泥はあふれて願いとなる


 先ほどまでの緊迫した空気は遠く、屋敷の中は静まり返っている。


 広い座敷にぽつんと取り残された深月は、座布団の上で茫然自失に項垂うなだれて座っていた。狗神の姿は見えない。深月の横ではいつの間にか三毛猫が丸くなっていた。


 空間に漂う風があまりにも静かで、深月にはさっきまでの出来事が白昼夢だったのではないかと思えてならない。けれど喉の痛みがそれを否定していた。あれは全て現実なのだ。


「あんなに大声だしたの、初めてかも」


 それだけではない。もしかすると、他人に対して怒鳴ったのも初めてかもしれなかった。


「今のって、あれかな。喧嘩けんか? ってやつだよね」


 友人を持ったことがない深月はそんなことも判別できず三毛猫に呼びかけた。猫は耳だけ動かして応える。


「そっかー、あれが喧嘩か。そっか……」


 深月は不思議と微笑みを浮かべた。怒鳴ったのも、喧嘩したのも、少女にとっては生まれて初めてのことだった。思わず笑い出しそうだったが、すぐに不謹慎ふきんしんだと気付いて表情を引き締める。


「喧嘩した後は……そう、謝らないと。あれほとんど八つ当たりだったし……」


 冷静になった今となっては、自分がどうしてあれほど激昂げっこうしたのかわからない。あの時ははらわたが煮えくり返っていたのに、ひたすら怒鳴ったあとは気分がむしろスッキリとしていた。


 もはや欲求のほとんどが掻き消えた深月にも、いまだ譲れないものがあるのは確かだ。

 けれど、それで彼を傷つけていいというわけではないだろう。


 羨ましいと思ってしまった。逃げ出した彼を、逃げることを許された彼を、羨ましいと。

 自分にできないことを成した彼だったから、深月は八つ当たりしてしまったのだ。


「うん。やっぱり謝らないとねー」


 きっと真信は傷ついただろう。だから屋敷を飛び出してしまったのだ。


 彼が自分に何かを期待している予感はあった。それが具体的になにかは分からない。もしかするとほんの些細なものだったかもしれない。だが、なんにせよ真信が言葉以上の何かを求めて深月に訴えていたのは確かなはずだった。


 けれど深月は彼を、拒絶してしまった。


「どうしよう……」


 自分の予想以上に彼を傷つけてしまった可能性に思い至る。発言の全て明確に覚えているわけではない。それでも己のしでかしたことの重要性に気がついた。


 深月は喧嘩をしたことがないから程度が定かでないが、世間でいう普通の知人だとか友人だとかなら、もはや絶交ものの言い合いだったのではあるまいか。あんな言い合いを経た後で元通りの関係に戻れるなんてできないのではないかと、急速に焦燥感が募る。


「い、いや。でもあの真信だし」


 そうだ。真信は普通じゃない。疑り深いのに能天気で、慎重なのにぬけている。優しくて人を思いやって、なのにどこか他人行儀で驚くほど心が広い。

 どうしたらそんなちぐはぐな人間になれるのかというほど印象が変わる。けれどその全部が真信で、きっと彼は難しい人生を送ってきたのだろう。


 ここに来る前の真信を深月は知らない。だが深月が見てきた彼はそういう人間だった。一度の喧嘩で絶交を言い渡すような懐の狭い少年ではない。


 思い返せば、真信は最初から不思議な少年だった。


 深月は彼が普通の少年でないことになんとなく気づいていた。身のこなし、視線の置きかた、ちょっとした動作が一般人と違うのだ。あれは暴徒の中に放り込んでもひょっこり無傷で帰って来るタイプの人間だ。


 だから真信を守る上でその点の気使いはしなかった。深月のすべきことは、彼にとって未知のモノから彼を守ること。深月を狙う呪術者達から真信を守ることだった。


 呪術者界隈かいわいの流れは源蔵が把握している。町に敵が入ってくればすぐ分かる。だから後はできるだけ近くにいれば安全だと思っていた。


 油断していたのだ。二人の関係に大きな変化はないと思っていた。

 まさか真信があんなに踏み込んでくるは夢にも思わなかったのだ。


 元の関係に戻れなかったら、その時二人はどうなるのだろう。


「もう会えないのかな。それは……嫌だな」


 ご飯がおいしい。話し相手になってくれる。深月を恐れず、拒絶しない。

 笑顔で頷いてくれて、気が利く少年。

 真信は狗神のことを知ってなお、側にいようとしてくれた。


 真信が当たり前に行ってきたことが、どれほど深月を喜ばせたか、深月本人すら正しく理解できていなかったのだ。


「そっか、人ってこんな簡単に誰かを好きになるんだ」


『大切な友達』


 口をついた出任せが、まさか本当になろうとは思わなかった。


「一緒にいたいよ、真信……」


 誰ともなく呟く。


 胸が苦しくて荒縄で締め付けられているみたいだ。人間関係を避けてきた深月にとってそれは、初めての感覚だった。これほど苦しいなら、こんな感情知らなければよかったとすら思うのに、簡単には手放したくなくて子供みたいに自分の身体を掻き抱く。


 帰ってきてほしい。会いたい。一人は寂しい。


「いかなきゃ」


 さっき狗神を無理に使ったせいで身体はまだだるい。狗神は呪詛の塊だ。使い方を誤れば使役者の肉体にも呪詛が染み入り損傷を与える。


 深月は重たい身体を懸命に動かそうと試みた。たとえ這ってでも真信の所に行かなくてはと、全身に力を籠める。


 なんとか立ち上がろうと座卓に手をかけ身体を起こした。その時、唐突に閉じていたふすまが開いた。


 一瞬真信が帰ってきたのかと思ったが、違った。そこに立っていたのはOL風の恰好をした長身の女性だった。短めの髪を後ろで乱雑にひっつめている。あとやけに目付きが鋭い。


 知らない人物の登場に深月は首を傾げる。足音はなかった。玄関から人の出入りを見張っている風鈴ふーちゃんの音もなかったはずだ。


「どなたですか」


 深月は足元の影を微かにうごめかせ、警戒の体勢をとった。


 慎重な誰何すいかに、女性は整った無表情のまま深月を見つめ、うやうやしく頭を下げる。


「お初目にかかります。わたくし、真信様の付き人をしております、静音と申します」


 “付き人”という単語に馴染みがなかったが、真信の名前に深月の緊張がゆるんだ。

 女性はそのまま深月の前に膝をついて屈んだ。握手を求められているらしい。


「本日はお知らせに参りました」


 深月がつい伸ばされた手を取ると、女性がそう言った。


「真信様は、もうここには戻りません」


 端的に告げられた言葉に深月の頭は真っ白になる。その瞬間、着物からはみ出ていた右腕にチクリと刺さるものがあった。痛みの出所を追っていくと、そこには小さな針がつき立っていた。


 事態が把握できないまま深月の視界がかすむ。身体から力が抜け、前のめりに倒れる。静音と名乗った女性は深月を受け止めると、畳に横たえた。


(なに、これ)


 深月は気を失わないように必死で意識を繋ぎ止めた。だがそれ以上はどうしようもない。やはり身体は動かず、声も出せない。なんとか目を開けて状況把握に努めるが、それも薄ぼんやりとしている。


 静音が立ち上がると、ふすまの奥から他にも人が入って来る気配がした。足元しか確認できない。入ってきた人間のうち年若い少女らしき人物が、深月の周囲をくるくる回り始めた。


「あっはー! 毒草の耐性はあるっテ聴いテたケど、マッド特製『おやすみプンプンプリン弾』は良く効くマッドすゴい!」


「待ちなさいマッド。なんですかその得体の知れない名前の薬品は」


「んぬー? マッド的ニ直訳すると、『刺激の少ない麻酔』デすガな二カ?」


「なら始めからそう言ってください。……というかなぜプリンなのです」


「なゼっテそリゃプリン風味だカらデすよー!」


「注射に味は関係ないでしょう!? なぜそうやって余計なところに才能を発揮するのですか貴女は!」


 おかしなやりとりの後、静音が咳払いして他の人間に指示を出す。


「んんっ。とにかくカミツキ姫を運んでください。これで依頼は達成です」


「おウっ、猫逃ゲましたガ?」


「放っておきなさい」


 呆れたように静音が答える。

 様子を窺っていた三毛猫は隙を見て庭から出て行ったようだ。


 でたらめな抑揚で喋る少女は屈み込み、深月の顔を覗く。マッドと呼ばれた少女は金色に輝く前髪を上げて額を全開にし、分厚い眼鏡をかけていた。ニヨニヨとした笑みで口元を飾り、深月の頬を指でつつく。


「んニ? 姉御ー、コの子まだ意識あるマすよー? ちょっち量少なカったカメモメモ。モウ一本いっとくます?」


「くれぐれも適量を守ってくださいね」


「アイアイサーのうけたまわリ!」


 直後左の袖をまくられ肌に何かが刺さった。少女はふざけた言動のわりに腕はいいのか、今度は痛みがない。


 それがとどめとなった。

 深月の意識は、現実から急速に遠のいていった。




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