埋め込まれた価値観
埃まみれの格好で夕食の仕込みをするわけにもいかない。一度着替えに戻るため真信は屋敷を出た。
珍しく深月が玄関先まで見送りにでたのは、どういう心境の変化だったのか。
ひらひらと手を振る深月と軽やかに鳴る風鈴にお邪魔しましたと頭を下げ、真信は帰路につく。
この町は年寄りの多いせいか、休日でも人通りは少ない。時折犬の散歩をしている人間を見るだけだった。
(そういえば、
完全に真信から興味を無くしたのか、それとも尾行専門の者に引き継いだのか。
平賀門下の人間にも役割というものがある。運動が苦手でも気配を消すのが上手い人間は、追跡を中心とする尾行を主に担当していた。逆に戦闘能力に秀でた者は、乱戦等へ投入される。
特に諜報や暗殺を専門とする人間の顔は家長の実子である真信ですら見たことがない者が多かった。
そこでいうと、真信の付き人だった静音は一通りなんでもこなすオールアラウンダーだ。
顔立ちが綺麗でどこにでも潜入できる。女性にしては上背があり、力が強い。気遣いもできて場の流れを読む頭もある。惜しむべきは突出した才力が無いところだが、そこは総合力でどうとでもなる世界だ。
そんな高い能力を見込まれて、彼女は真信にとって唯一の付き人になった。
共に過ごした時間は実の親兄弟よりも長いだろう。だからこそ彼女の思考は把握している。
真信が心変わりしないことを彼女は理解しているだろう。
(もしやこれは、『信用』に当たるんだろうか。……いや、まさかね)
──他者を信用するな。
──常に相手の言動の裏の裏を読め。
──現実的・論理的に思考しろ。
──感情なぞに惑わされるな。
仕事をこなす上で平賀によって叩き込まれる心得だ。
平賀に拾われた子供はもちろん、真信もその通りに育てられた。
思い出されるのは、人の心全て見透かすような、父親の冷えきった目付きだ。
『──以上だ。人員とは現地で落ち合え』
薄暗い部屋の一角。ごく普通の一般家庭を装うその家に、髪を全て後ろに撫で付ける父の整髪料の香りが充満していた。
与えられたのはとある豪邸に住む要人を殺す仕事の指揮だった。よほどの大金が動いているらしく、出会う人間も全て皆殺しにしろとの依頼らしい。
口頭だけで指示を解し部屋を出る。金縛りから解放されたみたいに大きなため息がもれた。たとえ実の親であろうと、あの男の前では一瞬たりとも気が抜けない。油断すれば食い殺される。そんなありもしない幻覚が浮かぶほど、父親の威圧感は鋭く重たいものだった。
これから父親の指示の裏付けをとらねばならない、そう考えて真信が顔を上げると、珍しく次男が待ち伏せていた。
耳と唇にピアスをつけ、髪を明るく染めている。慎重な長兄とも、従順な
「よお、仕事か真信」
「…………」
「へぇ、またどでかい仕事だなぁ。足元
にやにやと笑いながらそう話しかけられた。当たり前だが、これは真信への激励でもなんでもない。
いくつかの符丁が混じった警告だった。
「対価は」
「さっすが、話が早ぁい。次の仕事代わってくれよ。いいだろ真信くん」
「…………わかったよ」
部外者には筋の見えない
現場に着き丘の上から豪邸を見下ろす。今日手配された人員は先にそろっていた。責任者の連れる人員は毎回顔揃えが違う。仕事ごとに向き不向きがあるからだ。
ただし付き人だけは必ず同行する。次兄の付き人は苦労させられていると聞いた。
「若、なぜこの時間に集合を? この辺りの人通りを考えれば、早朝か夜のほうが良かったのでは」
脇に控えた静音が真信に尋ねる。それに真信は、場にいる全員に聴こえるよう答えた。
「ここの人間は夕方に顔ぶれを一新する。つまり、今が一番警備が薄い。夜から早朝にかけては敷地の中が客と使用人で溢れかえる」
『夕方までには帰れるように』とは、夕方には人間が帰る、という意味だ。次兄の言葉を思いだし、真信はさらに付け加えた。
「それと、子供は見かけ次第殺せ」
「なぜです」
今度は別の人間が訊いてきた。布で顔を隠しているが、骨格からして男だろう。
「ここの子供は訓練された連絡係だ。見逃せばすぐに応援が駆けつけてくる」
平賀家では、『遊ぶ』とは『殺す』ことの隠語だ。慈悲をかけ子供だと見逃せば足元を掬われる。次兄の情報にはそういう意味も隠されていた。
現地の内情を調べる手間が半分ほど省けた。約束どおり、今度次兄の仕事を代わらねばなるまい。
「はっ」
了承の声が周囲からあがる。それに頷いて真信は足音を殺して駆け出した────。
いつ思い返しても面倒な家だった。告げる言葉は嘘と誤魔化しと隠語だらけ。解釈を誤れば責任をとらされ殺される。常に綱渡りのような生活だった。
一瞬たりとも気が抜けない。目に入る、耳に入る全てを疑わねば、生きていけない世界だった。
なにより真信にとって一番理解できなかったのが、家族も門下の者たちも、誰もそれをおかしいと思っていなかったことだ。
その中で神経をささくれさせて生きてきたからか、いつの頃からか真信自身も他人を信頼することができなくなっていた。
深月が遅く帰って来たあの日、彼女に『深月のほうが信頼できるよ』と告げた瞬間、真信は強烈な吐き気に襲われた。
急いでのれんの向こうに隠れたから、深月にはバレなかったはずだ。
あの言葉に嘘はなかった。心の底からそう思ったのだ。しかし真信に刷り込まれた認識がそれを許さなかった。
──信頼など馬鹿のやることだ。
──論理的でない感情に振り回されるな。
頭の中でそんな
せり上がってくる胃液を飲み下して、痺れたままの思考回路を巡らせた。乱れた呼吸を整えるのに数分を要したのだった。
平賀の家から逃げ出した今も、真信はあそこから完全に解放されたわけではなかった。
「あっ、もう家か……」
ふと気がつくと、すでに家の近くまで来ていた。あと数分で借りているアパートにつく。
思っていたよりも長いこと、考え事をしていたようだ。
このまま一直線の道を進めば自宅だ。そろそろ鍵を取り出そうと立ち止まると、背後から車の近づく音が聞こえてきた。
真信は道の端に退きながら、無意識にエンジン音から時速を予測していた。
狭い道だというのにやけにスピードを出す車だ。危険な運転をするなと振り返ると、大きめのバンには車内を見えなくするフルスモークが全ての窓に張られていた。
何かがおかしい。あそこまでの改造は交通法違反だ。
嫌な予感がして真信は逃げ道を探した。しかし道路の両脇には家が立ち並び、脇道はない。いっそ塀を飛び越えようか。だが自分の思い過ごしだったら──。
そうこうしているうちに真信の前で車が急停止する。後部座席の扉が開き、中から二人の男が飛び出してきた。
(やばっ────)
目前の男達に対処しようと腰を落とした瞬間、後ろから
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