前提は紙片と枯れゆく
夕暮れの時間となり、屋敷の庭にも影が落ち始める。昼間にほんの数時間だけ振った雨の余韻で、空気は比較的冷たい。夏目前ではあるが薄着だと肌寒いくらいだった。
洗濯物を畳み終わった真信が縁側に腰かけひらひらと舞う蝶々の影を追っていると、勉強会の途中で寝落ちした深月が起きてきた。
「あれー、奈緒ちゃん帰ったの?」
「うん。後は一人で頑張ってみるってさ」
あの後マッドから二時間ほどで解放された奈緒は、深月や真信に教わりつつ全教科のヤマを張ることに専念していた。あまり時間がないので内容の理解までは進めなかったが、あの様子なら平均点はとれるだろう。
疑念だった科学については『なんか、解ける気がする……』とだけ呟いて帰って行った。
見送りの時、手の怪我の調子を心配されたことを思い出して、真信の口元が自然と緩む。悪態をつきながらも他人への気遣いを止められない、奈緒のひねくれた優しさが、いつもは与えてばかりの真信には心地良かった。
「なんだか奈緒ちゃんって、後輩ってゆーより妹みたいな感じしない?」
隣に腰かけた深月が真信の太ももに頭を預けて寝転がる。俗にいう膝枕状態だ。男女が逆だが。
真信は自分を見上げる深月の、瞳の奥に反射する夕日の光を見つめながら相づちを打つ。
「そうなの?」
「うん。後輩も妹も居たことないから分からないけど。気兼ねなく話せるからかなー?」
「そうかもしれないね」
不思議そうな顔をしながら、肌けた着物から伸びた白い足をパタパタさせて言うので、真信は苦笑してしまった。
それでなくても深月は身内になった人間にはとことん心を許してしまう傾向がある。今までそういった人間が周囲にいなかったせいもあるが、距離感の取り方が致命的に下手くそだ。いつか誰かに騙されやしないかと
本人に人を見る目が備わっているのが幸いか。
それに、奈緒が信頼のおける人物だということには真信も同意だった。
出会って二週間ほどが経過――奈緒としてはストーキングしていた頃も含めるともっとだろうか――したが、彼女の人となりは大かた理解したつもりでいる。
本人は他者を
なぜ仕事に拷問という過剰な手段を用いるのかだけは、彼女の印象と噛み合わない部分があるものの。それは奈緒にも何かしら事情があるのだろう。気軽に質問していい話題ではない気がするが、いつか聴く時が来るかもしれない。気になるならその時を待てばいい。
「奈緒ちゃんはなんだか甘やかしたくなるんだよねー。さすが生まれながらの妹ってことなのかな」
「そうだね。…………ん?」
頭を真信の両足の狭間でごりごり動かす深月の発言を微笑ましいと流そうとして、何かが意識に引っかかった。
「……………………待って。生まれながら妹? 奈緒は一人っ子のはずだよ?」
源蔵から受け取った資料にはそう記されていたはずだ。木蓮の家に子どもは奈緒しかいない。養子もなかったはずだ。
奈緒は小学生の頃に両親を交通事故で亡くし、一時施設に預けられた後は、書類上の里親に引き取られている。その間に姉と呼べる存在が居たなら矛盾はないが、深月の言い方だとまるで血縁上の姉がいたかのようだ。
深月にとっては真信の主張のほうが間違って聞こえるらしい。細く整った眉をひそめている。
「でも、血の繋がったお姉さんがいるって、嬉しそうに話してたよ。ご両親と一緒に殺されてしまったって言ってたけど」
またもや資料の情報と食い違う。奈緒の両親は事故死だ。交通事故の被害者なので殺されたという表現でも間違いではないが、普通、裏社会の人間がそんな誤解されるような言い方をするだろうか。
(どちらかの情報が間違ってる?)
深月に語った話のほうが正しいとして、奈緒が真信に嘘を吐いていたということか。
(いや、違う)
真信は奈緒と直接、家族の話を交わしたことはない。奈緒は踏み入ったことまでは話さなかったし、真信は資料の記載から、彼女の両親が事故死したという先入観を持っていた。
互いの認識がすれ違っていたとしてもおかしくはない。だから論点はもう少し前に戻るはずだ。
「真信ー?」
考えを整理しようと唸っていると、
いったい何を信じればいいのか。わけが分からなくなって、真信は頭を抱えた。
「……いったい、何がどうなってるんだ?」
ティーカップをソーサーに置く優雅な音色が、夕暮れの理事長室に響く。注がれゆく紅茶の匂いが室内をゆるやかに漂っていた。
机にティーカップが置かれ、
金に縁どられた白を基調としたカップに、
陶器の白に負けないほど透き通った白魚のような指先が、カップの持ち手をくるりと半回転させた。指は机を滑って給仕をしていた女性の胸元へ還っていく。
最も美しく映える指の角度に、細くなめらかな腕がちらりと覗く、眼を離しがたい袖口。一つの技術として大成された視線誘導に従えば、そこには異性を
並の男なら一目で恋に落ちるだろうその美しさを、源蔵はシニカルな笑み一つで受け流す。
「どうかしたのかね、
紅茶を含みながら書類にサインを入れる。渚はそれに笑みを返し、静かで耳に残る声音で口火を切った。
「
ずいぶんと懐かしい名を聞いて、源蔵はようやく渚に興味を示した。
「ああ、もちろん知っているとも。
「ええ、源蔵さんの
渚は源蔵の正面に回り、話を続ける。
「けれど木蓮
そうして十戒衆を告発しようと動き出した心優しい正義の人は、『知り過ぎた男』として家族もろとも消されてしまった。……タックスヘイブン周りでは実に聞き飽きたチープなサスペンスですけれど、当事者にしてみれば想いも命も打ち砕かれた悲劇の失敗譚なのでしょうね」
「その話がどうかしたのかい?」
「ええ、ええ。これでは終わりませんわ。終わるはずがないのです。なぜなら木蓮浩二には、愛する妻と二人の娘がいたのですから」
組んだ指の合間から挑発するように問う源蔵に頷きで返し、渚は劇場のステージで歌う女優もかくやという仕草で手を振り仰いだ。
「木蓮浩二を邪魔に思った十戒衆は、一人の部下に彼の処分を任せています。しかしその部下には人を暗殺できるような
渚がどこからか取り出した一枚の紙を、源蔵の前に置く。医者の書いた死亡診断書の写しのようだ。記された日付は今から三年ほど前のもの。そして氏名欄には、間違いなく『木蓮奈緒』と書かれていた。
「十戒衆はそこまで確認をしなかったのでしょう。一人生き延びた娘は、けれど小学校卒業間際に交通事故で命を落としています」
「よくぞこの短期間でそこまで調べたものだね」
「ふふっ。あの日、真信様に告げ口しなければ自由に調べていいと仰ったのは源蔵さんじゃありませんか。お許しがあれば私、いつでも全霊をお見せしますわ」
渚は
やはりこの男はやりづらい。気を抜けばこちらが彼の操り人形になってしまいそうだ。渚は密かに喉を鳴らし、本題に入る。
「煙に巻かれてしまわないよう、単刀直入に訊きますわ。――――本学に通う木蓮奈緒、彼女はいったいどちらなのかしら」
源蔵は渚の言っている意味を全て理解しているはずだった。けれど男は超然とした態度で椅子に深く腰掛け、多くを語らず渚へ問いを投げる。
「どちら、とは?」
この男は楽しんでいる。仏のように眼を細めながら、しかし決して相手に主導権を握らせない。対峙する者がどれだけ真実に近づけたのか、探偵の謎解きを拝聴する読者にも似て、一つ上のステージから他人を見下している。
やりづらい。やはりこの男は苦手だ。渚は再びそう思った。
「木蓮奈緒は二人います。一人は木蓮浩二の娘。もう一人は、運悪く両親を交通事故で失った天涯孤独の少女。木蓮奈緒が高校受験の時に使用していた経歴は、間違いなく後者のものです。けれど、今年の六月に入った頃でしょう。彼女の経歴は何者かの手によって前者にすり替えられていたわ。
そう、もしも生きていたら平賀に恨みを持っていておかしくない人間の経歴に」
同性同名、似た境遇にありながら、生死を分けた少女たち。片方は死に、片方は今も生きている。問題は、どちらが真信の前に立つ木蓮奈緒なのかだが。
木蓮浩二の娘としての経歴は、後から露骨な形で差し替えられたもの。本来の彼女は真信が思っていた通り、両親を事故で亡くした一人娘のはずである。
源蔵が真信へ渡した木蓮奈緒に関する資料は、高校受験時に調べられ保管されていたものだ。すり替えた人間もそんな資料の存在を知らなかったのだろう。
食い違いは、ここで起きた。
「彼女は今、協力者として真信様たちと行動を共にしています。これを偶然で片付けてしまっては節穴が過ぎますでしょう?」
渚は指先で二人の間に置かれた資料を退かし、隔たりを消して男へ
「質問ばかりでは女の価値が下がるというものだけど、仕方がないわ。これほど近くにいるのに、本音の一つも語ってくださらない貴方がいけないんですもの」
机に身を乗り出し、顔の高さを合わせて真正面から源蔵の瞳を覗いた。
「ねえ源蔵さん。貴方は、いったいどこまで知っていらっしゃるの?」
言った途端、源蔵は肩を震わせ始めた。喉の奥で低い嗤いを響かせながら。
日はいつの間にか姿を消し、僅かな残光が窓枠に切り分けられ、机の上に木葉の影を浮かびあがらせる。
地面付近はすでに真暗な夜気に満ちている。それは部屋の中も同じこと。電球の明かりは、机に遮られた床にまでは届かない。
男の来ている白いスーツが陰鬱な黒に浮かぶようで、渚はその底知れなさに身震いしてしまう。
男は愉快そうに目尻に
「どこまで、と問うのかい。しかし今件においては私も
紅茶に映った渚の緊張した面持ちは傾き、揺れ、紛れ──最後はそっくり男の口内へと飲み干されていった。
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