泥はあふれて決意となる


 あれからどれだけ走っただろう。無我夢中だった真信が正しい距離など覚えているはずもなく、心臓の脈打つ速さだけがここがすでに見知った場所にないことを告げている。


 しばらくして真信は呼吸を整えるために立ち止まった。電球の落とす光の中心でぼんやりと立ち尽くし、やがて頭を抱えて座り込んでしまう。


 周囲に人影がなかったことをいいことに頭を足の間に挟んでうめきの体勢を作る。自分の身体に遮られてできた影は濃く、足元の砂利の形すら判別できない。


 どこをどう走ってきたのか覚えていない。とにかく必死に自分をあの屋敷から遠ざけたくて、……あれ以上、深月の前に立っていられなかった。


(僕は、最低だ……)


 語った想いに嘘はなかった。深月に母親のような抜け殻になって欲しくなかったし、彼女の未来を本気で心配していた。


 それだけならよかった。まだ美談で済んだ。けれど真信は、自分の弱さを直視するのが怖くて、彼女の決意を汚そうとした。その事実は変わらない。


 いいや、それだけじゃない。


(あれじゃ、この町の人間と変わらないや)


 それが既視感の正体だった。自分の正義を相手に押し付け恍惚こうこつと語る姿は、樺冴家を悪として自分たちの正しさを疑わない町の住人たちと同じだった。


(いや、深月をおとしいれようとした分、僕のほうが浅ましいか)


 そのうえ真信は逃げてきてしまった。また弱さを重ねてしまったのだ。


(戻らないと……。戻って、謝らないと)


 やるべきことは分かっているのに立ち上がることができない。


 どうにも不甲斐なくて頭を掻くと、硬い感触が頭皮を削る。真信は、自分の手に折り畳み式のナイフが握られていることに気がついた。


 あんな状況だったのに、わざわざ拾ってきたのだ、無意識に。


「ははっ、なんだそれ」


 また情けなくなって思わず笑いが洩れる。そのままナイフを見つめていると、思考の狭間に何者かの影が見えた。


滑稽こっけいだな』


 頭の中で声が聞こえた。素の自分より乱雑な口調を気取り、そのくせ他人を疑わずにはいられない、神経質そうな少年の声。


 それは心の内の深い所から響いてくる。真信は声の主に思いをせた。


 きっと彼は、自分の弱さが他人に露見しないよう、身内の前では言動に注意している。そのくせ他人に根拠のない優しさを振り撒くのは、味方を作って引きずり込んで、自分を守りたいから。せめてこの世に見捨てられたくないと願ってしまうほどに心が弱いから――――。


 それは他の何者でもない。平賀の家で生まれ過ごし、疑心暗鬼に憑りつかれた真信自身の声だった。


 自問自答の声は明白な思考となって、真信の頭を廻る。


『戻って、謝って、それでどうするんだ?』


(どうするもなにも、謝って、それで……。それでまた深月と)


『なぜ?』


(なぜって、それは……)


 問答の岸で、真信は自分がその問いから目を逸らしていたことを思い出した。


 あの時は、自分がこの町に居なくてはならない必要性を説いた。だがもうそれは通じない。深月の言うとおりだ。捜せば、きっと道は無数にある。


 だからもう一度、己に問わねばならない。

 どうして自分は彼女の傍に居たいと思うのだろう?


 その答えは、今となっては明白だった。


(初めてだったから。……嘘でも、誤魔化しでもなく「信じていい」と言ってくれたのは、深月が初めてだったから)


 結局はそれだけなのだ。初めは自分と重ねているだけだったのに、いつのまにか深月の中に潜む強さに惹かれていた。そして真信の求めていたものをくれた彼女の存在は、彼の中で大きなものになってしまった。


 深月を失いたくなくて、傍にいるために狗神について知ろうとした。その結果がこれなのだから皮肉なものではあるが。


 また疑惑の思考が繰り返す。


『許可されたから、信じるっていうのか? 口約束になんの意味がある』


 “意味”、と以前は常に考えていたはず言葉を、真信はなぜか無粋ぶずいだと感じた。それでようやく納得する。


(そっか、僕は誰かを信じてみたかったのか)


 なんとも簡単なことだった。


 真信は自分があの家を出たいと考え始めたきっかけを思い出した。


 人を殺すことも、門下からの期待も、真信にとっては決定的な苦痛ではなかった。全て慣れ親しんで、当たり前だと思っていたことだ。そもそも真信は本質的にの人間だ。平和なんてものよりも、そういうことに向いている。だから、きっかけはそうじゃない。


 真信はただ他人を騙したくなくて、騙されたくなくて。嘘だとか裏切りだとか疑惑だとか、そんなあの家に蔓延まんえんしていた全てが嫌になって、信じられる何かを渇望した。


(誰かを手放しで信じてみたかった。けれど自分の意思でこの人を信じようって決めるのはまだ恐くて。だから……)


 ――――いーよ、信じて。


 そう言ってくれた深月を、真信は全力で信じたかったのだ。

 真信はやっと気づいた。人を欺いて生きるより、人を信じて死んでいきたかったのだと。


(でも、できなかった……)


 理屈をつけて深月の言葉を否定して、深月の意志に反発して。

 彼女の心の強さを信じてあげられなかった。



 平賀真信は、本当は誰よりも、樺冴深月を信じてあげなくちゃいけなかったはずなのに。



 自分にできなかったことを成し遂げようとする他人は、いつだって眩しい。羨ましいし妬ましい、痛ましくて見ていられなくなることもあるだろう。けれど、やはり惹かれてしまうのだ。


 真信は実家から逃げた後のことを考えていなかった。逃げた理由すら自覚していなかったのだから、そこでなにをやるべきなのか、自分に何ができるのか、彼に分かるはずもない。……だがその迷いは今日ここで終わる。


(やりたいこと、ようやく見つけた。――――僕は深月の力になりたい)


 逃げ出した真信だから、立ち向かい続ける彼女の強さに憧れた。手助けをできたらと、そう思うのだ。


「信じる」


 その言葉は甘く苦く、まだ真信の心を締め付けるけど。

 今度こそ彼女を信じるのだ。


 手助けといっても方法はまだわからない。いまだに深月のやろうとしていることは無謀にしか思えない。

 けれど信じると決めた。深月が「できる」というのなら、誰が無理だ無茶だと言おうと真信だけは信じなくてはならない。


 信じるための理由を探すのは疑うことと何も変わらないから。


(きっと疑うってことは、他人が自分を傷つけはしないかって怯えてることと同じなんだ。なら、僕はもう、自分の人生を怯えて生きていたくない)


 信じることに理由は必要ない。信じたいから、無条件に信じる。

 たとえその先でいくら傷つこうと、疑って切り捨ててしまうよりずっといい。そうであるべきだと、真信は願う。


(まずは仲直りしないとな)


 もう思考に影は見当たらない。俯いている必要もなくなった。ナイフを無事なほうのポケットに突っ込み屋敷に戻るために立ち上がろうとして、耳が変な音を拾った。やけに低い位置から音が聞こえた気がする。


 後方から柔らかなものを堅い地面に叩き付けるような音が近づいてくる。何かと振り返ると、猫が真信に向かって走って来ていた。近くまできて、それが屋敷に出入りしている三毛猫だと分かる。


 真信の目の前まで来た三毛猫は、前足を真信のズボンに引っかけ伸びあがり、彼の顔の前でしきりに鳴き声を上げ始めた。必死になにかを伝えようとしているようだ。


 なんだかいつもと様子が違う。


「えっと、どうしたの猫宮さん?」


 何を伝えたいのかわからない。餌が欲しいというわけでもなさそうだ。どうすればいいのか分からず真信が困惑していると、猫は突如動きを止め前足を下ろした。


 見開いていた瞳を細め、耳と鼻をひくつかせながら真信の後ろに回る。

 遅れて女性のものと思われる軽い靴音が近づいてきた。


 その誰かは真信から少し離れた所で足を止めた。強い光にくらんでいる真信の眼には前方にいる人間の顔はよく見えない。かろうじて足元だけが光に照らされている。女性もののヒールを履いていた。


「お迎えにあがりました」


 暗がりに抑えた女性の声が降りる。その声で黒い人影が静音だとわかった。


 迎えとはどういうことなのか、問いかけようとして真信の背中に温かくて弾力のある物体が勢いよくぶつかった。猫が驚いたように飛びのく。真信の首に腕が回され、次いで皮膚の下へ冷たい液体が侵入していく感触がはしった。


 急激に意識が遠ざかっていく。何か薬を打たれたのだと頭の隅で分析しながら、耳元で囁かれた言葉の意味が全く理解できなかった。


「グッナイ真信サマ。おやすみプンプンプリン弾でアイニージューよぅ?」


 安定しない抑揚と吐息に鳥肌が立つ。それが失いそうになった意識を一瞬繋ぎとめた。自分がいったいどんな薬品を打たれたのか、それが恐ろしくて気絶どころではなかった。


「なっ……そっ……」


「真信様、はお気になさらず。ただの麻酔です」


「ぁ――――」


 うわごとのような疑問の声に静音が呆れたように答えた。―――—彼女の言葉でこれほど安心したのはいつ以来だろう。



 それが真信の認識できた最後の思考となった。


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