第7話 8月23日 神隠しの樹
なだらかな川に沿った道を並んで歩く。
もうすぐ昼の最後の残滓が立ち去り、穏やかで安らかな夜がやってくる。
山際の空は都心よりずっと澄んでいて、東の空には宵の明星が輝いている。これから、一息する間にも星が増えていき、やがては砂をまいたような夜空になる。
帰宅途中の人がまばらに流れていく。
一人で、あるいは友達や恋人と。
陽の落ちた町に灯るのは家の明かり、街灯のライト――様々な人工の、人の手になる光。
人は光の造り出す小さな領域へ帰っていく。
陽が落ちてなお、昼の残るほんの一握りの空間で他愛のない言葉を交わし、やがて眠りにつく。
人も町も眠りにつく。
夜。
けれど、僕は知っている。
ぬるい夜風の吹く夜。
音もなく、ほの蒼い光の降りそそぐ夜を謳歌するものが、別にいることを。
昼の陽の下を歩かぬものたち。
夜属や忌――怪たちの時間。
夜には夜のものがいる。
昼のものが知らないという、ただそれだけのことで、昼とは異なる
心配だ、と僕は沙雪さんに嘘をついた。
半分は本気だった。だから半分は嘘になる。
つまり――彼女が忌と同じ顔を持っているということが気にかかっている。
現時点で、それ以上の確証はない。
でも、大きな証拠でもある。
そして、彼女と同僚になってから、まだ一ヶ月と経っていないのだ。
僕は、本当に彼女を知っているわけではない。
昨夜の忌は、どうやったかはわからないけれど、路地裏で消えてしまった。
憶えている忌の匂いと、沙雪さんの匂いは違う。
彼女は忌なのか、そうでないのか。
その明確な判断を下すことはできない。
けれど、彼女が疑わしいのは事実だ。
自分の身近に忌がいるかもしれないというのはひどく落ち着かない。
いつ、その力でもって襲いかかってくるかわからないのだから。
沙雪さんの鼓動、足音、呼吸。
彼女と彼女を形作る生命の歌は、ささやかにひっそりと、それでも生の確かさと彼女のあり方を僕に訴えてくる。
生命の旋律は、指紋のように、一人一人異なっていて、同じものは一つとしてない。
人間と忌の旋律も、まるで異なる。
人間と忌では、生き物としての機能や目的が根本から違うからだ。
狩猟生物として完成された忌は機能に相応しいあり方をしていて、その旋律で、人間と忌を区別することは容易だ。
でも擬態している忌は別だ。
僕も、忌の擬態を聴き分けることはできない。
だから、彼女の旋律が擬態なのか、本物なのか、僕には確実に区別する方法がない。
体調が悪いのだって、昨夜負わせた手傷のせいだって疑おうと思えば疑える。
沙雪さんと同じ顔の忌が、それも付近にもう一匹歩いていると考えるより、彼女が忌だっていうほうが誰だって納得しやすいだろう。
真理とはいつも簡潔なものだ、なんて一体誰の言葉だったのか思い出せない。
どちらにしても、本当に忌だったなら――
鉛の塊でも飲んだみたいに、お腹の奥へ、重く固いものがたまった。
「――狭山……さん?」
「あ、なんですか」
「その……前……」
思わぬ衝撃。とても痛い。
しゃがみ込んで顔を押さえ、つっこんでしまった電柱を恨めしげに見上げる。
考え事なんかしながら歩くもんじゃない。
「杣木、さん」
「…………はい…………?」
「その、できればでいいですから、もう少し早く教えてくれると、すごく嬉しいんですけど」
「ああ、なるほど。……気をつけます」
……彼女がどこまで本気なのか、今ひとつつかみがたい。
沙雪さんの体調が悪いせいだってあるだろうけれど、もともとがあまり喋る人ではないから、これといって会話も弾まない。
「この辺り、昔は空き地だったんですよ」
「……うん、知ってる」
何の気もないほとんど独り言めいた呟きに、はじめて返事らしい返事がきた。
「――杣木さんも、ここで遊びました?」
「ええ。……ここだと……家もそんなに遠くないから。よく連れられてきたの」
「僕も前に住んでた家は近くでしたよ。案外、一緒に遊んでたりしてたかも知れないですね」
「……そうかも。狭山さん……前の家って」
「親はもうよそへ行っちゃって」
「一人暮らし……なんだ」
「まぁ、いろいろとあって」
「……あの空き地」
沙雪さんはどこか物寂しい目で見つめる。
「もう、マンションが建っちゃってたね」
「そうですね」
「――――――」
「なにか言いました?」
「……なにもかも変わっちゃう気がする。なにもかにも置いていかれてる気がする」
――遠くへ……。
似たような言葉をどこで聞いたのか。
けれど、思い返したのは一瞬のことだ。
沙雪さんの、ぽつりと言う口調の切なさに、僕は返す言葉を失ってしまう。
小さかった頃。
母さんが元気だった頃。
引っ越してきたばかりの頃。
ここらがまだ、なにもない田舎だった頃。
田んぼのあぜ道に咲き乱れていた
かくれんぼで隠れた草むらの中で見つけた、テントウムシやバッタたち。
熱い日差しの下の水鉄砲で、一瞬だけできた虹。
陽光の下に舞っていた、名も知らぬ青い蝶。
あれから7年以上が過ぎて、あの頃の風景は、すっかり様変わりしてしまった。
時は流れる。とどめようもなく。
「…………狭山さん、いい人ね」
「えっ?」
「その……わたし、とろいし……あんまり喋ったりしないから……ほとんど友達とかいないし。今日だっていろいろ気をつかってくれて……」
伏し目がちに、とつとつと、要領は得ないけど。
「ありがとう」
沙雪さんは言った。
「狭山さんは……その……怪談とか、不思議な話とか、信じる方?」
難しい質問だ。
ちょっと前は人並みな、ようするに半信半疑で面白おかしくっていうくらいだった。
今の僕は、よく知っている。
バケモノが、夜に棲んでいることを。
「まあ、割と。…………ものにもよりますけど」
「そうなんだ」
僕の言葉に、うんうんと二度三度うなずく。
「あのね。ここもそうなんだって」
ふと足を止める。
広くもない道路沿いにあるちょっとした駐車場。
その真ん中あたりに、そこだけ時間から置き忘れられたみたいに、枯れかけた古木が立っていた。
どう考えても取り払わないと邪魔だろうっていう不自然さで、場所を占有している。
これ見よがしに小さな神棚と注連縄までしつらえられていた。
「わたし、結構信じる方なの」
「それって、幽霊とか、たたりとか……?」
「そう。昔から霊感とか……そういうの強くて。あのね……」
沙雪さんは慎重に、こちらの反応を探るような上目遣いをする。
「……庭先とか電柱の下とか、誰もいないはずのところなんだけど、結構……その……見えちゃう方っていうか。…………信じる?」
意外なのか意外ではないのか。沙雪さんはその手の話に詳しかった。
三丁目の交差点で女の幽霊が出たとか。
加賀古山には心中した男女が迷って出るとか。
沙雪さんの解説によると、
その中には「御犬の伝説」というやつもある。
内容はあまりぱっとしない、月並みな話だった。
「この地方にはね、古くから神隠しの言い伝えがあるの」
「……へえ」
そういう話があるのは初めて知った。
それ以上に、沙雪さんにこんな一面があるってことを知った方が驚きといえば驚きだ。
「ひとりでいるとケモノにつれていかれるぞ、なんていう節の子守歌もあったんだって。そう……獣が人をかどわかすのよ。獣っていってもいろいろあるんだけど。人の腹から生まれた山犬だとか、キツネだとか、狼とか……天狗の化身とかまで、ほんといろいろ。それで、かどわかされた人は地の底の国……根の国とかそんな感じの……連れて行かれちゃうんだって。そこではそれまで神隠しにあった人や居なくなった人と……もう一度会うことができるって……」
まるで熱にでもうかされたように杣木さんは話し続ける。
御犬の伝説。
神隠しの使者。
人をさらう獣――。
あっても不思議ではない。
ここは昔から夜属の土地だ。
人の住まうそれ以前から、連綿と、密かに続く、知られざる系譜の残るところだ。
畏れられ、忌まれ、あるいは崇められ。
夜に生きる怪たち。
現実と伝説の狭間で、夜属は生きてきた。
「そのせい……なのかな。この辺りにはね、今でもときどき狼を見た……なんていう目撃談があったりするんだって」
「……犬とかの見間違いじゃないんですか?」
「そうだね。狼なんて、とっくの昔に絶滅しちゃったんだものね。でも……」
何か、思いつめたような響きがあった。
「もし、本当なら――」
それはきっと、誰に聞かせるわけでもない。
自分自身に言い聞かせるための呪文だったに違いない。
「わたしは、狼に、会いたい」
「……意外です」
「なにが?」
「沙雪さんがそんなのに詳しいなんて。普通、そんな昔の民話とか、知りませんよ」
「うん……」
また少しうつむく。
でも、沈んだ様子ではない。何かを懐かしむような、そんなふうな感じだ。
「その……中学生の頃ね、教えてもらったの」
「へえ」
「民話とか伝承とかね、そういうの。すごく面白いの。そういうこと教えてもらったの。わたし、お姉ちゃん以外に、そんなふうにかまってもらったの……はじめてだった」
まるで、宝物を自慢する子供みたいに目を輝かせている。きっと、いい思い出があるんだろう。
口数の少ない沙雪さんが珍しく饒舌に話すのに、しばらく黙って耳を傾けていた。
「――そういえば」
気がつくとすっかり暗くなっていた。
足を止めて話し込んでいたせいだ。
古木はもう黒い堆積の様にしか見えない。
「ここもそうだって、さっき」
「うん……そう……よ」
何か。
何かその声が、奇妙なほど夜に反響する。
そんな気がした。
「ここは……呪いの、樹…………なんだよ……恐ろしい………………呪いの樹…………」
まるで
彼女のどこにそんな表情が隠れていたのかと、僕は一瞬目を疑った。
「あ…………」
絶句する僕の前で、突然、糸の切れた人形みたいに沙雪さんが崩れ落ちる。
「さ――沙雪さん、沙雪さん?!」
慌てて支えた身体は熱く、熱にうなされていた。
「しっかり……大丈夫ですか? こんなに熱があるなんて……沙雪さん、沙雪さん!」
「…………さい」
「…………めん……さい」
「……ご……な……さい」
うわごとのように繰り返される、小さな呪文。
沙雪さんの手は、まるで迷子の子供のように僕の袖を強く、強く握りしめていた。
「しっかり………………」
沙雪さんのアパートの場所はわかっている。ここからならほんの4、5分だ。
僕は沙雪さんを背負って歩き出した。
「…………ごめんなさい、お姉ちゃん」
背中で繰り返されるうわごとのような声が、たしかにそう呟いたのを、僕は聞いた。
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