受け継がれた血
ちょうど神社と小里家との間にある山腹であった。明かり一つない山の中は薄暗く、四方を臨むものは節の大きな大木たちのみ。夜目が利くのか、
急ぎ足に木の根を飛び越える。途中で暑さに耐えきれなくなったのか和服の上半身を脱いで
「はぁ、はぁ、……っ、確かこのへんの……」
もっさりとした前髪をかき上げる。頬を伝う雫を拭うことすらせず、陰気さの染み付いた目は足元の
少年が足を止めたのは、彼の身長ほどある段差の前だった。両側には土中からとび出すように鎮座する
ここは小里の直血だけが知る隠れ場である。
かつては鬼の
しかし小里が“鬼”として先祖代々引き継ぐ遺産の一つとしか知らない柊は、特に感慨もなく奥へと進んでいく。彼の身長に対して天井が低いため、ほとんど中腰だった。
二分間ほどそうやって進んでいくと、ふいにひらけた場所に出た。
学校の体育倉庫ほどの空間だった。壁は塗り固められ電気も通っている。洞窟というより居住空間に近い。いくつもの棚と、その奥にある広めの実験机。なぜか壁には所狭しと鏡が並んでいた。鏡合わせになっていて風景が何重にもなっている。方向が掴めず気持ちが悪い。
柊は鏡の中にたくさん現れた自分に顔をしかめた。前回来たときはこうではなかった。いつの間にかまた、
(
噛みしめた奥歯が鳴る。柊は苛立ちをそのままに、入り口に背を向けて椅子に座っている
「おいっ、
机を隔ててそう呼びかける。
「ほう、生きてたのか。ああ、お前の姿は
「能書きはいい。さっさと止めんか」
柊はどこか全身に違和感を覚えながらも義父を睨みつける眼光をゆるめない。だが
「無理だな。一度変貌した細胞を人間のそれに戻すことなどできない。なんたって、アレは奴らの中に残る鬼の遺伝子を掘り起こし活性化させたものだからな。原点回帰というやつだ。やつらは戻っただけで、歪められたわけじゃないのだから。
小里のように元が人であったなら、戻りようもあったのだがな。まぁ、結界が消えれば弱体化もしようが」
「いちいち……言ってることが難しいんじゃ。……元どおりには戻せんつう……ことじゃな」
「なんだ、息も絶え絶えなわりに、思ったより落ち着いているな?」
「……別に。俺はこんなクソ田舎、大嫌いじゃからな。はぁ、ぅぅっ。住人がっ、どうなろうと……知ったことか。……それよりお前の目的は……なんなんじゃ。っ、ぐぅぅ」
脳天から爪先まで痛みが駆け抜けて柊は机に手をついた。おかしい。身体が言うことをきかない。この痛みはそう、さっき鏡を見てから──鏡に映った歪んだ自分の像を見てから始まった。
筋肉を引き裂くような痛みに耐える柊を、
「目的? そりゃあ、私こそが鬼になるために決まってる」
「……なんじゃと?」
「私は小さい頃からずっと鬼に憧れてきた。その力に憧れてきた。だから鬼になりたくて呪術者となった。小里の存在を知った時には天に感謝したぞ。人から鬼となり、また人へと戻った変化自在の血筋。これほどおあつらえ向きの家系が現代に残っていたとは。だからお前の母親に近づいて、男を殺して、
男が高笑いを上げた。耳障りなその声が柊に事実を思い知らせる。
父親も母親も、こいつが殺したのだ。殺されたのだ。
鬼になるなんて、どうでもいいこの男の願いのために。
「くだらんっ」
吐き捨てる柊に
「お前にはこの願いの
「あの……薬か……」
「ああ。双子に与えていたのはお前や住人に配っていた量産型ではない、あれは私が完成させた特別製でね。鬼への変貌も丁寧なら、その精度も段違い。さらにその命は緒呉を包む結界の主柱にもなる。あの結界がなければ鬼化は維持できないからな。それを同時に取り込むことで結界を体内に馴染ませ、常に鬼としての力が保てるようになるんだ。すごいだろう?」
「っ、取り込むじゃと? はぁっ、どうやって」
「食べるんだよ」
酸素を求めて喘ぎながら見上げる柊に、
「食べることは、相手を自らの血肉とし、力を取り込むことを意味する。小学校もまともに行っていないお前には
男は声を耐えられざる歓喜に震わせ高らかに宣告する。少年はもはや顔も上げられず机に突っ伏してしまった。肩が揺れているのは取り返しのつかない絶望に震えているからだと、螺剛が
「ひひひっ」
「あ?」
耳に届いたのは間違いない。喉の奥で空気の擦れる引き笑い。眉をひそめる
「ひははっ、ははははははっ! 残念じゃったなあ! お前の望みは叶わない! 薬だぁあ? んなもんっ一粒もあいつらの口に入ってにゃあわ!」
「何を言っている。薬は確かに人の腹に吸収されて──」
「じゃが、誰の腹でかなんて分からんじゃろ」
口角を引き上げ
「……ま、まさか。まさかキサマ!」
「おうっ……。ぜんっぶ俺が食ってやったわ。俺が
「だがあの二人の部屋には確かに鬼へと変わる者の気配が」
反論しようとして
「なんだ、その口は。なんだ、その穴は!」
柊の口にはあるべき奥歯が無かった。一番奥の臼歯が上下左右とも。歯が埋まっていたはずの場所にはぽっかりと穴が開いている。無理に引き抜いたのか肉が不恰好に
不思議と体が軽くなった柊はゆらりと直立して、椅子から半ば腰を上げている
「へその緒の原理は聞かされてたからな。ひと月前、俺の身体がおかしくなってすぐ、これは薬を飲んでるせいじゃと気がついた。じゃから念のため、歯を引っこ抜いてあいつらの部屋の四隅に置いておいたんじゃ。どうじゃ? 学がなくてもやるじゃろう? どうせお前はあいつらが寝とる時間帯にしか帰ってこんし、我が子の寝顔を覗きにいくような奴でもないからな」
言われて、
自分の勘違いに思い至った
「よくもっ、よくも
少年の身体が変質していく。
犬歯が鋭く牙のように伸び、爪が尖り、肌が岩のように硬くなる。
いつの間にか、柊の黒髪が金色に染まっていた。
ゆるくウェーブを描く太い金色が、照明を照り返して眩しい。思わず目を細めた
「たわけが! 自分の子供を殺して食おうとしてた奴が積み重ねだ? 血の繋がりを、命の積み重ねを否定するお前の下にはなにもない。犠牲者は山んなってお前を取り囲んで覆い潰すだけじゃ。頂点だのと夢のまた夢! 孤独な貴様は、誰よりも底辺に立ってるんじゃよ!」
この十三年間溜め込み続けた怒りが爆発したようだった。濃いくまに縁どられた目元がギラリと光る。その眼差しは、人間を
道具としか思っていなかった子供に足元を
「黙れクソガキがああああああああ!!」
柊がそんな
硬い地面と拳とに挟まれた顔面が一発で潰れる。鼻の骨どころか頬骨までもが陥没し、頭蓋骨も砕けている。身体が
人間の硬い骨をこうも簡単に砕いてしまうのはもはや人の力ではなかった。鬼の力だ。血塗れの拳を見れば骨が膨張しているのが分かる。いや骨だけではない。全身の骨格が様変わりしていた。足先などもはや
柊は鏡に映る
柊は皮肉げに口角を上げて落ちたナイフを拾った。それを自分の首筋に当てる。
「はっ、結界がなんだか知らんが、つまり俺が死ねばそれが消えるんじゃろ? 緒呉のためなんぞと言いたくはないが、それでも、母さんが生まれ育って……あいつらが生きてる場所じゃ」
目をつむり、どうせなら一息にと覚悟を決める。
押し当てた刃先を思い切り首に突き立てた。
「…………あ……れ?」
だがその刃は動脈を切断するに至らなかった。刃が鬼の肌に負けたということもある。けれどそれよりも、自分の手に力が入っていないのに柊は気づいた。
砕けたナイフを取り落とし、重たい頭を掴む。そのまま机に寄りかかると、全身から力が抜けていくのが分かった。
「な、あぁぁ」
視界が明滅する度うすぼやけていく。意識が霧の中に落ちて行くようで気持ちが悪い。まるで自分の自我が溶けて消えゆくかのようだ。
(俺は……心まで鬼になってしまうんか……? 他の連中みたいに)
必至に意識を繋ぎ止めようとするが上手くいかない。どんどん思考がまとまらなくなっていって。
いつしか思考そのものが消えていた。
静まり返った空間に立ち尽くす怪物がいる。
ちぢれた縮毛の金髪。
唇を押し上げる二本の牙。
手足はずんぐりとしていて筋肉が盛り上がっている。
これに
ここに居るのは理性のない、
光のない虚ろな目をした鬼があてどなく、ふらふらと洞窟を出て行った。
「おっ?」
勇猛にも
小さめのタブレットの画面だ。表示されているのは地形から見て緒呉の地図だろうか。起伏を表す等高線の入った地図に白い点が一つある。それは地図上をゆっくりと移動していた。
「これは?」
「受信機。俺も小里
「本当だ!」
「どうやら柊君は山を下りてきてるっぽいな。
「「ヒイラギどこにいるか分かるんか!?」」
「うわっびっくりした」
真信は割り込んできた大声に驚いてしまう。いつの間にか双子が
真信は腰をかがめて双子に視線を合わせた。
「お兄さんに会いたい?」
瞳を見つめてそう問いかける。双子は一瞬、弱弱しく互いの視線を交わらせたが、すぐ強気に否定してきた。
「あっ、会いたいとかじゃないぞ! 死にぞこないの顔、おがみたいだけじゃ」
「そうじゃ! 心配なんかちょびっとしかしよらん!」
「……ほんとに死んどらん?」
「生きてる?」
が、さすがに強気になりきれていない。やはり兄が心配なようだ。
真信は自分を見つめてくる二人の視線に静かに頷いた。
「……彼が
「いいけどさ、なんでフルネーム呼びなわけ?」
「協力には感謝してるけど仲良くは決してなれないという心の距離。ほら、君たちも行くだろう?」
からんでくる
すると緒呉がこの状況に陥ってから初めて、双子の表情が明るくなったのだった。
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