追尾


 夜のとばりが降りるには、まだ一時の猶予ゆうよがあるはずだった。だが小雨のためだろう、空は分厚い雲に覆われ、辺りは薄暗い。


 頭上の電球は切れかけているのかチカチカと安定せずにまたたいている。現れては消える光輪のすぐ手前で、奈緒なおは見失った人影を探して辺りを見渡していた。


(おっかしいな。……目ぇ離したつもり、なかったんだけど)


 真信と深月を尾行していたあの二人の男。奈緒なおは彼らを追ってこの区画に迷い込んだ。


 奈緒がこの町にやって来たのは、中学になってからだ。小学生なら遊びまわるうちに道を覚えるだろうが、成長してから移り住んだ町では、それほど土地勘があるわけでもない。


 知らない道、知らない場所だった。


 立ち上る不安を押し隠し、自分の姿を気取られぬよう灯りを避けて人気のない道を進む。


 この辺りは空き家が多い。家を潰して空き地となっている土地もあった。耳を澄ませても絹の舞うような雨音がするだけで、人の足音どころか生活音すら聞こえない。


 道が狭いわりに見通しがいいのは、家という遮蔽物が少ないためか。尾行に向かない代わりに人を見失うような地形ではない。


 けれど薄暗いせいだろうか、遠く道の向こうは闇に溶けるようで、行く末の掴めない不確かさがあった。


 前髪を伝った水滴が細い鼻筋を流れ落ちていく。雨具は邪魔になるので携帯していない。張り付いた髪をかき上げながら、奈緒なおは雨水を吸って重くなったスカートのすそを払って先へ進んだ。


 幾度目かの曲がり角で、ふと人間の気配がして足を止める。


 塀と塀の間の細い路地だった。

 家一軒分のそれほど長くない道。電燈がないので細部がおぼろだ。覗き込むが、人の姿はない。


(ん~? 気のせい……?)


 そう思いかけるが、なにぶん視界の狭い道だ。一つ向こうの道に誰かがいるのではと一歩踏み出す。


 その時、視線の先を素早く何かが駆けて行くのが見えた。


「――――!」


 路地の向こうの道を、左から右へ。音は無く影が一瞬見えただけだが、あれは人だった。


 隣の道には誰かがいるのだ。それは本来なら安心に繋がる情報だったが、この時の奈緒なおはどうしてか、足が固まってしまっていた。


 そっちに行ってはいけない。


 この数年間でつちかってきた感覚が、全霊でそう警告している。


 思わず後ずさりした奈緒は、今度は弾かれたように振り向いた。ボールが水溜りを跳ねたような水音と、小さく鋭い舌打ちを確かに聴いたはずだった。だが音のした方向に人は見当たらない。


「――ぐぁっ」


 左耳がどこかから低い唸り声を拾った。絞り出したような苦し気な息遣いが遠くに響く。


 早まる鼓動に背中を押されるようにして少女は駆けだしていた。

 音があった筈の場所から路地に入り、隣の道を目指す。


(あぁもうっ、に飛び込めとか、趣味悪すぎなんですけど――!)


 息を止め思い切って細道から飛び出すと、さっきよりも広い道に出た。


「あっ――――」


 そこに広がるのは、日常とはかけ離れた光景だった。


 まず目に入ったのは巨大な闇だった。漂う生暖かな空気を食い殺すような闇だ。狗の顔の輪郭をしたその影は、時を止めた真黒なほむらにも似て、道の真ん中にぽっかりと浮かんでいる。


 その脇に影を従えるようにして立っているのは紺色の雨合羽だった。そこだけ明るく切り取った電球の光の下に、フードを目深にかぶった人物が立っている。女性だろうか、肩幅が狭い。


 とっさに気がつかなかったが、その手前では雨具を持たぬ男女が地面に屈み込んでいた。いや、それぞれ倒れた人間に馬乗りになっているのだ。倒れ伏すのは二人の男。見間違えるはずはない、奈緒が尾行していた男性たちだった。


 雨合羽がふいに顔をあげる。電燈の光がフードの影を拭い中身が垣間見える。驚くべきことに、その正体はまだ幼さの残る少女だった。


 奈緒の存在に気がついたのだろう。その顔がこちらに向けられる。


 奈緒は思わず、息を呑んだ。


 雨粒に彩られた世界に、ぞっとするほど美しい微笑みが咲いていた。


 魅入られるように、惹きつけられるように奈緒の足が動いた。感嘆の吐息が洩れたのも束の間、唐突に後ろから伸びてきた何かに口を塞がれてしまう。


「!?」


 抵抗しようと身じろぎしたが首筋に痛みが走る。次の瞬間、急速に意識が遠のき始めた。


「大丈夫だから。安心しておやすみ」


 まぶたが降りきるまえ、そんな優しいささやきを聴いた気がした。






 腕の中に倒れてきた赤毛の少女を抱きとめて、真信は空の注射器を傍に控えた女性に渡した。自身はそのまま少女の顔を確認する。


 整った鼻梁びりょうに気の強そうな目元。薄い唇が微かに開き、安らかな寝息を立てている。


 やはり、ここ数日真信たちをつけまわしていた少女だ。


「いやぁ、こいつら意外とすばしっこかったっすね、脇腹やられましたよ。よいしょっと。真信様、こいつらどうします?」


 捕まえて眠らせた男たちを両手に抱えた竜登りゅうとがそう訊いてくる。


 その横から、一人だけ雨合羽を着せられていた深月が寄って来て、意識の無い少女の頬を指でつっつき始めた。


 だが目線を投げかけるとすぐに気づいて頷き、再び狗神を出現させてくれる。真信はその上に少女を乗せながら竜登の問いに答えた。


「目覚め次第、尋問じんもんを開始する。別々に繋いでおいて」


「了解です。そっちの子はどうするんです? こいつらの仲間かな?」


「さぁね。何者にせよ、一緒に連れて行くしかないだろう」


 少女の首筋に張り付いた濡れ髪を指ですくって、真信は表情の消えていた自分の顔に、皮肉気な笑みを浮かびあがらせた。


「残念だけどこうなった以上は、もう帰してあげられない、かな」



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