必然の二人はすれ違う


 胃の内容物が無くなるまで嘔吐おうとを繰り返す。嘔吐えずくのを自分でも止められない。


 吐く直前に反射で息を吸い込んで、また吐き下す。呼吸もままならないほどそれを繰り返して、腹の中が空っぽになってもまだ胃が痙攣けいれんしているのが分かる。もう吐き出せるものがないからか胃の壁をこすり合わせるような痛みがあった。


 ようやく吐き気が弱まり真信は空気を求めてあえいだ。息を吸うたび、喉の粘膜ねんまくという粘膜が全て焼き払われたみたいにカラカラと痛む。


 意識がかすれていく。身体は寒いのに目頭だけやけに熱かった。自分はこのまま気絶するのだろうか。それも仕方がないかと全部諦めそうになった時、並ぶ家々に太陽の光が遮られた路地へ、突然足音が鳴った。


「おや、気分が悪そうだ。うん、気分が悪いんだね。大丈夫かい?」


 成熟した男の声が頭上に響く。その声はやけにくぐもって聞こえた。霞んだ視界に革靴が映って、真信は薄れていた意識をなんとか呼び戻す。


 しかし顔を上げるとまた吐き出しそうで男を見上げることができない。どうやら通行人に余計は心配をかけてしまったようだ、とだけ理解した。


「すぐ……治まりますから、お気になさらず」


「そうかな。うん、そうだね。では、せめてこれを。ミネラルウォーターだ。置いておくから後で飲むといい。今そこで買ったものだからね、未開封さ」


 俯く真信の目の前に透明なペットボトルが置かれる。


「あり……がとう、ございます」


 男の足に向けて礼の言葉を絞り出す。他人を前に気を張っているからか、だんだん気分が落ち着いてきた。せめて男の顔を見ようと視線を上げかけ、頭を大きな手の平で押さえられて失敗した。そのまま乱暴に撫でられる。


「あ、あの」


「――その人間らしさは尊いものだが。うん、尊くも隙ではある。気をつけなさい」


「えっ……?」


 圧力が消えて顔を上げると、そこには誰も居なかった。


「あれっ……」


 寂しい路地裏を一陣の風が駆け抜けていく。今確かに誰かがいたはずなのだが。見えていたはずの革靴。垣間見たはず顔は思い出せない。──いや、顔など最初から無かったのだ。男はフードまでチャックの続いた上着を着用して、そのチャックを全て閉じていたのだから。頭部はすっぽりとフードに覆われていた。


 幻覚でも見ていたのかと立とうとして、また少年の喉元に熱いものが込み上げてくる。慌てて顔を伏せるとまた靴音が鳴った。今度は背後だ。


「あっれ~? なぁにやってるんですかぁ、せんぱ~い」


 薄暗い路地に落ちた明るい声に、真信は振り返る。表通りと路地の間。太陽に照らされたそこに仁王立ちしていたのは、先に屋敷へ向かったはずの木蓮もくれん奈緒なおだった。


 急に現れた少女は袋をぶら下げたまま、驚き呆れるように肩をすくませている。


「その様子だとゲロってたんですね先輩」


「いや、えっと……」


「はぁい、そこに物的証拠がぶちまけられてますんで、どう取りつくろっても意味ないですよ~」


 奈緒が指さすのはさっきまで真信が顔を突っ込んでいた側溝である。言い逃れはできないようだ。

 真信は顔色を隠して、照れたような苦笑に表情を切り替えた。


「あ、あはは。ごめん、ちょっと気分が悪くなってさ。常彦に貰ったクッキー腐ってたかな。でももう大丈夫だから」


「はぁ? 大丈夫なわけないでしょ」


「いや本当、むしろスッキリしたし、平気だよ」


「だから、胃の中身ひっくり返したくらいで、心に溜まったうみが消えるわけないって言ってんですよ」


 鋭い言葉にはっとして奈緒を見上げる。自分を見下ろす少女の顔には侮蔑ぶべつに似た呆れが浮かんでいた。


「そうやって何もかんも押さえつけて、まるでそこに本当の自分があるフリして……。弱っちぃですね、先輩。あたしずっと先輩のこと、なんか不気味だなって思ってたんですけど、やっと理由がわかりました。その弱さを完璧に隠して自分の顔を一部分しか見せないから、気持ち悪いんだ」


「ご、ごめっ」


「違うでしょ」


 はっきりとした拒絶に謝罪で返そうとして、また遮られる。奈緒はいつの間にか真信の目の前にしゃがみ込み、虚偽もまやかしも許さぬというように彼の瞳を見つめていた。


 うす暗い日陰でも輝く澄んだ海の底みたいな彼女の浅葱あさぎ色の瞳に、真信の情けない顔が映っている。


「あたしは先輩の守りたい大切なお姫さまでも、先輩を慕う部下でもないんですよ。自分の限界、見極められるでしょ。目の前にちょうどお金で雇った都合の良い後輩他人がいますよ~? いっそ溜め込んでるもの、全部吐き出したらどうです?」


 一言一言を突き放すように言い切って、奈緒は視線を逸らした。至極つまらなさそうに唇を尖らせ、宙を睨むように真信の言葉を待っている。


 真信は黒霧に重く支配されていた自分の頭の中が、急速に澄み渡っていくのを感じた。

 静かな沈黙と微かに聞こえる奈緒の吐息に促されるように、真信の口から言葉が零れ始める。


「…………僕の采配ミスで部下が死んだことが何度もある。もっと僕が上手くやれれば、散ることのなかった命だ。あの頃は、それでも組織は問題なく回ってた。犠牲の一つや二つ、意に介さないくらい円滑に」


 それはまだ真信が平賀に居た頃の事。そう遠くもない思い出は、いつも仲間の血で染まっていた。


「けど、今は違う。みんな僕を拠り所にして付いて来てくれたんだ。一人も犠牲になんてしたくない。失敗は許されない。完璧でなくちゃいけないんだ。…………けど、僕がその器にないことは分かってた」


 ――――どうか若、皆をよろしくお願いいたします。


 平賀へ帰っていく偉代いよの背中がまぶたにちらつく。真信はその背中に確かに頷いてみせたのだ。


 圧し掛かる重圧、期待、依存。それだけならば少年は笑って受け流せる。けれど少年は知っていた。平賀という完成形を。完璧な機構を。


 そして、それを再現できるだけの手駒が、運悪く彼の内外には行儀よく整列していた。


 できるはずだと思ってしまった。できなければ嘘だと、できない自分に価値はないと。唇を噛んで、身の丈に合わない采配を振ってきた。誰にもその苦悩を見せないようにしながら。


 その結果が、この息苦しさだ。


「幸いまだ大規模な攻勢はない。きっと僕らの戦力を見極めきれてないからだ。きっとこの日常は長く続かない。そのとき僕が間違わないでいられるか、分からなくて怖いんだ」


 真信の告解に続きはなかった。一気に吐き出したものの大きさに真信自身の心が追いつかない。これ以上は駄目だ、自分を信じてくれる仲間への裏切りだとすら考えてしまう。だから喉元に詰まるもう一つを、真信は語れない。


 真信が小さく零した声を黙って聴いていた奈緒は、喋らなくなった彼に眉をひそめる。


「先輩の神経質な完璧主義って、おっきい組織にいたせいなんですね。莫大ばくだいな組織力で成り立ってた水準を、先輩個人で達成できるわけないでしょ。先輩バカなんですか? 妥協を覚えてくださいよ。先輩の理想に巻き込まれて走らされる周りの身にもなれってんです。そんな先輩、誰も望んでないでしょ」


 吐き捨てるように言われた真実に、真信は驚いて目をしばたたかせた。組織でないからこその妥協。それは、平賀であることが当たり前だった自分に欠けていた視点だったからだ。


 もう自分たちが平賀ではないその意味を、真信は今まで考えもしなかった。


 驚愕に緩んで隙を見せた少年の心に、奈緒は彼をさらに追い詰める指摘を放った。


「てかそれだけじゃないですよね。――――先輩あなた、平和が怖いんでしょ」


「…………あっ」


「自分だけが――いや違いますね。そう、が、こんなに幸せでいいのかって怯えてる。……幸福を求めてやまないのに、いざ目の前にぶら下げられると、そんな簡単に壊れてしまうものを信用できないのかな。うん、必死になって維持してる幸せは自分の手違い一つで簡単に壊れちゃうって、不安で安心できない。まるで平和っていう銃口を後ろから頭に突きつけられてるみたいに」


 言葉を探るようにして語られた内容は真信の思考そのままだった。心の中を的確に言い当てられ、呆然としたまま後ずさる。


 平和という銃口を突きつけられる。脳裏にその幻影が浮かぶほど、真信の心理を正しく言い当てていた。


 今まで自分が他人へと向けていた銃口は、姿を変えて真信に向けて構えられている。彼女の比喩は正しい。今までたくさんの命を奪ってきた自分がこの幸せを享受きょうじゅしていいのか。ずっとそう考えていたから。


「……なんで、わかるの」


 しかし誰にも言ったことのないこの感覚をなぜ奈緒に把握できるのか、それだけが解せない。

 真信の問いかけに奈緒は大したことないとでも言いたげな顔でニヤリと微笑む。


「半分は推測しながらでしたけどね。得意なんです、人間観察。てか、先輩が吐いたタイミングとか今の顔色とか見てればバカでもわかりますよ」


 顔を指さされて真信はようやく納得がいった。


「実践的なコールドリーディング。表情や仕草の機微から相手の思考を読み取る技術だね。……半分推測ってことは、もう半分は」


「簡単ですよ。幸せを受け入れられない気持ちはあたしも分かりますから。こんなに汚れた手で、何やってるんだって。あたしの場合はそ――」


 言いかけて奈緒は足元に視線を落とした。なぜ発言を切ったのか真信が怪訝けげんに思ってじっと見つめていると、奈緒は躊躇ためらいながらも続きを口にした。


「……その上、あたしは一人だけ生き残ってしまったから。幸福を感じるたびに、家族への罪悪感が追いかけて来るっていうか」


「そうか、奈緒のご家族は……」


「なんだ、やっぱり知ってたんですね」


「ごめん」


「いえいえ、むしろ調べないほうがバカですよ、バカ」


 罵倒を強調して、奈緒は袋を揺らしながら立ち上がる。ぐいーっと背伸びをしつつ真信から数歩下がった。通りの様子を観察しながら早口に捲し立てる。


「にしてもゲロ吐くほどとか。一人で背負い込みすぎじゃないですか? 先輩ってば、今まで組織に守られてきた自立したてのガキなんですから。良い感じに周り頼んないと胃に穴空きますよ。でもでも、あたしに頼りすぎるの無しですからね。あたしはあくまで学内の協力者なんですから。あっ、今日の晩ご飯は頂きますけど」


「奈緒は優しいね」


 遠回しの忠告がなんだか微笑ましくて、真信はつい口を挟んでしまう。


 弾かれるように振り返った奈緒は、一瞬固まったかと思いきや、すぐにカクカクと震え出した。動作がぎこちないように見えるのは真信の気のせいだろうか。


「なっ、なに言ってるんですか。話聞いてました? 別に真信先輩のために言ってるんじゃないです。先輩がそんなんじゃ、深月先輩が余計に心配するから仕方なくなんですから」


「やっぱり心配かけてたのかな」


「そりゃ、先輩は上手く隠してるつもりかもしれませんけど。女の勘を舐めないほうがいいですよ。きっと深月先輩にもバレバレです」


「肝に銘じておくよ」


 真信としては女の勘などという非科学的なものは信じられないのだが、奈緒の鋭い視線に気圧されるように頷いた。


 頷くついでに、心に最後に残ったモヤモヤを言ってしまうことにした。


「けれど奈緒、キミは一つだけ間違えてるよ。僕は幸せを恐れてるだけじゃない。今のこの日常が愛おしいほどに大切なのに、身に余るものだってわかってるのに。なのに、まだ足りない。満たされない自分が、一番怖いんだ」


 真信の突然の告白に、奈緒は愉快げに片方の口角を上げた。


「あはっ。見かけによらず強欲なんですね〜先輩。抱えきれないのにまだ欲するなんて。窒息死したいんですか? 自殺願望アリアリ?」


「理論的じゃないのは自覚してるよ」


「ま、別にいいでしょう。何もかもに理由がつけられたら感情なんて存在意義なくなりますもん。そういう身の程知らずの人間、あたしは好きですよ?」


「奈緒こそ、さっきみたいな真面目で皮肉な感じ、いつものぶりっ子口調より無理してない感じでいいと思うよ」


 ここまで愚痴をこぼしてしまったことが今さら恥ずかしくて、真信は意趣返しを込めて彼女をからかってみた。


「はぁ~? 大きなお世話ですぅ~!」


 奈緒が心底わずらわしげに吐き捨てる。しかしその顔は少しだけ赤く染まっていた。


 真信も立ち上がる。


「そろそろ気分良くなりました?」


「うん、もう平気」


「今度は本当みたいですね。んじゃそろそろ移動しましょう。口もすすいだ方がいいです。お水買ってきましょうか……って、なんだ。準備万端ですね」


 何のことか分からず奈緒の視線を辿ると、真信の横には、買った覚えのないミネラルウォーターが置かれていた。


「あれ? いつの間に……?」


「いいから、さっさと口すすいでください。ゲロ臭いです」


 冷たい目で促され、仕方なくペットボトルを手に取る。するとボトルの首の部分に何か付いていた。中身の見えない小さな袋。コンビニでよく見る販売促進用のおまけだ。


 水をあおりながらパッケージを見る。小さなヌイグルミがランダムで入っているらしい。


 どこかで見たことのあるような犬のキャラクターだ。危犬きけんというシリーズらしい。ペットボトルに蓋をしてなおも記憶を辿っていくと、ようやく思い出した。十年ほど前に一時期だけ流行はやった、世界の立ち入り禁止区域をモチーフにしたマスコットだ。


(また流行ってるのかな?)


 危犬きけんマスコットは五種類と、プラスでシークレットもあるらしい。

 試しに袋を破って中身を取り出してみる。出てきたのはヴァチカンの秘密文書館を模した薄茶色の犬だった。残念ながらシークレットではない。


「なんですそれ――――あっ、危犬きけんじゃないですか! 可愛いですよね、これ。あたし好きなんですよ」


 真信の手元を見た奈緒が食いついて来た。鮮やかな手つきでヌイグルミをかすめ取り、光にかざすように掲げている。よほど好きらしい。


「やっぱり、また流行ってるの?」


「さぁ? 確かに久しぶりに見ましたけど。また流行ってるのかもですね。で、先輩この水どこで買ったんですか? あたしも買ってきます」


「えっと……たぶん、そこのコンビニかな」


「行ってきます!」


 なぜか敬礼した奈緒は、真信にヌイグルミを返して止める間もなく走っていってしまった。


「それにしてもこの水、いつ買ったんだっけ……」


 それがどうしても思い出せず、真信は頭を押さえた。買った記憶がない。なのになぜ、そこのコンビニで買ったなどという返事が咄嗟とっさに浮かんだのか。今日はコンビニに寄った記憶すらないのに。


 何かを忘れている気がする。しかしそれが何かが分からない。奈緒が走っていった方向へ自身も歩きながら首を捻る。


 半分ほど減ったペットボトルを持ち上げて左右に振った。味にも外装にもおかしな点はない。何かが沈殿しているわけでもなさそうだ。


 もしかしたら、ただ忘れているだけで、本当は真信が自分で購入したのかもしれない。だんだんとそう思えて来る。


 ボトルの凹凸おうとつに従って揺らめく水に拡散されて、太陽の光がきらめいている。

 その向こうに、コンビニから出て来る奈緒が見えた。真信に気づいて駆け寄って来る。


「ヤバイ! 先輩ヤバイです! シークレットですよこれー!!」


 買ってすぐ歩きながら袋を開けたらしい。喜色満面でヌイグルミを持った手を振っている。

 真信はそれに手を振り返し、なんだか全部どうでもよくなって考えるのを止めた。


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