絶望と希望は隆替する


「うわー。いつの間にか囲まれてる……」


 深月の言葉に菖蒲しょうぶが下を覗く。少女はすぐガバっと顔を上げ、深月に泣きついた。


「どうするんじゃあ!?」


「うーん。あ」


 さらに下を見ていると、祭の順路をさかのぼるように駆けていく長身の女性がいた。あれは静音しずねだ。鬼を迂回うかいしようと離れていく。深月は手を高く上げ、手を振った。


「いい所に見っけ。静姉しずねぇー。ごめんねーこの子受け取ってー」


「今のは、深月さん? 上から声が……ひゃあっ! 子どもが降って!?」


「ぎゃああああ!? ミツキぃぃ何も言わず落とす奴があるかあ!! 二度とお姉ちゃんって呼んでやらん!」


 無事に静音に抱きとめられた菖蒲しょうぶが涙声に抗議する。深月も彼女たちの横に舞い降りて、鬼たちのほうを向いた。


「静姉ぇはその子連れてちがやくんと合流して。鬼の正体を看破かんぱできればきっと鬼への武器になる」


「了解しました。深月さんは」


「私はこいつらの足止め」


「やはり処理するわけにはいきませんか」


「うん、私の仕事、住人の保護だから。まだこの人たちが元に戻れないって確証がないからねー。これからちょっと暴れるからさー。はやく行って」


「……はい。深月さんもご無理をなさらぬよう」


「みっミツキ! 頑張れー!」


 静音はさすがに判断が早い。菖蒲の声がもう遠ざかりつつあった。遠くに声援を受けて、深月はさてどうしたものかと考える。


 手元には弱体化した狗神。それに相対するは鬼が三匹だ。


「今のままだと、わんこのほうが押し負けるよねー。ほんっとうにやりたくないけど、ちょっと本気だすしかないかぁ」


 真横に出現した狗神に手を触れる。多くの敵対者にとって狗神は災厄をもたらす呪詛の化身に思えるが、あれでも実は力をセーブした状態なのだ。というか、セーブしておかないと呪詛の量が膨大すぎて制御ができなくなる。


 そのため狗神の中には多くの呪詛が眠っていた。それを一時的に呼び起こすのだ。


 狗神の中に眠る呪詛は誤発しないよう、閉じた場所でしか開放できないように縛りがされている。ごく限られた状況でしか開放できないのだ。


 その点いまの緒呉は結界によって外界と隔絶されている。条件は奇しくもそろっていた。


「うーん、初めてだから、加減が難しいかも」


 やり過ぎればこちらの精神がいっきに持っていかれる。だが弱すぎては鬼に太刀打ちできない。迫る鬼は目の前に。巨体が地面を駆ける振動が足裏を震わせた。


 それでも心を落ち着け狗神と自分の繋がりを意識する。


 狗神の体が、ぶるりと震えた。


 犬の頭部の形が蠢く。首が生え、肩甲骨が出来上がる。そこから二本の前足が伸びた。


 先ほどとはまた違う。犬の上半身が宙に浮いている。牙で足りないなら爪の分だけ生やそう。そういう単純な考えだった。姿の変化に合わせ、狗神に内包された呪詛の量もさっきの数倍に膨れ上がっている。


 狗神が爪を振るう。鬼たちはあっけなく吹き飛んだ。狗神による細胞の分解と鬼の回復力が拮抗している。これならえぐれた傷を回復するのに、鬼はしばらく起き上がれない。


「うん。これくらいかなー? よーし。って、…………あ……れ?」


 急に体から力が抜け、深月は膝をついた。両手でどうにか上半身を起こす。まさかもう呪詛を解放した反動が来たのか。


 だが、いつものあの不快感とは別の感覚が自分の中を駆け巡っているのに気づく。


「違う……これ、呪詛じゃない」


 胸を掴む。まるで全力疾走した後のように鼓動が速かった。だがそれよりも問題なのは、


「身体が熱い……」


 力が自分の中で荒れ狂うのを感じる。呪詛が身体の内側を壊していくあの痛みがない。だがこの熱は確かに、狗神との繋がりから流れ込んでくる。


 顔を上げると、狗神が倒れた鬼に噛みつこうとしていた。慌ててそれを引き留める。


「くっ。わんこっ駄目」


 そう制止しながらも、深月は心のうちに湧くいい得も知れぬ感覚に酔いかけていた。


 ああ、暴れたりない。

 ならもっと壊せる。

 全てを灰燼かいじんすことだって。


「っぁ……」


 けれど……けれど、けれどと、理性が止める。鈍い思考が疑問を浮かべた。


 この強大な力は、いったいなんだ?

 自分は何を目覚めさせてしまったのか、と。






 氷向ひむかい綾華りょうかは自室のテーブルに地図を広げ、難しい顔をしていた。

 呪術者の隠れ潜んでいた場所にバツ印をかき込んでいく。手でその作業を続けながら、頭では別のことを考えていた。


 樺冴かご家を覗きに行った永吏子えりこの言葉が、綾華の頭からずっと離れない。


 ──カミツキ姫の秘密をちょっと、ね?


 そう笑った永吏子は、大切なことをこっそり共有するように、もったいぶって綾華に説明した。


「だって、おかしいでしょ? ボスが探してるお宝、三種の神器のレプリカ? だっけ。それがあるお部屋を開くのに狗神が必要って、どういう原理?」


「呪術のことなんか知らないわよ。鍵の代わりにでもなるんじゃないのあの黒い犬」


「でも見てきたけどね、あの屋敷にそんなお部屋があるようには見えなかったよ? 普通、開けちゃいけないお部屋の鍵なら、扉と離れたところで保管するでしょ? それにあの狗神が門番だっていうなら、今回みたいに守護者が現地を離れるのも変だし。帝さんも、カミツキ姫もジュジュツ者たちも、言ってること何かおかしいよ。だったらさ、こう考えたほうが自然じゃない?」


 綾華の腕を離して永吏子が前方へ駆ける。追いかけようとすると、少女は軽やかに振り返って無邪気なウインクをキメた。


「神器はどこかに閉じ込められてるんじゃない。狗神の中にこそ存在するって」


 思わず立ち止まった綾華に、永吏子はまたすり寄ってくる。


「そう考えたら、神器を手に入れるのに狗神も必要っていうの、納得できるよね。むしろそっちのほうが自然だよ。だって、ただの人と犬の混じり物がさ、大きくて気持ち悪いものになれるわけないからね」


 腕に絡みつく少女を綾華は気味悪く見つめ返す。永吏子はまだ狗神と会ったことはないはずだ。なのにこの少女は、全部見透かしたように語る。それが綾華には耐えがたいほどに気持ち悪かった。


「あんた、何が見えてるの」


 問うと、大きな瞳が三日月のような笑みを形作る。その眼は終わりなく続く螺旋階段を上から覗き込んだかのように深く、薄気味悪い。


「千里ほどは無理だけど、探しものと覗き見は得意かな。永吏子はちょっと特別だから。だから永吏子は壊されなかったんだよ? 大切に、大切に保管されてきたの。狗神の中にあるみたいに。そう只野ただのは思うのでした!」


「だから只野って誰よ!? あんた永吏子えりこでしょ!?」


「ふふふふっ」


 綾華の戸惑いの声は、永吏子の笑いに掻き消されていくのだった。







 神社に残された真信は、これからどう動くかを決めかねていた。

 通信は途絶え、みんなの居場所も把握できていない。こういう時はどこかに拠点を構えるべきだ。現状、唯一皆が居場所を把握できているだろう真信が迂闊うかつに移動するわけにはいかない。かといってここから事態を解決する方法も見当がつかなかった。


 何よりひいらぎから双子を頼むと言われたが、肝心の居場所が分からないのだ。


「キミは双子がどこにいるか分かる?」


 頭から狗神鼠イヌガミネズミを持ち上げ問いかける。鼠は鼻をひくひくと動かすだけで答えない。どうやら鼠を通じて直接深月と交信できるわけではないらしい。


 なんとなく鼠を撫でる。柔らかなゴムのような感触だ。無意識に指を動かしながら頭の中で状況を整理していると、腹を見せていた鼠が突如その形を崩した。


 まるで泥水に変わったかのように輪郭を失い、すぐすす状へ変わる。風に吹かれて鼠は手の平から消えてしまった。


 真信は空っぽになった手を唖然あぜんと見つめた。


「消えた? なに? 撫でかたが気に食わなかったの!? ……っなわけないよな。まさか深月に何かあったのか?」


 やはりじっとしている場合じゃない。だがどこから手を付ければ……。そう悩みながら階段を降りようとすると、向こうのほうから声が響いた。


「おおいっ、マサノブ!」


「今の声……、ちがや君?」


「それと俺だぜ」


「げっ、伊佐いさ尚成たかなり……」


「もうちょっと嘘でも歓迎してほしいんだけどな。まあ俺、嘘嫌いだし、素直な反応は良しだ」


 階段を昇って来たのは、尚成たかなりちがやだった。逃げまどっていたちがや尚成たかなりが保護して連れてきたらしい。


 とりあえず双子の片割れと合流できて、真信はほっと息をつく。だがすぐに気を引き締めた。イナーシャの人間がこの事態の中どうして真信に接触してきたのか。それを問いたださない限り油断できない。


「あなたはどうしてここに?」


 慎重に問うと、尚成たかなりはあっけらかんと答えた。


「もちろんこの事態を収束させるためさ。うちの家族は先に避難させたけど、他がな。緒呉の人間みんな守るなんて一人じゃ無理だからな。助力を請いたい。俺も知恵を貸す。呪術関係者なんかに俺の故郷をいいように蹂躙じゅうりんさせたままにはできない」


「その口ぶり……何か解決策があるの?」


「ある。よく聞け。人間の姿を歪めるほど呪術の力が強まってるのは、緒呉が結界で閉ざされてるせいだ。だからその結界を壊していけば、たぶん住民の鬼化はやわらぐはずだ。俺はそのかなめがある場所を把握してる。覚えてるか? あの石塔だよ。緒呉の敷地にある分で起動してるのはざっと二十七か所だ。離れた場所に建ってるから手分けする必要がある。そっちの人員はどれだけいる?」


「それが……」


 通信が切れ、仲間と連絡が取れないことを伝える。それにもし連絡がついたとしても、動ける者は尚成たかなりを入れてたったの五人だ。緒呉中にある石塔を壊して回るのにどれだけ時間がかかるか。


 ようやく解決策が見えてきたのに、事態は振り出しに戻った。そう項垂うなだれかけたその時、どこからか声が響いてくる。


「よお、ここにいたか反抗期まさのぶ。無駄に探しちまったじゃねえか。どうなってんだぁこの地区は。何が起きてっかさっさと教えろ。じゃねえとぶん殴るぞ」


「えっ……」


 真信は最初それを幻聴かと思った。だが声は、本物の質量を持っている。


 神社の暗がりから出てきたのは、真信にとってよく見知った人物。そして、もうずっと会っていなかった身内だった。


次兄つぎにい……? どうしてここに?」


 平賀ひらが実篤さねあつ

 平賀家次男坊にして、歩く人的災害。耳と唇にピアスを輝かせ、最後に会ったときと変わらぬ不機嫌顔で、彼はそこにいた。


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