第10話 9月20日 尾行

 午後になった。

 学校では、綾乃ちゃんが教壇にのぼろうとして毎度のようにけつまずいて、クラスのにぎやかな面々がはやし立てるのを出席簿で教卓を叩いて追い散らしながら、なんとか取りつくろった澄ました顔をしている頃だ。


 つぐみはしかめっ面かもしれない。


 出かけにすれ違った委員長は気をもんでいるかもしれない。


 何も言わなかったから先輩は昼休みに教室に来て一人で黙って教室をのぞいて僕がいないことを確認して首を傾げたかもしれない。


 宮原は江草のことを聞いてショックを受けているかもしれない。


 でもそれは遠い世界の出来事だった。


 尾行されている、と気づいたのはその時だ。

 こちらが風上なので匂いはわからない。巧みに隠れて視界にも入ってこない。しかし足音は完全に消せない。同じ歩幅と一定の調子。一定の距離を置いてついてくる。

 どこか先輩に似ている。訓練された歩調だ。


 後ろに一つ。さらに距離をおいてあと三つ。

 獲物ではなかった。

 自然に笑みが浮かんだ。


 普通を装って交差点を左に折れる。

 裏道をたどる。人気のない方へ歩いて行く。


 路地を入った。

 相手が路地の入り口に姿を見せて、同時に反応した。誘いこまれたことに気がついた。

 気がつくのが遅かった。

 僕の方が速い。


 相手の頭上にいた。

 狭い路地の手がかりもないコンクリートの壁を蜘蛛みたいに駆け登り、4メートルほど上の窓枠に右手の二本指だけでこともなげにぶら下がる。


 身体が別の生き物のように軽い。

 好戦的な気分だった。

 容赦しようなんてこれっぽっちも思わなかった。

 相手が路地に踏み込んでくる。


 こちらを見失って動きを止める。その真上へ猛禽のように両腕を広げて飛び降りた。刃物のような爪が伸びる。

 つかまえた、と思った。


 落下する身体が風を切る。

 その、ほとんどない微少な音ともいえない音に相手は反応した。


 こちらに顔を向けもせず裏拳で頭上の空間をなぎ払う。容赦はこれっぽっちもない。拳が当たる寸前に壁を蹴って横に飛ぶ。壁に亀裂が走る。裏拳が空気を焼き、それより速く僕の身体が移動する。

 背後に回るように着地。


 信じられないことにそれでも相手は追ってきた。

 今の僕に比べれば普通の人間なんてカタツムリと同じで、普通の人間にしか見えない相手はカタツムリとは到底思えない速度で僕の軌跡を追撃する。


 音よりも速い追撃より先に〈音〉が届く。

 未来の音――起こっていない、これから起こる現象の音が一瞬速くやってきて、物理の速度は追いつくことなく追いかけるだけだ。


 笑いがこぼれた。

 余裕の笑いだ。

 簡単な解答だった。

 相手を見ている必要さえない。

 これから起こる、起こっていない音を避けつづけている限り永遠に相手は追いつけない。


 相手は裏拳を振り切った動作をそのまま生かして回転した。竜巻めいた左の回し蹴りを避け、避けたところに振り返りざまで抜き撃ちの銃口が突きつけられ、さらに左手だけで銃身を払い飛ばす。


 何もかも起こる前にわかっている。

 技術なんて皆無。反射神経だけで十二分に間に合う。半ばから二つに折れた銃が宙を飛ぶ。ついでに手首の折れる感触が伝わる。


 衝撃で体勢を崩した相手を力まかせに――

 はじめて相手の顔を見た。


 蹴った。

 人体がビリヤードのボールのように弾け飛ぶ。


 地面と水平に飛んでいき、一度も着地せず路地のつきあたりに衝突して自動車事故みたいな激突音を撒き散らした。

 土壇場で手加減した。

 死なない程度には手加減できた――と、思う。


 立ちあがらなかった。

 死んだのか、と思った。

 殺してしまったか、と思った。


 そこまで考えた時、ようやく、死体のように動かなかった女の人がおっくうそうに起きあがった。


 痛んで埃まみれになったスーツを払う。払おうとして手首がおかしな方向を向いているの気がつく。

 痛いのか痛くないのか眉をひそめたっきりで、僕の方を睨みつけた。


「…………ごあいさつやな」


 流れるような金髪が昼前の陽光に、わざとらしいまでに煌いた。

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