『プロローグ』



 そこは県内一の僻地へきちと呼ばれる地域だった。地名を緒呉おくれと呼ぶ。

 四方を山に囲まれた窪地で、この狭い空間に入るには山間に一本だけ伸びる峠道を越えてこなければならない。平成の大合併と呼ばれた時期に近隣の村と合流し名目上だけは町となったが、立地が立地なだけに孤立集落と呼んで差し支えない有様だった。


 見渡すかぎりの空と、山と、畑。民家がちらほら建っているのがよく目立つ。

 隆起した山裾に広がる森林の様子だけが、戦前から停滞し続けているようなこの地区に時の流れを教えてくれていた。


 そんな夏も盛りの八月一日。村の一番奥深くにある二階建ての大きな民家で、大柄な少年は額の汗を拭った。


 もっさりとウェーブがかった黒髪をかき上げる。すると髪の質量に隠されていた目元が露わになった。わずかな明かりにも目映そうに目元をしかめる少年の顔は、眉が太く、眉間には常にしわが寄り、濃いくまがその目元を陰鬱気に彩っていた。


 ひいらぎは息をつき、階段を上がる。


 今日は他県から大学のゼミ生が数名、泊りがけでやって来ることになっている。彼らの寝床を整えねばならない。


 緒呉おくれはよそ者を好まない地区だ。宿泊施設などない。だが今回ばかりは町からの強い要請を断りきれず、唯一同じよそ者のいるここ、小里おざと家が客人を迎えることとなったのだ。この辺りで小里おざとの家が一番大きいというのも理由の一つだが。


 階上には和室が二部屋ある。普段は物置同然に放置されているが、最低限の掃除は昨日済ませてある。あとは布団やら小物やらを整えるだけだ。


 仕事を終わらせるためにふすまを開ける。すると、閉めていたはずの窓が開きっぱなしになっていた。近づいて検分する。畳の上に金色の髪の毛が一本落ちていた。


「…………ちっ、アイツら。まぁた屋根に出たな、くそがっ」


 口の中で汚く罵りながら髪の毛を拾う。思い浮かべるのは金色の髪をした、男女一対の双子の姿だ。屋根に出るにはこの部屋から向かうのが一番手軽なのだ。


 小里おざとひいらぎは大きな身を屈め、窓枠に手をつく。

 そのとき外で小さく鋭い悲鳴が上がった。


「ぎゃぁっ!」


「!」


 聞き慣れた声の片割れだった。まさか足を滑らせたかと慌てて窓から身を乗り出す。しかしそこに二人の姿はない。代わりに金色の三つ編みが角の向こうに消えるのが一瞬見えた。


 どうやらひいらぎに気付いて逃げたらしい。屋根から落ちたわけではないようだ。


 ひいらぎは軽く舌打ちをして上半身を部屋へ戻した。逃げた双子を捕まえるのは至難の技だ。それより手早く準備をしなくては──。


 そう思ったのだが、見計らったように玄関のチャイムが鳴った。集落の人間はチャイムなど押さない。どうやら客人が来てしまったらしい。


 ひいらぎは顔を思い切りしかめ、階段を下りて玄関へ向かう。

 引き戸のそれを緩慢かんまんに滑らせると、案の定知らない顔の人間が四人、どこか疲れたような表情で立っていた。一人の少女に至っては背の高いおかっぱの女性に寄りかかっている。


 家主に最初に反応したのは、OL風のパンツスタイルをした、目つきの鋭い女性だった。


「初めまして。予定より早く着いてしまい申し訳ありません。わたくし九州にある―—」


「聞いてるよ。あんたが大学の先生じゃろ。他の連中は学生?」


 いちいち長ったらしい口上を聞くのが面倒で言葉を遮る。女性は驚いたように目を見開き、しかしすぐに愛想笑いに戻った。物怖ものおじしない女性だ。


「はい。民俗学部の准教授をしております、塑庄そじょう静音しずねと申します。これから約一週間、よろしくお願いいたします。こちらはお考えの通りうちの学生たちです」


 静音しずねが手で示すと、学生たちは順に挨拶を始めた。


「どーも。甘利あまり深月みつきです。お世話になります」


 一人目は疲れて寄りかかっていた少女だった。だらけた印象とは違い、スッと立ち上がって綺麗なお辞儀をしてみせる。光を透かすブラウンの長髪に、黒いトップスと淡い色合いのスカートという出で立ちだ。服装はシンプルだが少女の顔が驚くほど整っているので様になる。


 その眠たげな瞳と目が合って、ひいらぎは少し狼狽うろたえる。このど田舎ではこれほどあか抜けた女性などなかなか見慣れないせいだ。


 思わず唇を噛んだ柊の前に、視界を塞ぐようにして少年が割って入る。


「はじめまして。僕は平鹿ひらか真信まさのぶっていいます。よろしくお願いします!」


 髪を大学生らしく遊ばせた少年だった。優しげな雰囲気でにこやかな表情を作っているが、なぜか笑っているように感じない。むしろ殺意を感じる。


 特徴もない少年になぜか気圧されてしまったひいらぎは、最後の女性に視線を逃がした。どうせ名乗られるなら早く終わらせたかったのだ。

 すると女性は緑がかった黒いおかっぱ頭を派手に揺らしてひいらぎの前に躍り出る。


「どもども! 射澄いずみ千沙ちさっていいます! 留年してるから他の子より三歳年上の二十三だったりします。よろしくね!」


 両手を掴まれ強制的に握手させられた。切りそろえられたおかっぱといい、パーツをあるべき所に並べただけのような無機質な顔の造りといい、どこか人形めいている。だが浮かぶご機嫌な笑顔がそんな印象を吹き飛ばす。


 ひいらぎは眉間にしわを寄せて千沙ちさの手を振り解いた。ノリについて行けず気持ちが悪かったのだ。


 これが普通の学生なのかと、そんなことを思いつつ玄関の中を示す。


「……部屋は上じゃ。そこ使うといい。洗濯機とか、台所とか、風呂とか、自由にどうぞ。俺からはなんも口出しせんから」


 突き放すように言って奥へ進むと、学生たちも玄関に入って来る。保護者役の静音がもう一度、ひいらぎに頭を下げる。


「ありがとうございます。失礼ですが親御さんは……」


「おらん。父さんは夜に帰って来るかもじゃけど、当てにせんで。俺が家主ってことで」


「そうですか……。私たちはこれから郷土調査に出たいと思うのですが、よろしければ、お話が聞けそうなかたをご紹介願えませんでしょうか」


「……はっ、無駄じゃと思うけど」


 事前に伝えられていた訪問の理由をじかに聞かされて、ひいらぎは嘲笑を浮かべる。訝しく首を傾げるどこぞの准教授に、彼は意地悪く言い放ってみせた。


「町のほうから聞かされんかったけ? 緒呉おくれはよそ者嫌いじゃ。何を調べに来たか知りたくもにゃあけど、アンタらのことなんて、誰も相手にしやせんだろうさ」


 口の端だけで笑って、困惑する者達を見下す。

 それが彼流の来客に対する歓迎の仕方であった。


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