他愛ない学業の話


 マッドのお手製傷薬の原料が何なのか、真信は知らない。


 この傷薬は細胞組織の働きを促進し、傷口の治癒スピードを爆発的に上げる。その代わり育毛効果が尋常でない。


 試しに真信は、通りすがりの竜登りゅうとの腕にひと塗りしてみた。


 翌朝、サバナ気候の疎林がそこにはあった。


 手の平に毛穴が無くて本当に良かったと、真信はほぼ塞がった傷口を見てほっと息をつく。


 そんな日曜日の朝のことである。






「テスト勉強?」


「はい。せっかく優秀そうな先輩方がいるんですから、教えて欲しいな~って」


 朝の分の家事を終えた真信がそろそろ深月を起こそうかと考えていた矢先、奈緒が屋敷を訪ねてきた。


 客間に通された奈緒は、寝起きで船を漕いでいる深月に向かって拝むように手をすり合わせている。

 お茶を注いできた真信は首を傾げておぼんを脇に置いた。


「期末テストは明日からだよね? なんで今更?」


 京葉高校の期末テストは四日間を使って行われる。科によって内容に違いはあるが、前日に詰め込み勉強をして乗り切れるスケジュールでないことは共通しているはずだった。


 真信の純粋な問いに、奈緒は持参した日本史の教科書で顔を隠した。眼が泳いでいる。


「いや~……最近なにかと忙しかったのでテストの存在忘れてました……。えへっ」


「そんなどんよりした目でえへっとか言われても。諦めたほうがいいんじゃない? 奈緒は手に職を持ってるわけだし。あと深月はそろそろ起きて」


 奈緒にはすでに一人暮らしできる程度の稼ぎがある。進学はともかく就職の必要はないのだから、必死になって成績を上げなくてもいいのでは、と真信は言いたいのである。


 しかし奈緒は教科書から顔を出し唇を尖らせた。


「駄目ですよ! こんな仕事だからこそ、いつまで生きるか分かんないんですから。どんな状況にも対応できるよう、勉強はしておかないと! あと深月先輩はそろそろ起きてください」


「はっ……寝てないよー、起きてたよー」


 夢の世界から帰還した深月がようやく顔を上げる。

 真信はとりあえず、座卓に教科書とノートを広げた。


「まあ、奈緒の勉強時間不足は僕らにも責任あるわけだし、できるだけの助力はするけど……」


「ぶっちゃけお二人の成績ってどうなんですか?」


「僕は、暗記科目は点取れてるよ。他は……平均かな」


 自分が一年生の頃の成績表を奈緒に渡す。都内の高校と京葉高校では科目に違いがあったが、参考にはなるだろう。


「ホントだ。テスト範囲でバラつきありますね」


「歴史系は毎回丸暗記でどうにかなるからいいけど、応用が必要な理数系がどうにもね」


「なんだか意外です。お勉強得意そうな顔してるのに」


「学校の勉強より、平賀での生活で必死だったからね。正直、テスト終わったら内容もう記憶に無いよ」


 真信は奈緒が持参した一年生の教科書をめくりながら答えた。やはり半分くらいはうろ覚えである。


「でも、仕事の知識は授業でも役立つんじゃないですか?」


「……黒色火薬や逆王水の配合比率が進学校でもない学校のテストに出ると思う?」


「思いません。京葉高校もっとレベル低いです。じゃあ深月先輩はどうです?」


 苦悩滲む真信の言葉に奈緒は深く頷いた。そしてあっさりと少年を見限り、今度は深月にすり寄る。


 後輩から期待の眼差しを向けられ、深月も成績表を取り出した。ちらと見えたカバンの中身は整頓されておらず、テスト結果はノートに挟んだままだった。


「私はあんまり授業出てなかったからねー」


「「なにこれ」」


 紙を受け取った奈緒とそれを覗き込んだ真信が同時に声を上げる。

 深月のテスト結果は分かりやすいほど極端であった。


「日本史、古典、現代文が百点……これはすごいんですけど」

「科学と英語、数学科目は…………ひ、一桁?」


 あまりの点数差にそろって愕然がくぜんとする。文系科目はほぼ満点なのに理数系が赤点どころではない。


「失礼ですけど、どうやって進級したんですか?」


 奈緒が恐る恐る本当に失礼なことを尋ねると、深月はその端正な顔をうれいに染めて、柔らかに微笑んだ。


「私の後見人、実は高校の理事をやってて……」


「深月先輩ズルい!」


 奈緒がわっと泣き出す真似をする。気持ちは分かるので真信にも擁護ようごはできなかった。


「それにしても、どうしてこんなに偏ってるのさ」


「古典とか歴史の知識は生きるのに必要だからねー。呪術とかに対抗するには古文書に頼ることになるから。原物の変体仮名を読めないと死ぬ」


「ああ、なるほど」


「お二人とも、あたしが言うのもなんですけど、生きるのに必死すぎて他がなおざりです」


 ちなみに奈緒の成績は全教科平均より上程度で、ツッコミどころはなかった。


 三人で座卓を囲んで、各教科書を睨む。まず口を開いたのは真信だ。


「僕は暗記のコツは教えられるけど」


 深月も得意げに手をあげる。


「私はね、文系なら任せてくれていいよー。テストと関係ない裏話で三時間は喋れるよ」


 いまいち頼りになるのか分からない先輩二人に、奈緒は考え込む。


「う~ん。数学は普段からできてるんでいいですけど、今回の理科分野は科学なんですよね。まったく手つかずなんで、どこが分かんないのかも、あたし分かんないです」


 せめてテスト範囲の構造さえ理解できていればヤマを張れるが、どこが重要なのかも分からなければそれも不可能だ。


「ちなみに奈緒、科学のテストはいつなの?」


「明日です」


「わー……」


 現役高校生が三人集まって総員お手上げ状態だった。文殊の知恵はそれなりの知識人が揃うからこそ出て来るものなのだ。無知が三人揃っても知恵の菩薩ぼさつになど敵うべくもない。


 重たい空気の中、深月が机に突っ伏した。


「奈緒ちゃんごめんねー。頼っていいよーとか気軽に言っちゃったみたい。これが現実なんだ。ごめんね」


「諦めないで下さい! 大丈夫です。一日あればきっと一人でも……なんとか…………はい」


 言った本人が諦め始めている。

 このメンバーではらちが明かない。八方ふさがりの膠着こうちゃく状態に、真信は苦渋の決断をすることにした。


「仕方ない。マッドに頼ろう」


「マッちゃん? なんで――」


「呼ばレた飛び出るマッド来たれリっ!!」


 深月が小首を傾げた瞬間、勢いよくふすまが開く。

 陽光を背負って現れたのは他でもないマッド本人であった。


 マッドは今日も瓶底メガネをかけ、眩しいくらいに満面の笑みを浮かべている。


 少女の肩に先日羽織っていた白衣はなく、代わりに羊の着ぐるみパジャマを着ていた。フード部分には可愛らしいツノも付いている。寝間着、いや普段着かもしれない。


 唐突な登場に奈緒は面食らっていたが、この屋敷ではこれが日常だ。慣れている深月は驚きもせずマッドに手を振る。


「マッちゃんだー。おはよー、それ可愛いねー」


「深月ちオハー!」


「マッド、こっちにおいで」


 真信が自分の隣を叩くと、マッドは犬のように正座で滑り込んでくる。距離が近すぎたので真信はちょっと横にズレた。


「やぁマッド、丁度いい所に」


「ウい、呼ばれた気ガしますた」


「急で悪いんだけど、テスト勉強を見てくれないかな」


「おベんキょ?」


「これが範囲なんだけど」


 真信は奈緒の教科書をマッドに渡した。少女は金髪を揺らすくらいすごい速さでページをめくっていく。


 やがて教科書を閉じたマッドは、口をへの字にして主張した。


「コんなん劇場版のドラえもん見とけば分カるます」


「なるほど?」


 謎の理論だった。意味を掴みかねた女性陣が視線で説明を求めて来るが、真信もよく分かっていないので答えられない。マッドの頭の中を理解しようなど真信ごときでは一億と二千年あっても不可能だろう。


 なのでそこを議論しても仕方ない。マッドの頭の良さは折り紙付きなので、面倒な説明は飛ばして本題に入る。


「とにかく、奈緒に科学の勉強を教えてあげてくれないかな」


「むー? 奈緒ちーのためなら大歓迎デ送迎会まデやるますガ」


 マッドが頭を身体をくてーと曲げて腕で丸を作る。奈緒は焦ったように身を乗り出した。


「えっ、ちょっ待ってください。すごく不安です」


「大丈夫。僕も前に教えてもらった時、よく分からないけど問題解けるようになってたから」


「それ大丈夫じゃないでしょ!?」


 奈緒が怯えたような顔で叫ぶが、本当に解けるようになるから問題ない。勉強を教わっている時の記憶がない気がするが、特に問題はない。


「ソだ、真信サマー。頼まれ品ガ試作キますた」


 マッドはそう言って提げていた赤いポシェットから何かを取り出して真信に手渡す。

 一見ただのボールだ。軟式のテニスボールに似ている。弾力があるので軽く握っても破れない。


 真信も忘れかけていたが、以前マッドに、敵に囲まれた時に広範囲で使える睡眠スプレーとかを頼んでいたはずだ。これはその試作品ということなのだろう。


「ありがとう。効能のできは?」


「衝撃デ爆破の催眠薬ぶわー! 一気に広ガリますガ六十秒デ空気中のアルゴンと結合しテ無害なチワワなのデ室内デの飼育がおススメですナ」


 つまり強い衝撃を加えると中の薬品が散布されるが、すぐに無害な気体に変化するので屋外での使用には耐えないということだろう。


 相変わらず難解なマッド語である。


「他に効果は?」


 マッドの作るものだ。毛が生える傷薬のように、余計な副作用、もとい効能がついていておかしくない。そう考えての質問だったが、どうやら正解だったらしい。マッドは軽く頷き、ボールを指差す。


「コれ吸ウと、しばらくタタなくナるます」


「ん? 立てなくなる、じゃなくて?」


 言葉尻に違和感を覚え問い返すと、マッドは至極真面目な顔つきで大仰に頷いた。


「たたヌ」


 たったの三文字に、男として無視できない存在感がある気がして。

 真信は太股ふとももをそっと合わせ、着ぐるみのツノ付きフードをマッドにかぶせた。



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