捕らえられた少年は


 視界が吹き飛んだ。


 地面がみるみるうちに遠ざかって屋根瓦が眼下に広がる。瓦に反射した太陽光が眼に眩しい。


 いらかの波と雲の波とかいう歌があったが、子供の日はとうに過ぎている。


 まさか自分が鯉のぼりの視点で家々を見下ろす日が来るとは。放心しかけた所で、真信は一瞬の浮遊感のあと放り捨てられた。


 どこぞの民家の屋根に尻餅をつく。滑り落ちないように四つん這いで貼りつくと、目の前に下駄を履いた真っ白い素足が舞い降りた。


 屋根に伏せたまま見上げる。繊細な生地の着物を辿っていくと、端正な顔をまばゆそうにひそめた少女の顔があった。その横には狗神が浮かんでいる。どうやら真信は狗神に引っ張り上げられたらしい。


「みっ──」

「しー。まーだ静かに」


 深月は唇に当てた人差し指で屋根の下を示す。


 さっきまで真信がいたその場所では、男達が高校の制服を着た少年を手際よく簀巻すまきにして車の後部座席に放り込むところだった。


 驚くことにその少年の顔は真信と瓜二つだった。それどころか背格好まで全く同じである。


「ね、ねぇ。あれって僕じゃない? え、僕死んだ?」


 これが俗にいう幽体離脱か! と思いつきで喋りながらそんなわけはないと理解している。ではあれはなんなのか、真信は言外に深月へ説明を求めた。


 少年の困惑した視線を向けられた深月は、腰に下げた巾着から小さな何かを取り出した。


「あれの正体ねー、これだよ」


「……こけし?」


 深月の手に握られていたのは飾り気のないこけしのような形の木片だった。彩飾はなく顔も書かれていない素朴な作りだ。


「正しくは人形だよー。人形はねー、古くは人形ひとがたと言われて、人間の代わり──形代かたしろ──として使われてたんだ。ほらー、紙を人の形に切り出したりするでしょ? あれも人形ひとがたの一種だねー。

 人形ひとがたに切った紙に本人の不幸や呪詛を移して川に流しちゃう『流しびな』が、今でもわりと有名な利用法かなー」


 深月は手の中の人形をもてあそびながら真信に楽しそうに説明する。


 本来の人形は霊体の依り代とされたり、あるいは人の災厄を押し付けたりするものだった。


 今でこそ玩具としての色が強いがかつては宗教的呪具として盛んに用いられていたのだ。


 国外の例でいえば中国始皇帝の墓に納められた兵馬俑へいばようも、生きている人間の代わりと考えれば日本の人形と同じ用法である。


 そもそも日本の埴輪はにわは殉死を禁じた天皇が、殉死者の代わりに土に埋めるよう考案したともされている。


 古来より人形とはすなわち、人間の代わりを成す性質を持つのである。


「今回はこの人形に真信の髪の毛を巻き付けて、式神として真信の代わりになってもらったんだー。喋ったりできないし反応薄いけど、まー大丈夫でしょ。本当は陰陽道の技なんだけどね。そこは応用」


 深月がどこか得意気に語る。この辺り真信もだいぶ慣れてきたもので、昔家族に隠れて読んでいた漫画本の知識を総動員させて彼女の言葉を自分なりに解釈した。


(つまり藁人形わらにんぎょうが本人になってしまうみたいなものかな?)


 確かあれも対象の髪の毛を藁人形に埋め込んで作るはずだ。それを釘で刺すと髪の毛の持ち主に呪いが伝わるという。


「にしても、髪の毛っていつの間に……」


「最初おぶってもらった時だよー」


「あぁ、あの時か、気づかなかった」


「一本だけ白髪が立ってたからそれにしといたー」


「あ、それはお気遣いどうも。……じゃなくて、これからどうするのさ。あいつらすぐ逃げちゃうよ?」


 さらわれそうになった真信を深月が助けてくれた。そこまでは理解できる。

 やけに準備がいいからこの展開を予想していたのだろうという推測もたつ。


 ならば後は今後の方針だ。まさか放っておくわけではあるまい。おそらく奴らは、真信という餌に食いついた獲物なのだろうから。


「うん、だからこうする」


 深月は頷き、隣に漂う狗神に右手を添えた。そうして正面を向いたまま小さく唇を動かす。


なれは狗神にあらず」


 深月の言葉で狗神がびくりと震えた。犬の顔の形だったものが溶けゆき、小動物が風船の中で暴れるかのようにその輪郭がうごめく。


なれは大群──狗神鼠イヌガミネズミ


 使役者による存在の再定義により、狗神だったものが上部に向けて弾けた。


 噴水のように吹き出した黒い汚水にも似た身体が細かく分散していく。それらは屋根に着地する頃には生き物の姿をとっていた。


 屋根を埋め尽くさんばかりに広がったそれは、真っ黒い鼠の姿をしていた。一匹は十センチ程度で、顔が細く尻尾が体と同じほどに長い。どこか二十日鼠はつかねずみに似ているが、狗神同様に煤のような存在であるため本物の生き物には見えなかった。


 狗神だったものは、何十匹もの鼠に代わってしまった。一匹一匹がそれぞれ違う動きをしている。どうやら独立して行動できるようだ。


「追え」


 深月が宙にかざした手を走り去っていく車に向ける。すると十匹程度の鼠が駆け出し、あっという間に車へ潜り込んでいった。


「これで行き先がわかるよ」


 深月が得意気な笑みを浮かべて真信を振り返る。そんな彼女に真信は素直な称賛を贈った。


「すごいね! こんなこともできるんだ」

「ふふっ、まあねー」


 少女は褒められて嬉しそうに頬をゆるめている。普段は可愛らしさより美人な印象が強いが、こうやって笑っていると年相応の女の子にしか見えない。……やっていることは決して可愛らしくはないのだが。


 真信は滑り落ちないよう注意して座り直した。すると数匹の鼠が寄ってきて、真信の手の匂いを嗅いだ。鼻がひくひくと動きヒゲがつられて揺れる。なんだか狗神の時よりも愛嬌がある。


「やっぱり真信はわんこに好かれてるねー」


「ねえ深月、こいつらはなんなの?」


 問いながら一匹捕まえて持ち上げると、鼠は抵抗もせず真信をじっと見つめ返してくる。真っ黒だからどこが眼なのか判然としないが、真信はそう感じた。


 深月は残りの鼠を呼び集めてそれを数える仕草をする。どうやら整列させたいようである。


「こいつらは狗神鼠イヌガミネズミ。曰く、犬神憑きの家には七十五匹で群れを成す鼠がいる……って伝承から、一時的に狗神の姿を変化させたの。こーしないとわんこは私から離れて動けないからねー」


 集まった鼠たちは重なり合い一つに溶けて混ざり合う。そうしてまばたきの間に、元の狗神の姿に戻っていた。


 真信の捕まえていた個体も手のひらから飛び降りて狗神の中に飛び込んで行った。もう鼠の姿を残っていない。


 狗神がこうべを垂れる。深月はその頭頂部に登って、ベンチに座るかのような気軽さで腰を落ち着けた。


「それじゃあ行こっかー」

「どこに?」


 手を前方であわせて伸びをする少女に真信が問う。すると深月は一つ息を吸ってから答えた。


「敵さんの本拠地。わらわら集まったありみたいな下っ達に身の程教えにいくんだよ」


 先程とは打って変わって、表情の陰に残虐さを潜ませた背筋の凍るような笑みだった。



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