第6話 9月21日 月下の共犯者1

「夜に呑まれた夜属は、もう絶対に助からないんですか?」


「場合によっては、元に戻ることもある。おそらく〈銀〉ほどの使い手ならば己の意識を保つことも可能であるだろう」


 そんなやり取りが甦る。

 そういうことだったのかと思った。


 先輩は扉から出ていかず、窓を開けて出て行っている。

 開けた窓を閉めることすらしていない。


 僕は、走り出した。

 靴は残ったままだった。

 多分、邪魔だったからだ。


 一度走り出したら、尻に火がついたようだった。

 霞のように消えてしまう。そんな黒い予感だけがする。


 どうしたらいいのかというな無知な苦悩と、なにかすれば良かったのにという無用の後悔と、早くしなければいけないという無価値な焦燥だけがどこまでも質量を増していく。


 走った。

 走った。

 走って――。


「―――!!」


 意外と簡単だった。

 先輩は屋根から屋根へ、バッタか何かのように重力のしがらみを無視して軽々飛び回っていた。

 夜が浅くて、無茶をしたら誰かに見られるかも知れないかと、狼狽し切った頭のほんの一部だけ醒めて冷静な部分が囁くのを聞いている。


 幾つも並んだ同じような家の屋根を、窓からもれる光と道沿いに並んだ街灯が薄ぼんやり浮かび上がらせる光景がひどく不気味だ。

 どうした訳か、今夜は光が追いつかないくらい闇が濃く、夜の海のように静かで黒い。

 一瞬だけ悩んで、上ではなく下の道路を追いかける。


 茜から青へ、青から藍へ、藍から灰へ、灰から黒へとまばたきする間に変化していく夜の帳が、先輩の背中をたちまち飲み込み覆い隠した。


 匂いの痕跡は風圧が一々丁寧にかき消した。

 視覚も嗅覚もてんで当てにならず、風を切るわずかな音の軌跡だけが一本残ったか細くたよりない糸だった。


 あっけなく見失った。


「――せんぱい」


 無言で走り続けて、見失った辺りまで来て初めて声を出した。

 いくらか荒くなっていた息を整える。額に浮かんだ薄い汗を拭う。大声を出したはずなのに蚊の鳴くような声しか出ない。


 大きな音を立てることが意味も理由もなく恐ろしい。声は広くもない街路に幾度も反響し、繰り返し先輩を呼び続ける。


 せんぱい、せんぱい、せんぱい。


 不意に視線を感じた。姿も匂いもないのに、どこからか何かが息をひそめてこちらを窺っているような気配を感じる。


「せん――」


 見つけた。

 何かを見つけ、それが先輩だとすぐには気がつかず、驚いて息を飲んで数歩後ずさってからようやく相手の正体に気がついた。


 先輩は電柱の上にわだかまるように身を縮めている。白襦袢だけが鮮やかで、最初はまるで大きな卵か何かのように思えた。

 しなだれた髪が顔を隠し、見えない表情の向こうから獣のものになった両目の瞳孔反射だけが冷たく冴えた光彩を放っている。


 呼吸を殺している。

 気配を殺している。


 ようやく先輩がこちらの風下にいることを理解する。まるで狩りをする獣のようだった。


「……せ、ん……ぱ、い」


 一音節ずつ絞り出さなければ声が出ない。

 風に混じって先輩の低い息づかいが届く。人間とは思えないような、獣のような、暗闇に潜む化け物のような呼吸音が聞こえてくる。その低い音が四肢を絡め取っていく。


 息をする、ただそれだけのことさえ難しくなる。間近から狼に狙われた羊はきっとこんな気分なのだろうと、そんな思いが夕立の雨雲のように湧きあがっていく。


「……せん、ぱ……い……」


 呟きに背中を押されたのか、高い、地獄の尖塔めいた電柱の上から美空先輩が飛んだ。


 予備動作も前兆もない。四肢を縮めたままの姿勢からいきなり跳躍する。どこまでも黒く冷たい固まりが視界を横切り、頭上を飛び越えて音もなく背後に着地する。それは生き物とさえ思えない。死に絶えた荒野の土塊を練り上げた怪物のようだ。


 恐る恐る振り向く。

 夜の向こうに影がうずくまっていた。夜そのものみたいな爛々と光る瞳が見返していた。

 喜んでも怒っても泣いても楽しんでもいない。先輩は、ただ見ている、見続けるということしかしないというように無言で見つめてくる。


「………………せん、ぱい」


 足音を、息遣いを、服の衣擦れの音すらたてないように慎重に近づいていく。

 ほんの些細なことで相手が逃げだしてしまうように錯覚する。


「――こわ、く……ないよ」


 手を差しだした。

 指先が振動している。と思ったら腕どころか身体全体が震えている。心よりも身体が敏感に察して怯えている。背中を冷たい汗がつたって落ちた。何匹もの蟲が皮膚の一枚下をうぞうぞと這い回っているような錯覚すら覚える。


 逃げよう、と心底思った。

 目の前にいる『それ』は到底生き物とは思えないけど、他の何とも思えない。これが先輩だと、先輩だったものだとは信じられないし信じたくない。


 この数ヶ月で随分と世の中を知ったとこっそり自慢していたけれど、そんなものは世間知らずのガキの戯言だったと骨身に痛いほど刻まれる。

 他でもない、目の前にいるこれが証拠だ。


 世の中には世間を知ったかぶりするいっちょ前の知恵だけつけたガキなど全く知らない想像もしない予測もつかないものがいくらでもあり、どこにでもあるという揺るがし難い証だった。


 忌でも夜属でもどんな化け物でも、これよりは縁側の子猫みたいにマシだった。


 ガラス玉より無表情な瞳に僕が映る。

 怒りでも憎しみでも呪いでもない瞳は、僕という画像をただの物体としてしか認識しない。


 乾ききって焼けつくような喉につばを飲み込む。ごくりという喉の音が予想外に大きく耳に響く。

 明確に意識できる恐怖に汗ばんだ掌を握りしめ、怯えて震える両脚を胸の中でどやしつける。


 しっかりしろ。

 まだ物語は終わっていない。

 まだ僕にしかできないことがある。

 僕だけにこの物語を終わらせる資格がある。

 やろう、と思った。

 できるはずだ、と何度も繰り返した。


 よくあるシチュエーションだと自分に言い聞かせる。そんな保証が糞ほどの役にも立たないことなど千も万も承知だった。そんな保証にでもすがらなければ今すぐ後ろを向いて逃げだして蒲団でもかぶってガタガタ震えていたい自分を押さえ切れない。

 本当に、本当にどうしようもなくありきたりの使い古されたシチュエーションだった。


 我を失ったヒロイン。

 それを救うために駆けつけた主人公にもヒロインは牙をむく。

 しかし、傷ついても倒れても、怒りではなくただヒロインを受け止める主人公の愛によってヒロインは正気を取り戻す。そして、物語はハッピーエンドを迎える――。


 ことになっている、物語ファンタジーでは。


 確信もなく、確証もなく、何一つ確実でない。


 僕は人狼だ。

 人狼は不死身で、殴られようが斬られようが死なないはずだということだけが唯一の逃げ道だった。それがなければ賭け値なしでとうの昔に何もかも投げ出して尻尾を巻いているに違いない。


 それがあったところで、「どうした。早く逃げ出せ。怖くないのか」と途切れることなく叫んでいる僕は今この時にも間違いなくいる。


「せん、ぱい……」


 勇気を。

 残されたものを全部、振り絞って。


「……ぼく、は……しん、じてる、から……」


 先輩までいなくなってしまうのを。

 信じたくないから。

 一歩を、それに向かってただの一歩を。


「……先輩……つよいから、だから、今も、今だって……きっと……」


 無限の距離のように思える一歩を踏み出した。


 顔面をごそっり抉られた――と思った。


 先輩が飛んだ。

 先輩は飛んだと見まがうようなうそ寒くなる速度で、はいつくばるような低い姿勢のまま地面すれすれを疾走した。


 人間の何十倍もある人狼の五感も反射神経も一から十まで役に立たない。そんなものでは追いつかない。

 殴られようとしたことも、殴られたことも、殴られてからでなければわからない。


 本当に、顔面を抉られたのだと思った。

 鉄の塊のような一撃はたぶん右の拳で、頭の中に火花が狂い咲き、不思議なほど痛みはなく、そのくせ一発で視界が真っ白になる。

 鼻の奥が錆びた鉄のような臭いでつまり、口と舌も塩味と石でもつめこまられたような感触で一杯になって息ができない。


「――ぃぃい、ぎぃひぃ――」


 誰かがが喚いている。

 意味もない言葉で意義もなく意識もせず喚き散らしている。


 喚いているのが自分なのだと思考のどこかが納得し、何一つまともに考えられない頭よりも身体が先に反応する。

 いつの間にかアスファルトに這いつくばっていた格好のまま、手足をもがれた虫けらみたいに無様にあがく。


 後ろから後頭部を掴まれた。

 その腕から逃れようと身体をめちゃめちゃに振りまわし、そんなもの意にも端かけない腕が、手近なブロック塀へ容赦なく顔面を叩きつける。


 いい音がした。

 鼻の骨が折れた、と思う。

 頭の骨だって怪しい、と思う。


 一発ではなく何度も繰り返しぶつけられ、その度に鼻と頭が小気味のいい音を弾けさせ、鼻血があふれ顔が切れ口腔に苦い臭気がこみ上げてくる。

 遅れてやってきた苦痛は苦痛と呼ぶのも耐え難いほどだった。

 痛みのあまり心も体もまともに動かず、逃げだそうとしているのに手も足も糸の切れた人形みたいな不格好な動きしかしてくれない。


 後はもう滅茶苦茶だった。

 滅茶苦茶好きにされた。

 何をされたのか一々憶えてなどいない。どれだけ好き放題されていたのかもわからない。


 後頭部を掴まれたまま殴られて殴られて殴られ続ける。

 苦痛が一線を超えると痛みを拒否する意識の方が先に途絶え、途絶えた意識が衝撃で無理やり引き戻される。

 目の前にあるのはアスファルトでも先輩でもなく飛び散る火花で、赤と黄色と白の色彩が派手に点滅して消えてくれない。


 だめだ、と止まった頭で思う。

 最初から最後まで間違っていた。零から兆まで誤っていた。どこもかしこも誤謬ごびゅうだらけだ。どうしようもなく馬鹿で呆れるほど愚かで比較しようもなく世間知らずで言語に絶するほど甘ちゃんだった。


 あんな「もの」を説得しようなんてどだい無理な話だった。不可能はどこまでいっても不可能だ。ゼロに何をかけても答えはゼロにしかならない。


 もういい。何もかもいい。どうでもいい。なんでもいい。この場にいたくない。ここから離れたい。あれから距離をおきたい。ここでなければどこでもいいから違うどこかへ逃げてしまいたい。


 悲鳴をあげる。

 ありったけの悲鳴をあげる。

 理性も決意も覚悟も愛情だって、そんな後付で薄っぺらな代物は一粒も役に立たないし、一握の足しにもならない。


 圧倒的な恐怖。

 絶対的な苦痛。

 根元的な暴力。

 比較しようもない死そのもの。


 忌なんてあれと比べるのもおこがましい。

 格とか存在感とかそんなものでなく、もっと頭の先から足の裏まで違っている。

 エリマキトカゲとティラノサウルスが同じハ虫類だというくらいに違っている。


 怖くて逃げだす。

 何もかも放りだしてただただ逃げだす。


「ぅいひぃいぃっっっ」


 叫んだ。

 叫び続けた。押し潰されそうな恐怖から逃れるためには叫ぶ以外の方法を思いつかない。舌が絡まり顎が砕けていて口を動かすことも難儀で、まともな言葉にちっともならない。


 奇声だけを精一杯はりあげた口から大量の血があふれてきて制服の胸とアスファルトを赤く染め上げる。

 血と一緒に小石みたいな白いものがたくさんこぼれて這いずった後に点々と続く。折れた歯なのだとおぼろげに理解すると、自分の後ろをナメクジの跡みたいにくっついているそれが、意味もなく根拠もなく無性におかしくなる。


 たぶん、笑っていた。

 きっと、おかしくなっていた。

 頭も身体も、とっくにまともに動くとは思えないのに、火事場の何とやらなのかアドレナリンのせいなのか動くことだけは止めようとしない。ぼろ切れのような手足を必死にのたうたせてひたすらにどこまでも逃げ続けた。

 苦痛だけは克明に焼きついていて、神経に手を突っ込まれてかき回されるような激痛が身動きするたびに襲ってくる。


「はぎっ、けひぃ……、ひぃぎっ……」


 いたい。

 頭が働かない。

 身体が動かない。

 視界も定かでない。

 それでも「あれ」が追ってくるのがわかる。

 足音が聞こえる。

 息づかいが迫ってくる。


 恐ろしい。ただ恐ろしくて、それだけで腕と足を止めてしまうことができなくなる。


 急き立てられるように這いつづけていると地面が消失し、そう思ったのは錯覚で、斜面を滑ってころがり落ちて下の道路に投げ出される。そこが何処かなんて頭をかすめもせず、あれから一歩でも一瞬でも1ミリでも離れることだけ考えて逃げ続ける。


 途中からなんとか立って歩けるようなった。

 へし折れたはずの足が引きずりながら歩ける程度には快復している。


 人狼の生命力だ。

 ぞっとした。

 人狼の回復力が、不死身の力が落ちている。

 もしかすると同じ人狼同士だからかもしれない。

 死ぬかも知れないと、初めて意識した。






第7話 9月21日 月下の共犯者2


 いつの間にか学校についていた。

 無我夢中で逃げる内に、知らず知らず通い慣れた道を選んだのかも知れない。

 見慣れた場所へとたどり着いたことによるほんの少しの安堵を、後ろから聞こえる唸りとも遠吠えともつかない獣の声がもののみごとに粉砕した。


 狩りの声だ。

 弱った獲物を最後の罠に追い込む声だ。追い込んだのは奴で、追いつめられたのが僕だ。

 ここは狩り場で、頭の悪い獲物は人気のない、思う存分八つ裂きにできる場所へまんまと誘い込まれたのだ。


 すぐ後ろに足音が迫っていた。

 未来の音だった。未来の音でなければ聴き取れないほど殺人的な速度の音だった。

 心臓が止まるほど驚いた。

 来る、と思った。


 思った瞬間には学校の内と外を仕切る金属製の正門とコンクリートの支柱が、見えない顎に噛み砕かれたように分解されていた。

 門だったものは五分刻みになった。支柱だったものは瓦礫に変わった。鉄も石もコンクリートもそれ以外も、のべつなく区別なく差違もなく完全に完璧に粉砕される。

 飛び退くのが髪の毛一筋でも遅れていれば正門と並んで僕の身体も残骸になっていた。


 石の雨が降る。

 石の雨が叩くアスファルトにもブロック塀にも、巨獣が腕を振りまわしたような長大な四本の爪痕が刻みつけられている。


「――――ぃぃっぃっ」


 絞り出すような悲鳴をあげた。

 頬に爪痕が残っていた。浅い、今までの傷に比べればかすり傷にも入らない程度の浅い傷が四条斜めに走っていて、ぽつぽつと血の珠が浮いている。


 爪。

 人狼の爪だ。


 明確で即物的な恐怖が心臓を鷲掴みにする。

 人狼の爪でつけられた傷を癒すのは、人狼の驚異的な回復力をもってしても容易ではない。ましてや急所などを抉られれば即死だろう。

 人狼の不死の力さえ蹂躙し屈服させて、二度と立ち上がることはない。


 知る限り人狼を殺せる方法は二つだけだ。


 一つは五体をバラバラに、八つ裂きに五分刻みに解体する。脳が完全に破壊されて、同時に身体が完全に破壊されていれば、不死身も何もいくらなんでも死ぬしかない。


 もう一つは、人狼の爪か、同様の力を持っているもので抉ることだ。人狼の爪は人狼の不死性を打ち破る力を持っている。不死身であろうがなかろうが化け物だろうが人間だろうが、区別なく区分なく息の根を完全に完璧に完膚なきまでに止めることができる。


 あれは、その爪を持っている。

 人狼を殺せる、不死身の化け物を縊り殺せる必殺の武器を持っている。


 右手の爪がナイフみたいに長く伸びる。振りかざしたまま迫ってくる。あれの顔は右半分だけが獣めいた表情を焼きつけた奇妙なデスマスクのようで、まるで唇の半分だけをひきつらせて笑っているように見える。


 しかし、笑ってなどいないし怒ってもいないし泣いてもいないし楽しんでもいない。

 目の前にいるのは殺すために殺して殺して殺し続ける天性の殺し屋たる生き物だ。


 怖かった。

 誰よりも何よりもあれが恐かった。

 本物の、間近の死が死ぬほど恐ろしかった。

 殺される、と思った。


 今まで誰と、何と戦っていても、いつも何処かで最後の余裕があったのは、結局のところ不死身という切り札が心の鎧を強固に確固にしていただけのことに過ぎないのだと、否応無しに気づかされる。

 それがなくなっただけで恐怖は忍び寄ってきて背中にぴたりと張りついて剥がれない。


 恐ろしい。何よりもどんなものよりも恐ろしい。死そのものよりも恐ろしいものはどこにもない。


 あれは死だ。

 他の何でもない理不尽な死そのものだった。

 笑うことも叫ぶこともできず、選択の余地などなく逃げようとする。


 瓦礫になった正門を乗り越えて校内に逃げ込み、残骸につまずいて尻餅をつく。そのままの格好で後ずさる。夢中で手を振りまわす。

 どうにかなるともできるとも思っていないのに、そんなことをしても無駄だと億も兆も承知しているのに、それでもせずにいられない。

 本当に無駄だった。


 街灯もない闇の中をあれが真っ直ぐやって来る。一瞬前まであった距離をその一瞬で踏み越えて、笑いもせず僕の頭を鷲掴みにする。軽く掴まれたようにしか見えないのに頭蓋を割られるのかと思うほどの苦痛にのたうち回る。


 めきりという音をたしかに聞いた。

 聞いた瞬間に悲鳴を――

 そんなものでは足りなかった。


 食われる。

 喰らわれる。

 むさぼられる。

 食いちぎられる。


 強姦されるみたいに組み敷かれ、容赦なく切り裂かれ解体された。牙が突きたてられ、筋肉と脂肪を神経から引き剥がし、骨を砕き散らしていく。

 皮膚と脂肪を八つ裂きにされるたびに身体はほとんど条件反射で跳ね上がる。生きながら食われ、食われながら分解される。最悪で最低で最兇のやり方でバラバラに刻まれて殺される。


 狂ってしまうと思った。半ば以上はとっくの昔に狂っていた。ぴちゃぴちゃと湿った音で頭が一杯になる。真っ赤に染まった視界の隅の、そこだけクリアーな一部分から、腹から血まみれの顔を上げた女の形をしたものが、美味そうでも不味そうでもない顔で食いちぎった僕のはらわたを機械のように咀嚼して飲み込むのを、画面越しにみるテレビドラマのワンシーンみたいに眺めている。


「あぱ、あぱぱ、ぱぱっぱぱぱ――っっ」


 身体がばらばらになり、思考がバラバラになる。

 思考がバラバラになり、視界が白くなる。


 死ぬ、と思った。

 死ぬ、のが、嫌だった。

 ただ、死に、たく、なかった。


 そのためだけに。

 手近なものに砕けた顎で力一杯噛みついた。


 それは相手の右手首で、こわい獣毛がびっしりと生えていた。女の人の腕だと思えないほどアンバランスに太くて強靱で、歯どころか弾丸だって通りそうにない。

 もともと歯なんて一本も残っていない。何も考えず歯もないのに、顎も砕かれたままなのに噛みついた。

 痛覚などとっくに鈍化して感じなくなっており、相手の表情が何も変わらないのが恐ろしくてさらに力を込める。


 ぎしりと、肉と骨が軋んだ。

 壊れた顎と歯が軋む。ぎちぎちと鳴る。

 歯茎が、筋肉が、顔が、内臓が痛い。

 身体の節々が細胞の一つ一つが神経の一本一本が痛い。それは産みの痛みだ。異なるものが産まれ落ちるために古いものを脱ぎ捨てていく痛みだ。


 真新しい牙が音を立てて歯茎を押し破りながらせり出してくる。舌の上に鉄をふくんだような味が広がって、嚥下される他人の血潮がふつふつと熱いものを沸きたたせる。吐き気がする。胃液の代わりに自分の舌を吐き出す。それは獣のようにぞろりと長い。脊椎の裏で何ががのたうっている。筋肉の下に蛇でもいるように全身の肉が波打っている。


 ヒトの

      形が

          崩れて

               いく。


 最後のタガが、外れようとしていた。

 とっくに手放したと思っていたのに、それでも引っかかっていたらしい理性の最後の一線を、きれいにさっぱりと振り切ろうとしている。


 先輩を助けようと決めていた。

 その薄っぺらな紙切れほどの値打ちもないものが最後の一線を、化け物を、この期に及んでもこれ以上は下がれないギリギリどうしようもないところで押しとどめていた。

 先輩を救いたいと思っていた。


 そんな考えはもうどこにも一欠片だって残ってやしない。頭の中に散った火花と一緒に燃えて尽きてしまった。

 先輩はとっくに死んでいて、美星ちゃんと同じに死んでいて、水緒と同じに死んでいて、目の前のこれは――


 ――これは、ただの彼女の残骸だった。






第8話 9月21日 月下の共犯者3


「――げひぃ」


 死にたくなかった。

 ただ死にたくなかった。


 食いちぎってやった。

 真新しい牙と真新しい顎を全力で噛み合わせる。こつん、と骨を噛み砕く音は意外なほど軽い。チーズでも噛んだような歯ごたえのなさが伝わる。口腔に塊が転がってきて、骨と肉を噛みつぶして咀嚼する。肉の感触と血の味を味わってから飲み込んだ。


 相手は動きを止め、ガラス玉めいた瞳で食いちぎられた自分の手首を見つめている。手首は皮一枚でようやくぶら下がっている。人体標本のような切断面からマンガみたいな量の血があれていた。


 はじめて動きが止んだ。


 その隙に下敷きの身体ごとひねって左手を振り回す。相手の体重なんてないも同然。馬乗りになられていてもどうってことはない。

 拳がこめかみをかすめた、それだけで相手は木の葉みたいにきりきり回って吹き飛んでいく。


 10メートルを軽く飛んだ。

 足場のない空中で猫のように身体を捻って綺麗に着地する。

 それでも、威力を殺し切れず、左手と両脚で地面を噛んで、殺し切れなかった衝撃で校庭にラインをえがきながら校舎ぎわまで滑っていく。


 奴が顔をあげた。

 こちらを睨んだ。

 何色でもない、何色もない目で睨んでいた。


 殺されると思った。

 死にたくないと思った。

 殺そうと思った。

 最後のタガを捨てた。

 考えるのも止めた。


「――ぎげぇ」


 獣の声がした。

 自分の声だった。


             「――ぎぁひぃ」

              獣の声がした。

              奴の声だった。


 動いた。


 上か下かと迷って、視覚より先に触覚が上から来る風圧をつかまえた。

 奴は予備動作もなく跳躍し、軽く地を蹴ったとしか思えないのに重力を振り切って真上から悪い冗談みたいな速度でやってくる。


 爪が振り下ろされる。

 だが、そんな場所にはもういない。

 相手の背後に回るように地面を蹴る。

 右爪を薙ぎ払う。


 奴は身体をぎゅっと縮め、足場のない動けない空中で腕を受け止め、その威力を呑み込んで腕を支点に回転した。手を離した時には視界からかき消えるように飛んでいく。


 互いに速すぎて視覚などあてにならない。気配の残滓と後から追ってくる音だけが世界の全て。二匹の犬が互いの尻尾を追いかけ合うように、二匹の化け物は互いの背後を狙う竜巻になる。


 巻きこまれた校庭の鉄棒とバスケットのゴールポストが瞬く間に解体され分解され鉄くずになる。


 爪に最も注意を振り向ける。

 それだけがこちらを殺せる武器だ。


 意識するより先に奴が来る。肘を避ける。避けたはずの肘が額を割る。肉と骨は今も変化し続けていて、額は瘤のように脹れあがって脈動し、その分だけ距離を見誤る。


 互いの牙が喉を狙う。かすめていく。それだけで肌と肉をごっそり抉られる。それだけで不死身同士の殺し合いが致命傷になるはずもない。勢い一つ殺せない。


 奴が空中に逃げる。軌道を読んで爪で払う。奴は校舎の壁に貼りついて爪の軌道を逃れ、振り切った瞬間を狙い、喉元に躍りかかって牙を突きたてた。


 喉笛が噛み破られる。

 獣の声で吠えた。


 喉笛に食らいついた相手の身体を、喉の肉ごと引き剥がして校庭に叩きつける。相手は両手足をつかって蜘蛛のように着地、衝撃を殺す。四つ足のままの姿勢で這うように疾走する。


 喉の傷から噴出す大量の血が、獣毛に覆われて脹れあがった胸筋を赤く染める。その時には走り出している。速度に追いつけない血煙が空中に霧のように取り残される。


 速さそのものはほぼ互角だ。

 技術では勝ち目がない。

 だが、力では勝っている。


 相手の進路に飛び出す。

 力まかせの急制動をかけて、慣性のついた奴めがけて丸太のような腕を叩きつける。

 身体の奥から殺すための熱量と質量が無尽蔵に湧いてくる。ぎちぎちと骨がなる。四肢の肉という肉が膨れあがっていく。


 刹那ごとに人と違う生き物が、化物が、怪物が、血管と筋肉と神経の中から起きあがる。代わりに制服はぼろ切れのようになって、残骸だけが手足の先にまとわりついている。

 腕は奴を捉え、ほとんど衝撃がなく、奴は威力に逆らわず勢いをそのまま利用して背後に跳躍しており、校舎の壁を蹴って戻ってくる――


 戻ってくるつもりだった。


 角度も高度も強度も速度も始まる前からわかっていた。確定された予定――未知など入る余地のない既知だ。

 最初から最後まで聴こえていた。

 未来の音、これから起こす、まだ起きていない音がだ。壁に着地したその瞬間を狙い澄まして追いついた。


 一瞬の何万分の一だけ、奴が動揺して停滞する。


 致命の隙だった。


 顔面を捕まえる。カウンターになる。そのまま止まらず突進し、これまでの意趣返しとばかりに校舎の壁へ叩きつけるようにして――

 激突した。

 まるで爆発事故のような途方もない轟音と衝撃。


 新校舎の鉄筋コンクリートを豆腐のようにぶち抜いて、校舎の中に躍り込んでいた。


「っ、が!」


 土煙が晴れる。

 足下でうめく声がする。

 衝撃全部を受身も取れずにまともに喰らい、奴は口から噴水みたいに血を吐き散らしている。


 雨のように降る血潮が校舎と廊下に点々と痕をつける。散らばったガラスとコンクリートの破片に埋もれ、立ち上がることもできず無力に無様にもがいている。


 不死身は無敵とは違う。

 死ななくても骨折すれば苦痛がある。強い衝撃を受ければ気絶する。

 どんな頑丈な生き物でも生き物でなくても、たとえ人狼でも、冗談みたいな速度で大質量に衝突されたら衝撃だけでイッてしまう。


 それでも。

 それでも奴は不死身だ。

 本物の不死身の化け物なのだ。

 この程度で動けなくなるのはひと時のことでしかなく、死んでも死なない身体はイヤといっても骨と肉を修復する。

 動けないのはほんのひと時だ。


 だから。

 蹴った。


 腹を、容赦もなく手加減もなく躊躇いもなく思い切り蹴った。内臓が間違いなく破裂する。肋骨がまとめてへし折れる感触がある。折れた槍みたいな骨が一ダースはまとめて肺や腎臓に突き刺さっただろう。


 人間大の物体が、サッカーボールみたいに宙を飛ぶ。フローリングの床に何度も跳ねて転がり、非常灯の明かり以外は消え失せた闇色の廊下に赤い色の跡を残しながら階段のある突き当たりまで滑っていく。


 熱く、湿った息づかいが聞こえた。

 自分の息づかいだった。

 興奮していた。

 足音を殺しもせず近づく。


 うつむいて断末魔に似た痙攣をする以外動かなくなった奴の右腕を、背後から掴んでねじ上げる。


「ぎぃっ、ぁ」


 奴が啼く。

 こちらの意図を察している。声に力がない。弱々しい。起きあがろうともがく手も足も、呂律ろれつが回っていないように定まらない。


 腕を、捻りながら、引き絞る。

 華奢な、頭を、踏む。


 ぎちっ、と音がする。

 みちみちと音がする。

 必死の抵抗が伝わってくる。

 ねじる腕に力を込める。

 踏みつけた足に体重をかけていく。


「――ぎっっっ」


 足の下から悲鳴がする。


 腕の筋肉の限界まで伸びる音がする。

 伸びきった肉のちぎれていく音がする。

 骨のねじ切られていく音がする。


「ぎいぁあぁあがあががががががっっ!!」


 ぶつん、という濡れた音がした。

 腕をちぎってやった。

 肩からねじ切った右腕がだらりと垂れる。マネキンのように華奢で白い。化物の形をしていた腕は切り離されて人間の形を取り戻していく。


 腕だけなのに意外に重くて、邪魔だと捨てて、今度は奴の頭を後ろから掴んで引っ張り上げる。白い肌にも白い服にも自分の流した血で斑の紋が描かれている。


 奴は悲鳴もあげられない。

 ひゅーひゅーという風みたいな音だけが喉からもれ、時折思い出したように、打ち上げられた魚に似た痙攣をする。血の海に沈んだまま、それ以外はまるでまともに動かない。

 それでも不死身の化け物は死ぬことがない。

 爪で切り裂くかバラバラにしない限り死ねることがない。


 もう殺してしまおうと思った。

 舌なめずりをする。

 鼻を引くつかせて近づける。

 匂いを嗅ぐ。

 柔らかくて暖かい場所を探している。

 そこだと思った。


 迷いもせず禁忌もなく腹にむしゃぶりついた。

 食いちぎった。

 服ごと食いちぎった。

 締まった腹筋と薄い脂肪と温い腑に牙をたてる。


 熱く、湿った音がする。

 ぶちり、と肉が、歯に切断される音がする。


 奴は一度だけ、びくんと反り返った。もう痛くないのかも知れない。何も感じていないのかも知れない。

 腹筋を抉り取ると、腹に顔でも入りそうな穴が空く。ぬらぬらとピンクに光る内臓が顔を出す。


 奴の血まみれの顔を見た。

 奴の唇が断末魔で痙攣した。

 奴の唇が断末魔で痙攣した。


「ひ、ぃげひぃ……」


 ぞろりと舌を吐く。

 この舌は長すぎて上手くしゃべれない。言葉が上手く出てこない。


 思い出せ。

 自分自身に言い聞かせる。

 何度もそうする。

 言い聞かせないとそんな簡単なことができそうにない。

 何故ここに来たのか思い出せ。


 解答の書かれた問題。

 決定された未定の定理。


 血の色をした霞をはらって、考えるまでもなく思い出すまでもなく浮かんでくる筈の答えを脳裏に思い描くまで、一体どれくらいの時間が必要だったのかよくわからない。


「……せん、ぱ……」


 美空先輩を、助けたくて。

 呆然とその場に立ち尽くす。


 やめろよ。

 自分の頭のどこか一部分、狂奮とも狂奔とも狂乱とも正反対の、どこまでも冷たく残酷でどうしようもなく言い訳のきかない数字と物理の固まりのような部分が、すぐ近くで囁やく声をたしかに聞いた。


 助けられるわけがないだろう。

 まともに理性的に常識的に考えろ。

 あらすじは最初から決まっている。

 物語はここで終わりだ。

 ゼロに何をかけてもゼロなんだよ。


 言い返す言葉の見当がつかない。

 心が揺らぎ、言葉に詰まる。理性と理屈と理論と理解とが口をそろえて不可能を論証する。


 方法なんて何もない。愛や希望や勇気や奇跡や、吹けば飛ぶ紙切れと同じものでは何一つ変えられないし、何一つにも代えられない。

 具体的でなく現実的でなく客観的でもない解答なんて最初からゼロと同じことだ。無限をかけてもやっぱり解答はゼロのままだ。


 殺すしかない。

 死にたくないから殺すしかない。

 方法がないならそれしかない。

 何もしないなんてもってのほかだ。

 殺すのが解決で、殺してやるのが救済だ。

 両手はとっくに汚れているのに。

 今更イヤだなんてキレイごとを言うなよ。


 その通りだと思った。

 思ったら殴られた。


 棍棒のようなもので思いっきり顔を殴打され、形になろうとしていた言葉の羅列が頭から綺麗に飛散した。棍棒だと思ったら、それは引きちぎったはずの右腕で、血の気が失せて作り物にしか見えない腕を先輩は粗雑に振りまわしていた。


 二発目で吹き飛ばされた。

 廊下の壁を背中で突き破り、飛びこんだ中は1年の教室で、整然と並べられていた机の列へ頭から突っ込んで埋もれてしまう。


 壁を蹴り破り、教壇側から先輩が入ってくる。

 全身が血まみれで、頬にも額にも白襦袢からのぞかせた白い足にも赤い斑ができている。白い衣装も下地がわからないほど染められている。

 賭けにもならない、と思った。


 規定された未定。

 既知の未知。

 解答のある公式だ。


 明日の天気はわかっている、あらすじは決まっている。どれもこれも始まる前から終わっている。分が悪いのではなく、最初から分なんてものは一分たりともありえない。


 やるのか、と自分で訊いた。

 訊かずにはいられなかった。

 想像するだけで吐き気がする。

 目の前が涙で滲んで見えなくなる。

 冷や汗が全身に吹き出す。

 鼻水と汗と涙とが垂れ流しになって顔と身体をべとべとにする。


 考え直せ、と思った。

 どうせ無駄だし、答えは一つだし、きっと何も変わらない。おまけにさっきみたいな目にまた遭うかもしれない。

 生きたまま分解されて解体される苦痛を思い出して、それだけで死にたくなった。死んだ方がましだと思い、死ぬのが恐いと足が震えた。


 涙が止まらなかった。

 震えがいつまでも去ってくれない。

 恐怖だけが音をたてて増殖していく。

 あんな化物のことは忘れてしまえと叫んでいる。


 水緒を殺したくせに。

 他にも殺したくせに。

 この化物のくせに。

 痛いのがイヤで、苦しいのがイヤだった。

 死んでしまうのが何よりイヤだった。


 ――来る。

 先輩が近づいてくる。

 酔っぱらいみたいに足取りがおぼつかない。さっきのダメージから回復していない。近づきながら右腕と肩の傷口を合わせる。生き物みたいに傷口の肉が盛り上がり、見た目の裂傷だけはあっという間に消えてしまう。

 それが人狼の回復能力。


 今、しかない。

 本当に今しかない。動かない膝を叩いて言うことをきかせる。震える足をナメクジのように動かして前に進む。

 今ならまだ間に合う。治ったように見えてもすぐには動かない。弱っている上に片手だ。

 今だけだ。今やらなければどうしようもない。


 やれ。

 もう先輩は目の前だ。

 なのに腕が上げられない。

 やることはわかっているのに足が動かない。

 歯の根がどこまでも合おうとしない。

 いきなり視界が滲んで、慌てて目をこすって、唇を噛み切るくらい歯を食いしばる。


 やれ。

 さあ。

 何もかも投げ捨てて逃げ出したかった。

 やれ。

 泣きながら。


 ぶん殴った。


 フックだとかアッパーだとか綺麗なものではまるでない。子供の喧嘩でただ腕を振りまわすようにぶん殴った。

 顔を殴った。本気だった。思いっきりやった。一発で先輩の腰が砕けた。


「わぱぁっ!」


 意味のある言葉が出てこない。意味のない声だけはりあげてもう一発、


 今度は左手で反対から殴る。

 先輩がバランスを崩す。そのまま机の列を跳ね飛ばして床に転がる。先輩はまともに動けず、自分の足もちっともまともに動いてくれず、手も使って四つんばいになって這うような格好で飛びかかる。

 馬乗りになり、逃げられないよう両足で押さえつける。


 先輩はガラスのような瞳で、

 不思議そうな顔で、

 下から見上げてくる。


 ボクがヒトの形をしている。

 僕が化け物の形をしていない。

 それがとても不思議そうに見上げている。


「――わらぁっ」


 ぶん殴った。


 顔面に入れる。

 先輩は目を閉じない。

 唇が切れる。とっくに血を流しすぎたのか鼻血もでない。

 これまで他人をまともに殴ったこともなかった手は一発だけで骨まで痛い。


「がぁっっ、っ、!」


 手加減なんて、しなかった。

 一発でなく何発も、右手も左手も関係なく、いちいち数えていられないくらい岩を落とすように拳を落とす。生まれてはじめてというところまで人を殴ることに真剣になる。


 先輩が黙って殴られていたのは最初の二、三発だけで、その後は首を絞められた猫みたいな声をあげて下から必死の抵抗をした。

 身体をねじって滅茶苦茶に暴れる。左手の爪で肩も頬も抉るように引掻いた。その手に噛みついてやった。遠慮なく歯型がついて血の出るくらい噛みついて、悲鳴が上がってガードが開いた隙間をこじ開けて、更に顔面を滅多打ちにする。


「はわっ、っわら、っ!」


 吐き気がするし、殴るたびに手が痛い。それでもかまわず左手で胸倉を掴み、もう一度拳を振り上げたところで。


 すっぱりやられた。


「……がっ、……ひっ、か、」


 左目の視界が夕日みたいな赤一色になる。

 顔を押さえた手がもっと赤くてべたつくものでずぶ濡れになる。先輩がまだ動かないはずの右腕を肩ごと振りまわして、その爪に当たって顔を裂かれたらしい――なんて考えられたのはほんの一瞬だった。


 わき腹に膝が捩じ込まれてひっくり返された。床に転がった身体の上に先輩が馬乗りにのしかかる。


 鉄の塊みたいな拳が降ってきた。

 一発でなく何発も、左手一本のくせに、いちいち数えていられない。集中豪雨のように拳を降らせる。50キロもない体重をキレイに乗せて、こっちよりはるかに年季が入って、堂に入った殴りっぷりで好き放題に殴ってくる。


 殴られるたびに頭の中で火花が散る。目の前が真っ白になる。ガンガンと五月蝿い音がそこらへんで大合唱している。


 何も考えなかった。

 ガードしようとか痛いとか痛くないとかも考えない。考えるより先にひたすら殴る。上になり下になり、飽きるほど殴ったし殴られた。たった今どちらが殴っていたのかさえわからない。


 左目が焼け火箸を押しつけられたみたいに熱い。顔の半分が真っ赤になり、そのくせ痛みというやつはとうに感じなくなり、拳だけがそれでも痛む。


「っくわら、っ!」


 気がつくと上になって殴っていた。

 一発で上から弾き飛ばされた。

 それまでと違い、その一発で顎が割れ、喉と鼻が粘ついた鉄味のもので詰まってしまう。


 すっかり腰にきて、倒れ込んで、机の残骸を杖代わりにしなければ身体を起こすこともできない。

 まぶたが腫れあがってすっかり狭くなった視界の隅で確かめる。


 右腕だった。

 ヒトの形をしていない先輩の右腕の仕業だった。


 おしまいだ、と思った。

 本調子でないから僕の首は飛ばなかったのであって、先輩にとって今の僕をなますにするなんてビデオのタイマー録画をセットするより簡単だろう。


 右手がくっついて普段通り動くようになれば、眼前のそれは賭け値なしの死そのものだ。抵抗も抗戦も悪あがきも全部が無駄で何より無益、最初からするだけ阿呆らしい。


 ここまでか、と思った。

 覚悟を決めてもどうしようもなく恐ろしかった。

 カチカチと歯が震えて音を立てる。顔中が熱をもったように熱い。今は何の痛みも感じていない。それでも足が立てないくらいに怯えていて、小便を漏らしてへたり込んでしまいたいくらい慄いている。

 死にたく、なかった。

 せめて楽に殺して欲しい、と思った。


「…………え?」


 目と鼻の先に先輩がいた。映画のコマ落としみたいに、途中経過がまるでない。

 始点が終点で始動が静止。

 睨んでくる。意思も意志もない瞳がまっすぐに僕を見る。


 戦慄に身体が動かず、左肩だけが異様に熱く、すぐにそれが耐えがたい激痛だと気がついた。


「っ、ひぃっぎぃいあああ――っぁがあ!」


 長く伸びた爪が四本とも左の肩を貫通していた。指の根本まで刺さっている。急所ではなく肩口で、爪が肩骨に当たってガリガリと音をたて、身体が裏返りそうな苦痛の束を神経の末端まで送り込む。


「……っ、!…………、……か……!!!」


 とうとう悲鳴もでなくなる。


 人狼の爪が身体を抉っていく。

 刻印を刻んでいく。

 傷口をこね回し、串刺し、反抗という暴挙への制裁を苦痛という形で烙印する。目の前が白くなる。


 痛みだけがどこまでも大きくなって、突き刺されている肩だけがはっきり意識でき、他の部分は真っ白になって焼け落ちる。

 むきだしの神経を逆なでされる痛みが感覚の全部になる。骨が爪とこすれてゴリゴリいう、その音だけで頭の中が一杯になる。


 今度こそダメだ、と思った。

 今度という今度こそ、まったく、絶対的に、救いの欠片もなく、これっぽっちもダメだ。


 ここまで来たら今さら殺す気になったところで間に合わない。ヒーロー物の特撮なんかとはわけが違う。変身する間は攻撃しないなんて不文律は通用しない。殺す気になって変身する間に、先輩は三度も四度も五分刻みにできる。殺す気にならなくても、先輩は六度も七度も八つ裂きにしてくれる。

 殺す術も死なない方法も残っていない。


 何が間違っていたのか。

 最初から最後まで間違っていたのだろう。


 そもそもが一厘の分すら、コンマの可能性さえない賭けだった。

 零から兆まで誤っており、どこもかしこも誤謬だらけで、どうしようもなく馬鹿で呆れるほど愚かで比較しようもなく世間知らずで言語に絶するほど甘ちゃんだった。


 右目だけで先輩を見やる。

 腫れあがっていて薄目以上は開かない。


 先輩がいる。

 化け物の顔をして、心の飛沫の一滴もない顔をして、笑いもせずに怒りもせずに悦びもせずに突っ立っている。






 ――早く殺さないとね。






 先輩が言ったことだった。


 それが――

 先輩の生きている物語だ。


 敵か味方ではなく、敵しかいない。

 動いているのは敵で、動かないのは訓練された敵だ。信じるより先に裏切って、助けるより先に息の根を止める。息をするように死を呼吸して、草を刈るように生命を狩り取る。


 世界の崖てだ。

 他に何もない行き止まりの物語だ。

 目が眩むほど、むかついた。

 そんなふうにしてしまった奴らに、そんなふうでなければならない物語に腹が立った。


 そんなものを許しているあらゆることに、そんなことに何もしなかった自分自身に、やり場もなく押さえ切れない憤りが生まれる。


 血を流しすぎてすっかり冷たくなって感覚も失せてきた腹の奥に、最後の火がついた。


 ちくしょう、と思った。

 それが最初で、それが全部だ。

 それ以外の言葉など思いつきもしない。吹けば飛ぶような腹の底の火を最後の熱量に換える。

 それで最後、本当に何も、何一つ残らない。


 亀よりのろのろと震える右腕を伸ばす。

 視界が霞んでぼやける。

 腕を真っ直ぐ伸ばすだけの行為が、ヨガの苦行のように難しい。まるで皮膚の下に鉛でも詰め込まれているみたいに自分の腕が重い。


 いそげ。

 憎い奴を呪い殺すように、それだけを念じる。

 これで最後だ。本当に最後だ。

 まるっきり、もうこれで何も考えなくてよくなるんだ。本当の本当にもうこれっきりなんだ。だから動け!


 うごけうごけうごけうごけうごけうごけ動いて今すぐ動いてうご――


 動いた。

 先輩のえりに届く。

 二度と離れないように、殺されてもとれないように、爪が掌に食い込んで固まるくらい強く強く握りしめる。


 もう一度、先輩を確かめる。

 恐ろしかった。

 逃げられない死が恐ろしい。

 もうすぐやってくる死そのものが恐ろしい。

 ズボンを濡らしているのが流れてしまった血なのか、もらしてしまった小便なのかわからない。


 襟を掴んだ手が震えているのは出血よりも怒りよりも、間違いなく恐怖のせいだ。

 痙攣するように鳴り続ける歯の根を、最後より前にある残されたものを全てかき集めて無理やりにかみ殺す。


「……せん、ぱ、い……」


 途切れ途切れに、やっとの思いで言う。

 ひどく濁っている。


「……ぼくら、は……」


 一瞬が、欲しかった。

 最後の力を使うための一瞬が欲しい。


「……きょうはんしゃ、なんだ……」


 一瞬だった。

 初めて、先輩が、目に見えて、石になった。

 大きく息を吸いこんで。

 最後の力で。


「――っ、がぁっ!!」


 頭突きを喰らわせた。

 鼻の頭に命中する。


 よろめきふらついて先輩が床に倒れ込む。掴んだ手は離さず、先輩を支える力なんてとうになく、折り重なるように倒れ込む。

 倒れた拍子に刺さっていた爪が肩肉をえぐりながら抜け落ちていく。


 もうダメか。

 思った。

 まだあった。

 最後の最後の力だった。


「―――っっ、がぁ!」


 もう一発。

 喰らわせた。

 頭突きだった。

 額に当たる。

 思ったほど痛くない。

 これ幸いと、三度大きく頭を後ろに反らして打ち下ろした。


「――――……っ、か……」


 つもりだった。

 最後の最後の力まで使い果たして、力のない頭突きは途中からただ重力に引かれるだけの落下になって、先輩に命中すらせず右にそれて床板にしこたま激突する。


 運がいいのか悪いのか、いよいよまったく痛まない。ごつんという衝撃だけを何となく感じる。他は何も感じないし目の前に何があるのかもよく見えない。


 何故か寒くて身体が重くてどうしようもない。疲れているのに虫みたいな細い息を規則正しく吐くことしかできない。


 本当に寒かった。

 何もかも抜け出るくらい寒かった。

 それもすぐに感じなくなった。

 最後の最後の最後まで使いきった。

 後に残ったのは、ただの僕の抜け殻だった。


 いつの間にか仰向けになっていた。

 腫れた目の隙間から月を眺めている。何処で仰向けになっているのかはわからない。

 天国ではないようで、行くとしたらきっと地獄だろうなんて考えて、結局生きているらしく、地面の上に横になっている。


 右の頬が濡れた。

 濡れたのではなく舐められた。犬がするように傷口とこびりついた血の跡を舌が拭っている。


 目だけ動かす。舌の動きが止まる。

 美空先輩と目が合った。

 時間が止まった。


 最初はびびった。

 それから電流でも流されたように飛び起きた。

 飛び起きようとして、身体中の激痛に声もなくうずくまる。骨折か裂傷かそれとも打撲か。数えるのも嫌になる傷という傷の、それでも半分くらいは塞がっていた。人狼という生き物はつくづくしぶといのだと、感心するよりいっそ呆れる。


 それでもようやく半分で、まだ傷は生々しく、特に左の目と肩の抉られたような激痛はまるで収まる気配がない。

 触れてみると何かの布が巻きつけられていた。応急処置くらいはされているのが理解できた。


「…………あなたが」


 動く右目だけを向ける。

 美空先輩、だった。


 冷淡で、笑いもせず、微妙に殺気立っていて……それはいつもの先輩だった。


 僕の頭は先輩の太ももの上に乗っていた。

 なのに先輩は目を伏せて僕と視線を合わせようとはしない。先輩には、血まみれになった跡も怪我の痕も、冗談みたいに跡形がない。

 今残っている血の痕は全部僕の返り血で、最後にいれた頭突きの痕跡だけが鼻の頭と額で痣になって残っていた。


「……あなたが」


 先輩がもう一度言った。


「あんなに馬鹿だったなんて、知らなかった」


「……僕も……知らなかった……」


「どうして、殺さなかったの」


「…………」


「……信じていた?」


 ふぃっと、間近で美空先輩が微笑う。

 初めて見る笑みだった。


 ふぃっと、僕が笑う。

 先輩と同じ色の笑みだった。

 自嘲に似ていた。


「……信じ、られなかった……こわかった」


「正直に言うのね」


「……うん」


「なら、どうして?」


「……言ってくれなかったら……殺した……」


「言ってないわよ?」


「……あの時に」


 先輩の血まみれの顔を見ていた。


 唇が、断末魔で――


 ただ恐ろしくて無我夢中で、先輩の腑に貪りついたあの時。断末魔の痙攣のように唇を動かして、それが願いことだと僕は思った。


「…………………殺して、って………………」


 のない賭だった。

 本当はただの痙攣だったのかも知れない。声を出したわけでもない、ただの空耳だったのかも知れない。なんでもない無意識の呟きを都合よく解釈しただけのことかも知れない。


 本当だったら、と思った。

 本当は殺して欲しいのかと思った。


 そんなのは頼まれても願い下げだ。


 水緒を殺した。大勢殺した。それでも。

 身勝手といわれようとも何であろうとも。


 理性も理論も理屈も理解もどうでもよくて。


 たった一つ、

 先輩まで手にかけるのは断じてご免だった。


 本当に分のない賭だった。

 殺さなくても、殺されない保証はどこにもない。

 本当は正気なのかも知れない。本当に我を忘れているのかも知れない。正気でも僕を殺すかも知れない。正気でなければ僕を殺すかも知れない。


 信じ切ることは、できなかった。

 先輩は、絶対に僕を殺さないと信じれなかった。


 それでも。

 信じようと思った。


 先輩が大切だったからなのか、どこかにある罪悪感のせいだったのか。水緒や美星ちゃんや、彼女たちを助けられなかった自分への、言い訳じみた代償行為だったのか。

 判然とはしない。


 ただ、信じたかった。

 血を流しても信じてみようと思った。


「あのね」


 先輩はうつむいて、躊躇って、呟くように言う。


「あれは、わたしなの」


「……あれ」


「ころす、わたし。あれも本当のわたし。ただ、殺す、殺して殺して殺し続けるために殺す道具。わたしは数少ない年若い人狼で、絶えたままの銘を継がせなければならなかった。でもそれだけでは足りなくて、少ない人狼を少しでも有効に運用するために……だから長老たちはわたしを忘れられた――自分たちがなれない最後の本物のヒトオオカミに、自分たちの最後の道具にしたの」


 彼女は淡々と言う。


「人狼っていうのは、結局のところヒトオオカミなのよ。獣の皮を被った人ではなくて。人の皮を被った狼でもなくて。どちらの群れからも怖れられ、どちらの群れにも混じることができない。きっとわたしたちは人が語る恐怖の物語の中だけにあって、忘れ去られようとしているありえないもの」


 ただ淡々と、本当に色のない声で言う。


「わたしはそうなったのよ」


 本物の恐怖になった。

 ただの死になった。


「なったと思っていたのに」


「………………」


「それでもよかったのに」


「………………」


「誰かと、いたいなんて、思ったこと、なかった、のに」


「…………先輩」


「でもね、そうやくん」


「……うん」


「わたしは、美星を殺したの」


「でもね、せんぱい」


「……うん」


「僕らは、共犯者なんだ」


 水緒を殺して。

 美星ちゃんを殺して。

 大勢を殺して。

 僕らはここに生きている。


 罪深い、ことなのだろう。

 ヒトがたくさんの生き物を殺して生き続けるように、獣はそうやって生きるしかなかったのだ。

 理も非もなく、ただ、獣であるがゆえに。


 先輩は何も言わなかった。

 僕は何も答えなかった。


 何も言わない代わりに先輩が僕の顔を舐める。犬がそうするようにする。

 何も言わない代わりに僕が先輩の顔を舐める。犬がそうするようにする。


 おずおずと、まるではじめてするキスのように唇を舐める。

 唇は、少し血の味がした。


 夜が明ける。

 空が白くなる。

 秋の遅い朝だ。

 長かった夜が終わる。


 僕と先輩は獣だ。

 獰猛で、畏れを知らぬがゆえに、自らをも食らいつくす獣だ。

 獣であるがゆえに、たくさんの生命を奪った。


 16年生きてきた狭山宗哉という『人間』には到底理解できるものではないし、許容できるものでもない。


 でも、それでも――僕が『獣』であったからこそ、何物にも代え難いこの時を得られたのかもしれない。


 夜が終わって――。


 手の中にはとりあえず、僕以外の手が残った。






s25狼は殺すべきか【二回目】――完了


――――――――――――――――――――――


シナリオ/ 卯月桜

      月山楽

シナリオ補佐/ 是森戦十郎

        VOID

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