで見逃してもらってる。だから、あそこを離れるわけにはいかないんだ」


 家を出たいと、長兄に告げた。父は長兄に説得され、場所を限定することで真信の出奔を許した。


 たとえ樺冴を狙う人間達から逃げられても、真信は平賀の監視から完全に逃れることはできない。町から出るということはあの家に連れ戻されるということを意味していた。


「たとえ死んでもあの家には帰りたくない。僕はあの町で生きるしかないんだ。だから」


 一度言葉に詰まって、真信はすがるように深月を見つめた。彼女はいつも通りの、ちょっとぼんやりした表情で自分を見つめ返してくる。それで胸のつかえが取れたような気がして自然と笑みが浮かんだ。


 なにか理由を探さなくては、この言葉を言うことができない己の不甲斐ふがいなさを恥じながら。


「だからもう少し、君の世話係を続けさせてくれないかな」


 深月は一瞬、驚いたように目を見開いた。それから何か考えるように視線を動かし、吐息をらす。彼女の思考にどんな変化があったのか真信には知る術もない。しかし深月は確かに、薄く微笑んで頷いた。


「そっか。うん。じゃー私は、代わりに真信のこと守るよ。一緒にいよう」


「………………信じていいの?」


 少し震えた声で確認する。その質問は恐れの現れだった。


 真信は昔、父親に同じ質問をしたことがある。信じていいのかと、ただそれだけの単純な問い。


 だがあの時返ってきたのは、冷たい嘲笑だった。


 その時の衝撃は幼かった真信には到底耐えられるものではなかった。もはやトラウマなのだ。


 だから本当は尋ねることすら怖かった。しかし確認せずにはいられなかった。無条件に人の言葉を信用できるほど、真信の心は強くなかったからだ。


 まるで死刑の宣告を待つような心持ちだと、真信は自分で苦笑する。微かな期待は臆病に隠れてしまうばかりだ。受け入れて貰えるわけがないと、過去の記憶が意識をさいなむ。


 真信にとっては、自分の全てを懸けた問いだった。


 けれど深月は軽く微笑みそれが当たり前みたいに言った。


「いーよ、信じて」


 簡単な言葉だった。それだけで、真信は大切な物を見つけたような気がした。


 真信が無意識に少女へ手を伸ばす。自分の言葉がどれほど真信の心を動かしたか少女は気づいていない。それでいいと、真信は納得する。


 伸ばされた手は宙をきり、深月の身体が真信へと倒れてきた。


 抱きとめると、少女は真信の胸に顔をうずめてしまう。


「えっと……深月? 疲れたなら源蔵さんに送ってもらう?」


「やだー。でももー限界だー。ごめん、おぶって帰って」


 返事をする前に腕のなかで寝息が聞こえだした。


「あー……ここから屋敷まで二駅くらいだったかなぁ」


 真信はそれにまた苦笑して、さっきよりも清々しい気持ちで少女を抱き抱えた。





 寝入ってしまった深月をなんとか後ろに回しておぶった真信が、入り口へと向かう。その様子を見ていた源蔵は、薄気味悪い笑みを口だけに貼りつけて呟いた。


「やはりあの男から聞いていた通りの人間だな、真信君は。探せば逃げる方法などいくらでもあるというのに。わざわざ自分から繋がれにいくのだから」


 呟きは足下の死体に向けて落とされているようだった。源蔵は死体の中の一つに呼びかける。


「君も、哀れだと思わんかね」


 返事があるはずはない。動かない濁った瞳孔が源蔵を捉えている。源蔵は死体の頭を踏みつけ、物言わぬ首を逆方向へ蹴り跳ばしてしまった。


「ふんっ。羨ましい限りだな」


 吐き捨てるように言って、源蔵は生者の居なくなった地下通路から外へと向かうのだった。





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