受け継がれた血


 ちょうど神社と小里家との間にある山腹であった。明かり一つない山の中は薄暗く、四方を臨むものは節の大きな大木たちのみ。夜目が利くのか、ひいらぎは自然の作る闇の中を平然と進んでいた。


 急ぎ足に木の根を飛び越える。途中で暑さに耐えきれなくなったのか和服の上半身を脱いでたくましい筋肉を露出させていた。ここまで走って来たらしく、大量の汗を滴らせている。


「はぁ、はぁ、……っ、確かこのへんの……」


 もっさりとした前髪をかき上げる。頬を伝う雫を拭うことすらせず、陰気さの染み付いた目は足元のわだちだけを鋭く捉えていた。


 少年が足を止めたのは、彼の身長ほどある段差の前だった。両側には土中からとび出すように鎮座するこけむした大岩が二つ並んでいる。彼が猫背をさらに曲げて間を潜り抜けると、突如風景が変わった。目の前にはさっきまでなかった大穴が空いている。しかもそれは奥深くへと続いていた。中の壁は崩れないよう補強され、洞窟になっているようだ。


 ここは小里の直血だけが知る隠れ場である。


 かつては鬼のおさが自身の緊急避難所として用意した場所だった。だが鬼の因子が小里に集まるにつれ、この場所も小里の血筋にしか開けなくなり、結果この場所もいつしか小里家へ譲り渡されたのである。そんな曰く付きの地であった。


 しかし小里が“鬼”として先祖代々引き継ぐ遺産の一つとしか知らない柊は、特に感慨もなく奥へと進んでいく。彼の身長に対して天井が低いため、ほとんど中腰だった。


 二分間ほどそうやって進んでいくと、ふいにひらけた場所に出た。


 学校の体育倉庫ほどの空間だった。壁は塗り固められ電気も通っている。洞窟というより居住空間に近い。いくつもの棚と、その奥にある広めの実験机。なぜか壁には所狭しと鏡が並んでいた。鏡合わせになっていて風景が何重にもなっている。方向が掴めず気持ちが悪い。


 柊は鏡の中にたくさん現れた自分に顔をしかめた。前回来たときはこうではなかった。いつの間にかまた、螺剛らごうはここを改造していたのか。


うちを建て替えたのと同じじゃ。またこいつは、受け継いできたものを壊し作り変える)


 噛みしめた奥歯が鳴る。柊は苛立ちをそのままに、入り口に背を向けて椅子に座っている螺剛らごうへ近づいた。


「おいっ、緒呉おくれの騒ぎ、元凶はお前じゃろ。あの薬のせいなんか」


 机を隔ててそう呼びかける。螺剛らごうはいま柊に気付いたというように、やおら振り返った。


「ほう、生きてたのか。ああ、お前の姿は父方そとに寄っているからな。鬼化したやつらに追われずにすんだか」


「能書きはいい。さっさと止めんか」


 柊はどこか全身に違和感を覚えながらも義父を睨みつける眼光をゆるめない。だが螺剛らごうは余裕の笑みを浮かべ、肩をすくめた。


「無理だな。一度変貌した細胞を人間のそれに戻すことなどできない。なんたって、アレは奴らの中に残る鬼の遺伝子を掘り起こし活性化させたものだからな。原点回帰というやつだ。やつらはだけで、歪められたわけじゃないのだから。

 小里のように元が人であったなら、戻りようもあったのだがな。まぁ、結界が消えれば弱体化もしようが」


「いちいち……言ってることが難しいんじゃ。……元どおりには戻せんつう……ことじゃな」


「なんだ、息も絶え絶えなわりに、思ったより落ち着いているな?」


「……別に。俺はこんなクソ田舎、大嫌いじゃからな。はぁ、ぅぅっ。住人がっ、どうなろうと……知ったことか。……それよりお前の目的は……なんなんじゃ。っ、ぐぅぅ」


 脳天から爪先まで痛みが駆け抜けて柊は机に手をついた。おかしい。身体が言うことをきかない。この痛みはそう、さっき鏡を見てから──鏡に映った歪んだ自分の像を見てから始まった。


 筋肉を引き裂くような痛みに耐える柊を、螺剛らごうはにやにやと見下ろしている。


「目的? そりゃあ、私こそが鬼になるために決まってる」


「……なんじゃと?」


「私は小さい頃からずっと鬼に憧れてきた。その力に憧れてきた。だから鬼になりたくて呪術者となった。小里の存在を知った時には天に感謝したぞ。人から鬼となり、また人へと戻った変化自在の血筋。これほどおあつらえ向きの家系が現代に残っていたとは。だからお前の母親に近づいて、男を殺して、子ども予備をこしらえて、女は実験に使い潰した。全ては私が鬼となるため。生物の頂点として君臨するためだ!」


 男が高笑いを上げた。耳障りなその声が柊に事実を思い知らせる。


 父親も母親も、こいつが殺したのだ。殺されたのだ。

 鬼になるなんて、どうでもいいこの男の願いのために。


「くだらんっ」


 吐き捨てる柊に螺剛らごうは憐れむような目を向ける。


「お前にはこの願いのとうとさが分からないだけだ。まあ、柊、お前はたくさん実験に貢献してくれたからな。暴言も許そう。これはお前の身体を使って得た研究成果だ。最終的にはアカデミスタの協力あってこそではあるがな。それもついに終わる。私は小里家に集められた緒呉の鬼の因子を取り込み、力を自らの下に制御する。その仕込みはもう終わっているのだ」


「あの……薬か……」


「ああ。双子に与えていたのはお前や住人に配っていた量産型ではない、あれは私が完成させた特別製でね。鬼への変貌も丁寧なら、その精度も段違い。さらにその命は緒呉を包む結界の主柱にもなる。あの結界がなければ鬼化は維持できないからな。それを同時に取り込むことで結界を体内に馴染ませ、常に鬼としての力が保てるようになるんだ。すごいだろう?」


「っ、取り込むじゃと? はぁっ、どうやって」


「食べるんだよ」


 酸素を求めて喘ぎながら見上げる柊に、螺剛らごうは当たり前のように言った。


「食べることは、相手を自らの血肉とし、力を取り込むことを意味する。小学校もまともに行っていないお前には同物同治どうぶつどうちと言っても分からんだろうが。なあに、あの二人は私の子どもだ。同じ血が流れている。他のなによりも親和性はばつぐんだ。奴らの肉こそが必ず、私を鬼へと正しく変えてくれるだろう。今まであいつらを実験に使わなかったのは実験で不純物を入れたくなかったからだからな。お前が手ずから毎日飲ませた薬は、今頃あの二人の中で醸成され目覚めの時を待っているぞ。もしくはもう、子鬼にでもなっているかもしれないな」


 男は声を耐えられざる歓喜に震わせ高らかに宣告する。少年はもはや顔も上げられず机に突っ伏してしまった。肩が揺れているのは取り返しのつかない絶望に震えているからだと、螺剛があごでたとき、その声が漏れ聴こえた。


「ひひひっ」


「あ?」


 耳に届いたのは間違いない。喉の奥で空気の擦れる引き笑い。眉をひそめる螺剛らごうに向けて、少年はガバリと顔を上げた。苦し気に胸を押さえながらもそこに浮かぶ表情は、意地の悪いひねくれた笑み。


「ひははっ、ははははははっ! 残念じゃったなあ! お前の望みは叶わない! 薬だぁあ? んなもんっ一粒もあいつらの口に入ってにゃあわ!」


「何を言っている。薬は確かに人の腹に吸収されて──」


「じゃが、誰の腹でかなんて分からんじゃろ」


 口角を引き上げあざけるように舌を突き出す。その動作に、螺剛らごうの思考は真実にたどり着いた。


「……ま、まさか。まさかキサマ!」


「おうっ……。ぜんっぶ俺が食ってやったわ。俺があの二人かぞくによう分からん薬盛るなぞ、母さんに顔向けできないことするわけないじゃろうが!」


「だがあの二人の部屋には確かに鬼へと変わる者の気配が」


 反論しようとして螺剛らごうは、柊の様子がおかしいことに気付いて言葉を止める。柊は大きく開けた口内を指差していた。正確には口を真横に引き延ばし、奥歯を。


 螺剛らごうが目を見張る。


「なんだ、その口は。なんだ、!」


 柊の口にはあるべき奥歯が無かった。一番奥の臼歯が上下左右とも。歯が埋まっていたはずの場所にはぽっかりと穴が開いている。無理に引き抜いたのか肉が不恰好にえぐれた傷跡が遠目にも分かった。


 不思議と体が軽くなった柊はゆらりと直立して、椅子から半ば腰を上げている螺剛らごうを見下す。


「へその緒の原理は聞かされてたからな。ひと月前、俺の身体がおかしくなってすぐ、これは薬を飲んでるせいじゃと気がついた。じゃから念のため、歯を引っこ抜いてあいつらの部屋の四隅に置いておいたんじゃ。どうじゃ? 学がなくてもやるじゃろう? どうせお前はあいつらが寝とる時間帯にしか帰ってこんし、我が子の寝顔を覗きにいくような奴でもないからな」


 言われて、螺剛らごうは自分の記憶を掘り返す。ずっと、薬によって変質していく双子の気配だと思っていたもの。自分が感じていたのは双子の気配ではなく、薬を大量に摂取した柊の気配だったのだ。


 自分の勘違いに思い至った螺剛らごうは唾を飛ばしヒステリックに叫んだ。


「よくもっ、よくもたばかったなっ、よくもよくもぉ! 私がこの十数年積み上げてきたものをキサマごときがっ」


 螺剛らごうが青銅のナイフ片手に少年へ掴みかかる。だが振り上げた腕は柊に軽く押さえられた。螺剛らごうはそれを振り解こうと暴れるがびくともしない。


 少年の身体が変質していく。

 犬歯が鋭く牙のように伸び、爪が尖り、肌が岩のように硬くなる。


 いつの間にか、柊の黒髪が金色に染まっていた。

 ゆるくウェーブを描く太い金色が、照明を照り返して眩しい。思わず目を細めた螺剛らごうに柊が怒号を浴びせた。


「たわけが! 自分の子供を殺して食おうとしてた奴が積み重ねだ? 血の繋がりを、命の積み重ねを否定するお前の下にはなにもない。犠牲者は山んなってお前を取り囲んで覆い潰すだけじゃ。頂点だのと夢のまた夢! 孤独な貴様は、誰よりも底辺に立ってるんじゃよ!」


 この十三年間溜め込み続けた怒りが爆発したようだった。濃いくまに縁どられた目元がギラリと光る。その眼差しは、人間を蹂躙じゅうりんする鬼そのもの。


 道具としか思っていなかった子供に足元をすくわれた挙句あげく説教され、螺剛らごう恥辱ちじょくに泡を吹きながら絶叫した。


「黙れクソガキがああああああああ!!」


 柊がそんな螺剛らごうを放り投げる。尻餅をついた男にのしかかり、拳を振り下ろした。


 硬い地面と拳とに挟まれた顔面が一発で潰れる。鼻の骨どころか頬骨までもが陥没し、頭蓋骨も砕けている。身体が痙攣けいれんしているのは痛みからではない。この男はもう絶命している。


 人間の硬い骨をこうも簡単に砕いてしまうのはもはや人の力ではなかった。鬼の力だ。血塗れの拳を見れば骨が膨張しているのが分かる。いや骨だけではない。全身の骨格が様変わりしていた。足先などもはや足袋たびを突き破ってしまっている。


 柊は鏡に映る化物じぶんに目を向けた。それで、自分はあの住人達同様、鬼へと変わってしまったのだと理解する。


 柊は皮肉げに口角を上げて落ちたナイフを拾った。それを自分の首筋に当てる。


「はっ、結界がなんだか知らんが、つまり俺が死ねばそれが消えるんじゃろ? 緒呉のためなんぞと言いたくはないが、それでも、母さんが生まれ育って……あいつらが生きてる場所じゃ」


 目をつむり、どうせなら一息にと覚悟を決める。


 押し当てた刃先を思い切り首に突き立てた。


「…………あ……れ?」


 だがその刃は動脈を切断するに至らなかった。刃が鬼の肌に負けたということもある。けれどそれよりも、自分の手に力が入っていないのに柊は気づいた。


 砕けたナイフを取り落とし、重たい頭を掴む。そのまま机に寄りかかると、全身から力が抜けていくのが分かった。


「な、あぁぁ」


 視界が明滅する度うすぼやけていく。意識が霧の中に落ちて行くようで気持ちが悪い。まるで自分の自我が溶けて消えゆくかのようだ。


(俺は……心まで鬼になってしまうんか……? 他の連中みたいに)


 必至に意識を繋ぎ止めようとするが上手くいかない。どんどん思考がまとまらなくなっていって。


 いつしか思考そのものが消えていた。




 静まり返った空間に立ち尽くす怪物がいる。


 ちぢれた縮毛の金髪。

 唇を押し上げる二本の牙。

 手足はずんぐりとしていて筋肉が盛り上がっている。


 これにつのがあれば誰もが見間違えることはない。


 ここに居るのは理性のない、智慧ちえを奪われた四本指の鬼が一匹。もはや人とは呼べない成れの果て。


 光のない虚ろな目をした鬼があてどなく、ふらふらと洞窟を出て行った。






「おっ?」


 勇猛にも実篤さねあつと会話を試みていた伊佐いさ尚成たかなりが、唐突にすっとんきょうな声を上げる。平賀兄弟が同じように首を傾げると、尚成は背伸びして二人に何かを見せた。


 小さめのタブレットの画面だ。表示されているのは地形から見て緒呉の地図だろうか。起伏を表す等高線の入った地図に白い点が一つある。それは地図上をゆっくりと移動していた。


「これは?」


「受信機。俺も小里螺剛らごうの隠れ場所が知りたくってさ。柊君の衣装に発信機付けてたってわけ。ちょうど今、石塔が全部壊されたんだろ。微弱だけど電波が復活してるぜ」


「本当だ!」


「どうやら柊君は山を下りてきてるっぽいな。螺剛らごうに会った帰りか?」


「「ヒイラギどこにいるか分かるんか!?」」


「うわっびっくりした」


 真信は割り込んできた大声に驚いてしまう。いつの間にか双子が伊佐いさ尚成たかなりにすがりついていた。つま先立ちしてタブレットを覗き込もうと必死だ。


 真信は腰をかがめて双子に視線を合わせた。


「お兄さんに会いたい?」


 瞳を見つめてそう問いかける。双子は一瞬、弱弱しく互いの視線を交わらせたが、すぐ強気に否定してきた。


「あっ、会いたいとかじゃないぞ! 死にぞこないの顔、おがみたいだけじゃ」

「そうじゃ! 心配なんかちょびっとしかしよらん!」

「……ほんとに死んどらん?」

「生きてる?」


 が、さすがに強気になりきれていない。やはり兄が心配なようだ。

 真信は自分を見つめてくる二人の視線に静かに頷いた。


「……彼が螺剛らごうに会って来たなら情報共有をするべきだ。行こう。伊佐いさ尚成たかなり、案内してくれ」


「いいけどさ、なんでフルネーム呼びなわけ?」


「協力には感謝してるけど仲良くは決してなれないという心の距離。ほら、君たちも行くだろう?」


 からんでくる尚成たかなりをいなして眼下の二人に呼びかける。

 すると緒呉がこの状況に陥ってから初めて、双子の表情が明るくなったのだった。


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