不変の痕跡、見つめる瞳
「岩石信仰?」
二時間以上かけて大掃除を終えた放課後、夕暮れ迫る河川敷を歩きながら、真信は隣の少女に聞き返した。
深月は早くも歩くのに疲れてきたのか、真信の着るジャージの裾を握りしめている。真信の制服は汚れてしまったため、教室で着替えてから校舎を出たのだ。
理事長室横の倉庫から真信が見つけ出してきたのは、町の古い地図だった。樺冴家がこの町にやって来た時に、町のことを調べて記したものなのだそうだ。
深月はそれを受け取りしばらく眺めてから、おもむろに頷いた。そして皆が帰って誰もいなくなった教室で真信に告げたのだ。
常彦の言っていた例の橋の原因がわかった、と。
人がよく転ぶ、動物が怯えて渡らず、車のエンジンが止まる――。車がどうのというのはさすがに飛躍した噂話であろうが、奇妙な話であるのは事実。
今は
真信の問いかけに深月はぼんやり空中を彷徨わせていた視線を彼に定める。そしていつもの得意顔で人指し指を伸ばした。
「つまるところはそれだねー。アニミズムなら、授業とかで聞いたことあるでしょ? 万物に魂が宿るっていう考え。日本でも石や岩に対する信仰って全国にたくさんあるんだよー?」
全国と言われて真信は首を傾げた。少年の中で石ころと宗教とがつながらないのだ。お地蔵さまに手を合わせるのはわかる。だが、その辺りに転がっている石や岩を信仰するというのは、どうもピンとこない。
反応の薄い真信に、深月は続けた。
「形が変とか立ってる場所が不思議な巨石はほら、パワースポットとか言われてたでしょ? 信仰の出所って、そういう些細なものなんだよ。老婆が石になった
最後の深月の言葉で、真信はようやく合点がいった。
この世に移ろわぬものなど存在しない。人間は当たり前のように死にゆく。植物は成長し、いつかは枯れ果ててしまう。自然も地形も、親から聞いた話と全く違うことなど、珍しくもない。
そんな中、泰然と変わらず佇む巨大な岩を心の拠り所にするのは、それほどおかしな話ではないのかもしれなかった。
信仰には、必ずしも奇跡や
「でも、そんなに大切なものならなんで道端に放置されてるの? お
地図に付属していた写真に写るのは、地面に突き立てられた細長い石だけだ。囲う木柵もなければ雨風から石を守る屋根もない。
素朴な疑問だった。思い返せば、テレビで見るそういった石や岩も野ざらしがほとんどで、しめ縄がされているだけだったりする。信仰するならば大切に守ろうとするのが人間というものではないのだろうか。
目的の橋が見えてきた。町の外れまで歩いてやはり疲れたのだろう。深月は、もちろん社を建てて
「
町は今日も曇り空だったが、上流のほうでは雨が降っていたのだろう。川は増水し灰色の圧力が次へ次へと押し進んでいく。濁流とまではいかないが、幼子が足を滑らせればそのまま流されてしまいそうだ。
人の代わりにビニール袋やお菓子の包装紙が流れていく水面を眺めながら歩を進めると、二人はいつの間にか橋の前に着いていた。
「昔はねーヤシロっていうのは、神を下ろす土地そのものを意味してたんだよ。お祭りの時に
んで、やっぱり面倒になっちゃったのかなー。時代が下るにつれ壊さず残すようになって、それが今の神社の原型だったり」
深月の説明は続く。
最近気がついたが、深月は自分から積極的に話題を提供するタイプの人間ではない。それでも、彼女はできるだけ声を出すようにしているようだった。
人は喋るのを止めると途端に言葉を忘れていく。言葉を忘れた人間など獣と同じ――というのは源蔵の言だが、なるほど深月は人間らしい己の心を、こうやって守ってきたのだろう。頭の中の知識を披露するのは、話題を考えるよりも安易で楽しいのかもしれなかった。
深月が楽しそうなのは、真信が彼女に耳を傾け反応をちゃんと返しているからでもあるのだが、この少年がそこまで気づくはずもない。
二人はしばらく橋を渡る通行人を並んで観察してみたが、常彦の言うような現象は起こらなかった。ただ、不思議と野鳥が近づいてこない。真信の覚える違和感はそれだけだ。
「ちなみに日本書紀なんかだと庭と書いてミヤって
「両方とも建物のことじゃなかったんだ」
「うん。だから大切なのは囲いじゃなくて、信仰物そのものなんだよ。形あるものを信仰するのも、形ないものを信仰するのも、結局はおんなじ。人間が何を信じるかなんだよねー」
深月を道に残し、真信が伸び放題になっている草原に分け入る。地図だとこの辺りに例の石が立っているはずだが、いかんせん雑草が気力旺盛で視界が悪い。
通行人から怪しむ視線を向けられつつ、ようやくそれを見つける頃には、真信のジャージには雑多な種類の葉っぱや種がはりついていた。
草の根元を踏み折って道を作り、深月の手を引いて石を二人で見下ろす。
「それにしても、おざなり過ぎない?」
「ま、
川沿いの草原の中、橋の影に隠れるようにその石はあった。
長さは成人男性の腕一本分、横幅は手の平を広げた程度だろうか。長方形の石は、横倒しにされ草に埋もれていた。石はその三分の一ほどが地面に刺さっていたのだろう、隣の地面に深い穴が開いていた。
真信は屈み込み、伏した石を撫でる。雨が続いていたからか、跳ねた泥がこびりついていた。
指に引っかかりを覚え石の裏を覗く。そこには文字が彫られていた。劣化が激しく読み取れないが、恐らくは年代と、人名が書かれていたのだろう。
同じように覗き込んでいた深月が、取り出した資料を見ながら言う。
「大昔の偉い人を
「つまり、倒れちゃったのが嫌で、手近な橋に
「もしくは、この石そのものがこの橋の鎮守を司っているのかもねー。そのへんは資料が残ってないから推測でしかないけど」
真信は再び石を見下ろした。どこにでもありそうな石がそんなことを起こすとは不思議でならない。まるで石そのものに自意識が宿っているようだ。
しかし深月に言わせれば、こんなものは自然現象と同じなのだそうだ。石が起こそうと思って起こした異変ではなく、ただ自然とそうなっただけ。
だから元に戻してやれば事態も収束する。真信は慎重に石を持ち上げて穴に挿した。思いのほか重量がある。ジャージで良かったかもしれない。湿り気を帯びた土で着ているものが汚れてしまった。
「でもこれが、どうして狗神と神隠しに繋がるの?」
穴の隙間を埋めて石を固定しながら、深月に問いかける。深月は言っていた。全てこの石が原因なのだと。
「言ったでしょ、不変の象徴だって。狗神が歪めちゃう現世を固定する陣。その
穴を埋め終わって深月が石に触れた。押してもびくともしない。これでもう倒れることはないだろう。真信が手に着いた泥を払うと、深月がまた喋りだした。
「現実と異界を
でも
(つまりレジャーシートが風に舞い上がらないように、四隅に石を置いとくようなものなのかな?)
普段よりも水位の上がった川を見ながら、真信は自分なりに理解する。
深月の手を取って斜面を登ると、もう日が暮れ始めていた。オレンジの光が水面を染め、今だけ穏やかな日常を彩っている。
美しい風景の中を電車が滑るように通り過ぎていった。それが何か気持ちの区切りになったようで、深月を覆っていた微かな緊張感が安らぐ。少女が微笑みを零し、夕暮れの景色を眺めている。
「常彦君に感謝しなくちゃねー。神隠しだけじゃ、どこの石に異変が起きたか特定できなかったから」
こういう石は町の中に他にも複数あるという。神隠しが起こり狗神が現世が歪ませていることがわかっても、原因の石が特定できない。陣を施したのはずっと昔の人間だ。深月も直接場所を把握しているわけではなかった。
地図には石の場所だけが記されているわけではない。主要な呪具や霊脈も書き込まれている。一つも漏らさず石だけに絞って探すのは一苦労だ。
今回はたまたま、橋の異常と石の存在をすぐ結び付けることができた。神隠し現象の要因となる石の特定に繋がったのだ。おかげで事態が深刻化する前に早期解決できた。狗神――深月から離れた場所でも神隠しが起こるようになれば、手の打ちようがなくなる。
神隠しに
なんにせよ情報をもたらしてくれた常彦は、今回一番の功労者と言えるだろう。
「そうだね、常彦にはこんど良いお菓子でも用意しようか」
「手作り?」
「いいかい深月、思春期の男が男からの手作り菓子貰うとか下手したら泣いちゃうし、さすがにお菓子は市販のほうがおいしいから僕が買ってきます。お互いのためにも」
「へぇ、そういうものなんだー」
「人にもよるけどね。常彦はちゃかしながらでも全部食べるだろうけど…………」
そんな冗談を交わしながら真信の意識はあの石に引き戻されていた。正確には、倒れた石が刺さっていたはずの穴の状態に。
あの穴の深さ。形。どう見ても自然と倒れるようなものじゃない。誰かが故意に石を真上から引き抜き放置したとしか考えられなかった。
誰かのイタズラがたまたま御石であっただけなのか、それとも、この石を狙って掘り返したのか。この石が見えるような角度に監視カメラを設置していなかったので定かではないが、偶然が過ぎる、とも考えられる。
「真信?」
「あっ……なんでもないよ、帰ろう」
つい立ち止まっていたらしい。先を行っていた深月に声をかけられ、真信は橋に背を向けた。
(まあ、考え過ぎかな)
そう楽観に立ち返り、背中に感じる視線を無視して真信は少女のもとまで小走りに駆けよるのだった。
一組の若い男女が河川敷を仲良さげに歩いている。そんな微笑ましい光景をレンズに映し、観察する人影があった。
河川敷横に建つ比較的高いビルの屋上で、腹ばいになり双眼鏡を覗く一人の少女。赤いウェーブがかったセミロングの髪が風になびいている。少女は
間違いなく、先日も真信たちを観察していたあの女生徒だった。つまらなさそうな表情で髪の毛を指で弄んでいる。
「や~っぱり、先輩たちってなかなか一人にならないなぁ。始終べったりとかキモっ」
人の心の奥底まで観察するような大きな瞳を細めて、少女――
「んん~?」
見るからに怪しい。普通の感性がある善良な市民ならば一発で通報するであろう状況で、少女は一人おかしそうに
「――あはっ、きな臭ぁーい」
口元だけに笑みを作り、少女は双眼鏡を下ろして荷物を背負った。
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