命の対価編

日常の続きのような


 それは氷向ひむかい綾華りょうか率いる『イナーシャ』との戦闘から一週間ほどが経過した、とある休日の昼下がり。


 いつものように昼食の後片付けをしていた真信の背後をはカサカサと音を立てて高速で通過していく。皿を置こうと振り向いた真信の視界は、その姿を一瞬だけ、しかし確かに捉えた。






 畳の上に着崩れた和服で寝転がる深月に、奈緒は細長い紙を広げて見せる。


「じゃーん。出ましたよ~正式なテスト結果一覧表! どうです? ギリギリだった割には高得点じゃありませんか?」


 奈緒の言う通り、そこには学年順位も含めた期末テストの結果が記されていた。総合順位は真ん中より上、といったところか。


 二人に麦茶を運んできた静音が、その紙を覗き見て驚きの声を洩らす。


「満点の教科がありますね。……科学ですか。得意分野なのですか?」


「それは、なんでなのかあたしにも分からないんです」


「奈緒さん、目から光が消えましたが大丈夫ですか?」


「分かんないです」


 奈緒には、科学の問題を解いている時の記憶がなかった。


 目が虚ろになった奈緒を心配して静音が彼女の顔の前で手をひらひらさせる。平和な空気を引き裂くように、屋敷中に低く唸るような警報音が鳴り響いた。


 深月がのっそり身体を起こし、驚いた奈緒も意識を回復させる。


「んー? なんの音だろう?」


「えっ、なんですかこれ!? 敵襲?」


「この音は……まさか」


 一人思い当たる節があるらしい静音が身構える。そこにエプロン姿の真信が暖簾のれんをくぐって現れた。片手にはなぜかスリッパを握りしめている。


「真信様、もしやこれは」


「ああ。奴が出た」


 顔を合わせ頷き合う静音と真信。奈緒は腰を浮かせてもしもに備えながら、彼らを見上げた。


「奴?」


 短い問いかけに真信が頷く。


「……イニシャルGだ」

「ああゴキブリですか」


 予想外にくだらない事だった。奈緒はすっと腰を下ろした。


 一方の真信は見たこともない絶望顔で頭を抱えている。


「あんなにも、あんなにも掃除には気を使っていたのにっ!」


「九州だからねー。夏は仕方ないよ。ちょっと行ったらそこ山だし。掃除してても出るときは出る」


「怖いな九州!」


 深月の注釈に少年が恐れおののく。


 警報を聴いた屋敷の人間も集まってきた。この間、奈緒を囲んで威圧していたメンバーだ。竜登りゅうととひょろりとした青年、それからガタイの良いスキンヘッドの男。後者二人の名前を奈緒はまだ知らない。


 千沙ちさは一度顔を見せたが、事態がG関連だと気づくとおかっぱ頭を揺らしてどこかに消えた。Gが嫌いなのか、それとも下らないことに関わりたくないのか。あの完璧な無表情からは読み取れなかった。


 女性陣が冷え切った態度で距離を取っているので、G対策本部は必然的に男ばかりになる。


 集まった者達へ真信がスリッパを掲げ号令をかけた。


「とにかく殲滅せんめつしないとね。――総員戦闘態勢。これより逃げた目標を捜索、見つけ次第殺せ」


「「「はっ!!」」」


 男達はスリッパ片手に軍隊もかくやという敬礼を披露する。そのさまは動きが綺麗な分、逆にシュールが過ぎた。


 奈緒たちはゴキブリに構わず座卓を囲んで麦茶をすする。


「男共はゴキブリごときで何はしゃいでるんですかね」


「ほんとにねー」


「……そ、そうですね」


「静音さん、そう言うならどうして拳銃の撃鉄を起こすんですか?」


「何が起こるか分かりませんから」


「何が起こると思ってるんですか……」


 奈緒は手を震わせる静音に麦茶を勧めた。平賀の人ってみんなゴキブリが嫌いだったりするのだろうか。そんな想像をしてしまって、奈緒は硬い表情の静音から顔を背けてちょっと笑った。





 一時間の捜索も虚しくGの行方はようとして知れない。家具を移動させて裏側まで確認してきたらしいく、真信はさすがに疲労を見せて畳の上に正座している。


 七月に入ったのだから、もう夏と呼んで差し支えない気候だ。奈緒はうっすらと汗を掻いている真信をうちわであおいだ。


「もう外に逃げたんじゃないですか~?」


「でも、あいつらは一匹見かけると三百匹いるっていうから」


けたが一個多いですっ。想像しちゃったじゃないですか、さすがにキモい」


「くっ。これは使いたくなかったけど、こうなったら最後の手段だ」


「最後の手段?」


 苦渋の決断をするように拳を握りしめた真信の言葉に、同じように休憩していた者達の視線が集まる。


 真信は目の前に、赤色の缶のようなものを置いた。


「――バルサンだ」


 バルサン。それは対害虫決戦兵器。


 使用の際、ご家庭で用意するのはこれと水のみというお手軽設計だ。しかし一度発動すると多量の殺虫成分を含んだ煙が発生し、人は室内に留まることができない。


 あと団地とかで使うと火事と勘違いされてしまうことがあるので玄関に張り紙は必須である。


 ちなみにその辺の薬局などで安易に手に入る。威張って使うものではない。


 真信はバルサン片手に胸を張って指示を出した。


「それじゃあこれからバルサンをくから。各自散開! 本日十四時まで、各々の判断で時間を潰してくるように。屋敷はそれまで封鎖とする!」


 封鎖というか、煙から避難するだけなのだが。とにかく各人がスリッパを手放し外出の準備を始める。


 元々屋敷の人間でない奈緒は外出の準備も特にない。なので他人事みたいに寝転がったままの深月の横ににじり寄った。


「いや~、たかがゴキブリ一匹に大変ですねぇ」


「奈緒ちゃんはゴキブリ怖くないのー?」


「あたしは一人暮らしが長いので、慣れました。深月先輩は?」


「……呪術の一つに蠱毒こどくっていうのがあってねー。壺の中にムカデや毒グモなんかをたくさん入れて戦わせて、生き残って呪力と怨念でいっぱいになった一匹を呪術の道具にするの。すごいんだよー。何十匹という蟲が小さな壺の中でわさわさわさわさ……」


「あああ深月先輩、鳥肌がっ。やめてっ、ぞわぞわするっ」


「……静かになった壺を開くとばらばらになった蟲の死骸とかはねとか足が散乱してて、その中に唯一動いてる一匹が他の蟲の身体をむしゃむしゃと」


「先輩もういいですっ! 虫に慣れてる理由はわかりましたからっ!」


「そう?」


「はいっ! ……それより、どうせここには居られないんですから、遊びに行きませんか?」


「え、やだ。疲れる」


「相変わらず拒絶だけは早いですね。でもいいんですか、深月先輩」


「何がー?」


「あたしと、何か話たいことあるんでしょ?」


 深月が驚いて顔を上げる。目を見開いた深月の瞳に、にこりと微笑む後輩の顔が映った。



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