無自覚


 金属がコンクリートにぶつかる甲高かんだかい音が響いた。


「頭は覚めたか」


 腕を伝うしびれに嘆息しながら、真信は目下の人物にそう問いかける。


 床に押し倒された静音は呆然と短い呼吸を繰り返していた。正面の真信を捉えていた視線だけがゆっくりと左に流れる。


「っ────」


 そこにはナイフが突き刺さっていて、彼女の耳をえぐっていた。遅れてやってきた痛みに表情が微かに動く。


 表面上それは、痛みなど感じていないとでも言いたげなほど小さな変化だった。だがその内心は違うはずだ。驚きに彩られた覚悟が、彼女の内に滲み出す困惑と恐怖を必死に隠しているのが、冷静になった真信には分かってしまう。


 今までは、そんなことにも気づかなかっただろう。


(僕はこいつらの見せる感情を、必要以上に疑っていたんだな)


 真信は傷口を広げないようにナイフを抜いた。静音がまた痛みを堪えるように奥歯を噛む。


 彼女の左耳の淵に深い切れ目が入った。そのうちくっつくだろうが、傷跡は残るかもしれない。


 真信は黙って立ち上がった。静音はまだ頭が働かないのか、押し倒された状態のままになっている。


 小さな刃には静音の血が付着したままだ。緋色に染まった刃をきらめかせれば、そこには自分の背後に立つ十数名の人影が映っている。


 男女な比率は半々で、ほとんどがまだ年若い。さっきまでフロアにこんな集団は居なかったはずだ。真信が不測の行動をとったために隠れていた場所から出てきたのだろう。


 狙いどおりだ。


 血を拭わずに放っておけばナイフが錆びてしまうだろうが、真信は構わずポケットに仕舞う。


 そうして振り返ることなく、その場の全員に向かって言葉を放った。


「お前らが本当に平賀の未来を思って当主を選ぶなら、間違っても僕を支持するわけがないんだ」


 誰も応えない。ただ、動揺の気配だけがうごめく。


「兄上達は僕と違って、根本から裏社会に向いてるよ。二人揃って情が薄い。効率を考える頭もバランス感覚も備えてる」


「その程度のこと、若にもできるでしょう」


 反論はやはり前方からあった。静音が傷口を押さえもせずに、ゆらりと立ち上がる。伝う血液が彼女の服を汚していく。


 彼女達がようやく真信の言葉に反応したことを確認して、真信は首を振った。


「できることと向いていることとは違うよ。なぁ、みんなは僕に何を求めているんだ?」


 背後の影は動かない。発言は全て静音に一任しているようだ。ならばと、真信は彼女に向き直り問答を始める。


「事象を把握し切り抜ける適切な判断力──平賀を動かす頭脳を求めるなら、兄上を選べばいい」


「いいえ。効率のみを重視する彼のやり方では、いつか破綻が訪れるでしょう」


「事象を支配し動かす圧倒的な暴力性──平賀をまとめる統率力を求めるなら、次兄つぎにいを選べばいい」


「いいえ。力に頼った彼の短絡的なやり方では、いつか破滅を招くでしょう」


 二度とも、静音は落ち着いた声音で答える。それが彼女達全員の意見なのだろう。だがその考えには穴がある。


 彼女達は今も昔も否定しか述べていない。それだけでは確かな理由にはならないのに。

 真信は数歩下がって、場の全員を視界に納めた。


「じゃあお前らの言う二人の欠点を僕は補えるのか? 二人の実力をねじ伏せるほどの可能性が僕にあるとでもいうの? 違うだろ。もしあると感じていたとして、それはでっち上げの後付けだ」


 自分を見つめる幾つもの瞳が揺れる。己の言葉が全員に浸透するのを待って、真信は語り始めた。


「前は、あの二人を差し置いて僕を支持する人間がいることを不思議に思ってたよ。けど……。深月と出会って、世話しながら過ごして、なんとなくだけどわかった気がする」


 以前は認められなかった、誰かにすがりたくなる気持ちも、その人間のためにありたいと願う忠誠心も、真信なりに理解できたつもりだ。


 理解して、そうしてわかった。自分を慕う門下達、彼らは真信と同じだ。深月に夢見た自分と同じ。


 己に向けられるその眼差しに潜んだ光の意味を、真信はようやく掴んだ。


「みんな僕と同じだったんだ。いまさら平和なんて望まない。ただ『信じさせてくれる誰かが欲しい』そんな些細な夢だったんだよ」


「ち、違います。そんな勝手は許されないっ」


 焦ったような否定が飛んでくる。しかし、その声には当惑が見え隠れしていた。


 ──他者を信用するな。

 ──常に相手の言動の裏の裏を読め。

 ──現実的・論理的に思考しろ。


 ──感情なぞに惑わされるな。


 平賀で叩き込まれる行動原理だ。それは骨の髄にまで染み込み、真信含め門下の者達の心を縛っている。


 覚悟を決め意志を固めた真信ですら、いまだ間違っていることをしているような罪悪感を拭いきれない。


「確かにこれは平賀の教えに反することだ。薄汚れたこの手を伸ばすには綺麗すぎる願いだ。それでも僕は、誰かを信じたかった」


 拳を強く握り締め身体を震わせて真信は想いを吐露する。

 少年の言葉に隠顕おんけんする悲痛さは、罪を告解こっかいする神父にも似ていた。

 だからなのか、いつの間にか集団は真信の言葉に耳を傾けて、固唾かたずを呑んで続きを待っている。


「お前らはどうだ? お前ら自身のやりたいことはなんだ。なんのために僕を選んだ」


「それは、平賀のために……」


「本当にそう思ってるのか? 外から植え付けられた価値観で自分の思いを偽って、そう思い込むのは勝手だよ」


 深く息を吸い全員の顔を順に見据えながら、


「けどな、これだけは言っておくぞ」


 真信は自分の心にだけ秘めていた事を言い放った。


「僕はお前らを害する嘘など、一度たりとも吐いたことはない!」


 始めて見る真信の剣幕に全員が縮み上がる。それと同時に、彼女達の脳裏を素早く過去の記憶が通りすぎていった。


 敵をあざむくには味方からだと言わんばかりに、作戦の犠牲になっていく仲間たち。ただ使い捨ての駒としてあった門下を生かすための策を考えていたのは、いつだって真信だった。


 自分達を捕らえて離さない、ずっと続いている謎の息苦しさ。それは『信頼』という寄る辺を持たぬことによる、生きることへの覚束おぼつかなさでしかない。


 だから求めた。信じさせてくれる誰かが、自分達の上に立ってくれることを。


 誰ともなくそう気づく。すると能面のようだった彼女達の表情に変化が起きた。まるで憑き物でも落ちたように、その驚きを隠しきれていない。


 自分の言葉は彼女達に届いている。その確信を持って真信は続けた。


「平賀がお前らに応えることはない。静音、平賀はキミの両親を見殺しにしたんだ。強盗が入る前から門下達は待機していた。本当は助けられたはずなんだ。でも、それをしなかった。確実に対象を補足するためでもある。けどなにより、キミの素質を見抜き門下に引き入れるためだった。……他のみんなの時も同じようなものだ。平賀とは、そういう組織なんだよ」


 見渡すと、目を伏せる者がいた。唇を噛む者がいた。感情を抑えて瞳を閉じる者もいた。


 それは否定ではなかった。すでに受け入れ忘れようとしていたことを掘り起こされたことに対する自己防衛だ。


 口を閉ざす集団の代わりに静音が真信に答える。


「知っています。あそこで過ごしていれば嫌でも気づく。だからこそ、我々は貴方に当主となってほしいのです」


 見捨てられたくないと親に取りすがる、子供みたいな顔だった。そんな顔を見せられると真信も心が痛い。それでも真信には言わねばならないことがあった。


「なんだよそれ。それってつまりさ、今のあの場所が嫌だってことだろう。現状を保ちたいなら素直に兄上達を選ぶはずだ。でもそうしないのは、変わって欲しいからなんじゃないのか。────だったら先にお前らが変わってみせろよ! どうして、いつまでもあそこに捕らわれたままなんだ!」


 真信は平賀から逃げ出した。そこに負い目はあっても、後悔だけはしていない。だからこそ分からないのだ。なぜ彼女達がそれほど平賀にだけ執着するのか。


 か細い声が聞こえた気がして真信は静音へ耳を澄ませる。

 静音は溶けるような悔しさを乗せて、毅然きぜんと叫ぶように少年へ噛みついた。


「それができたらっ、私たちはこんなことしていません。だって私たちにはもう、あそこ以外に居場所がないのですっ」


 言われて、はっと気づく。


 両親を亡くし、手は汚れ、頼れる人は誰もいない。門下の人間はだいたいそうだ。

 もはや平賀が唯一の居場所なのだ。そこをどれだけ嫌悪していても簡単に捨てられない。長く深く浸かりすぎて、まるで囚人が監獄の壁に守られるように、その庇護下から出ることが怖い。


 他のどこも、自分を受け入れてくれる場所がない気がして、自由を恐れた。


 真信ですら完全に平賀から解放されたかといえばそうではない。そもそもこの町を指定されそれに従った時点で、真信は平賀の企ての一部でしかないのだ。


(きっと深月と出会うところまで親父の思惑どおりだったんだろう。……それでも僕は、今の選択を悔いてはいない。だから)


「たとえこの自由が仮初かりそめでも、守っていけば本物になるはずだ」


 呟きに静音が反応する。


「無理です。たとえ若がどれだけ尽力なさっても、たった一人では何も成し得ない」


「そうだ。だから僕は素直に助けを乞う」


 真信は優しげな表情を浮かべ、静音だけでなく場に集まった全員に向けて提案した。


「これからは平賀の門下としてではなく、僕の側の人間として共にいてくれ。そうして、一緒に居場所を作っていこう」


 少年にとって精一杯の言葉だった。真信はもう平賀の家へ帰る気はない。当主として彼女達を導くことはできない。だが、共に歩むことはできるはずなのだと。


 誰もが答えに窮して戸惑っている。声はない。視線だけが宙を行き交う。


 全員の答えが定まるのに、そう時間はかからなかった。


 やがて静音が、どこか困ったように眉根をよせて、微笑んだ。


「それは、若の私兵になれということですか?」


 それは彼女達なりの妥協案だったのかもしれない。どこまでいっても彼女達は仕える側の人間なのだ。なんとも言い分に、真信からつい苦笑がもれる。


「立場なんてなんでもいいよ。けどお前らがその方がいいと言うのならそう言おう。────平賀を捨て僕のもとにくだれ。お前らが本当に望んでいた物を与えてやる」


 真信としては、それは真摯しんしに彼、彼女達が平賀を離れやすいようにという配慮のもとに取った命令形式だった。そうすれば全ての責任は真信へと向かうからだ。


 しかし予想外にも沈黙が流れる。静音は他のメンバーの元に歩み寄り、あろうことかふところから拳銃を取り出した。周囲の者達も大差ない。ある者は棍棒を、ある者は鎖を、またある者はコンバットナイフを。


 示し合わせたかのように殺傷具を手に携える。屈伸をして準備運動をしている者までいるではないか。


「えっと……あの?」


 少年は狼狽ろうばいして疑問符を浮かべた。静音が周囲を見渡し全員と目を合わせてから、ひきつった顔の真信を見据える。


「ええ、真信様の言い分には心ときめきました。もはや反論などありません。

 ですので後は実力で我々を降伏させてみせてください。我らはいまだ平賀の門下です。張る意地も体面もある。自分達のやりたいように自由を求めることは、私達には許されない」


 それはいままで自分達が身を浸してきた場所と決別するための儀式だった。どれほど心が求めようと、簡単に手を伸ばせるほど気楽な問題ではないのだ。


 洗脳に侵された彼らの頭脳は、真信に従うための建前を必要としている。


 それは真信にも理解できる。できるのだが……。


「僕、対多人数戦闘苦手なんだけど」


「存じております」


 肯定しながら静音は拳銃から弾倉だんそうを引き抜いた。そして代わりに鉄の重りを装填そうてんする。殺人的重量となった鈍器それを試し振りしながら口元に微かな笑みを浮かべた。


「我ら十五名、屈服させてくださいませ」


 それが合図だったのか各々が武器を構える。

 そのなかでただ一人、幼稚園児みたいに背伸びしながら手をあげる者がいた。言うまでもなくマッドである。


「姉御ぉー、マッドは頭脳派非筋肉達磨だるまゆえ、見学よろしいカ?」


「十五名です」


「おワぁ、前言撤回ならズ。そコニ痺れリャ先制特攻攻撃ィ!!」


「よっと」


「ひャふるんッウベっ」


 注射器を握り締めて突進してきた少女を真信が適当に弾き飛ばす。先陣を切ったマッドが壁にぶつかりのびたところで、他の者達も駆け出した。


「なんでこうなるんだ!」


 悲鳴を上げながら真信も迎撃を始める。真信に銃のグリップで殴りかかりながら、静音が澄ました顔で言った。


「最初から決めていたのですよ。若を連れ戻せなかったらこうしようと。……いえ、ある日突然置いていかれた腹いせなどでは決してありません」


「気にしてたんだ!? せめて後日じゃ駄目かな!?」


「────時間がありませんので」


「時間……?」


 静音の言い方が気にかかったが、頭上を棍棒がかすめていって問い返す余裕がない。


 これも自分の今までの不始末の結果だと、真信は覚悟を決めて拳を握った。


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