第8話 8月23日 三角関係と幼馴染
沙雪さんの部屋は三階にある。
エレベーターは見あたらない。階段を上り、ようやく彼女を下ろして呼び鈴を押す。
独特の電子音が鳴っても返事はない。
「沙雪さん、家の人……いないんですか」
廊下にへたり込んだまま、沙雪さんは朦朧としていた。
「……ん。……二人とも……いない……」
ただ反射的に返される言葉。
「ああ、そうなんだ」
「…………死んじゃった…………」
ばつが悪くて二の句が継げない。
目が覚めたら彼女が憶えてないことを願って、もう一つ尋ねてみる。
「鍵、ありますか?」
「胸の……ポケット」
「………………」
熱でうなされてる女の人の服をまさぐるなんて後ろめたい。
やむを得ないことだ、と自分に言い聞かせながら鍵を探る。
こんな時だっていうのに、指先が触れる、見た目より意外なほど大きくてやわらかい量感に意識がいってしまいそうになる。
誰も来ませんように、と祈った。
こんなトコを見られたら、一体なんて思われるか知れたもんじゃない。
その、背中に。
「――てめぇ、なにしてやがるっ!!」
階段のとば口から突然の怒声が投げかけられた。
「――すまん」
申し訳なさそうに下げた頭の前で両手をあわせた格好は、謝るというよりもいっそ拝んでいるみたいだ。
「ほんとーにすまんっ。俺……はやとちりでよ」
僕の頬についたちょっとした痣に、ひたすら謝る態度は意外なほど真摯で、ちょっと手の入った制服と金髪のいかつい外見とは随分とギャップがある。
「もういいですって。……ちょっと痛かったけど。そんな大事にならなかったし」
「いやなあ。またどこかの奴が沙雪にいらんことしやがったんだって思っちまってよ」
照れたように笑って、すっかり染めた金髪を掻く様子に、見た目よりはいい人なんだろうかと第一印象を修正する。
沙雪さんの幼馴染だと言って視線を走らせた先に一枚の写真が飾られていた。
タンスの上でスタンドに入れられた、幸せそうなスナップ写真。
両親らしい人の足元で、得意げに歯をむいて笑っているのが、関川さんらしい。あと双子らしいよく似た女の子が写っている。
「これ、沙雪さんですよね。こっちの女の子は?」
沙雪さんよりも髪が短くて活発そうに見える女の子を指して聞いてみる。
「ん……。ああ、沙雪の……姉貴だよ」
言いにくいことでもあるのか、関川さんは言葉を濁らせる。
会話に短い間が空いた。
隣の部屋から聞こえてくるかすかな寝息だけが、規則正しいリズムを刻んでいる。
薬を飲んで横になって、沙雪さんはもうすっかり寝入ってしまったようだ。
「そういえばさっき……またって言いましたけど」
「ん……まあ、なあ」
思案顔だった関川さんが唐突に立ち上がった。
「――おう。お前、家どこだ? 送っていってやるからよ」
「は? いや、……僕はこう見えても男ですよ。わざわざ送ってもらわなくったって。それに、杣木さんほっといていいんですか?」
「いいから遠慮すんなよ、おらっ」
困惑する僕を尻目に、関川さんは強引に腕を掴むと、ほとんど引きずるようして玄関の方へ歩き出していた。
「病人の枕元でする話じゃねーからな」
「…………へえ」
奢りだ、と前置して缶コーヒーを投げてよこす。
自分の分に炭酸を買うと、関川さんはプルを切ったコーラを水みたいに流し込んだ。
「お前、今……意外に考えてんだ、とか思ったろうがっ!」
「そんなの全然思ってませんよっ」
わざわざ一息ついてから胸倉に掴みかかってくる関川さんへ、僕は慌てて弁明する。
手はあっさり離された。
意図せずにか、もれた吐息からは、やっぱり不似合いな疲労めいたものが見え隠れしている。
「沙雪のやつ、まいってやがるんだよ」
「…………」
「
夏のぬるい夜風にまぎれ、小さく呼んだ名前にはしみじみというほどに懐旧が込められていた。
その名前の人は、さっきの写真に写っていた女の子のことなのだろう。髪の短い、元気そうな子だった。
「どうして……僕にそんな話を?」
「ん……。ぶん殴っちまった借りもあるし、沙雪みたくすっとろい奴をわざわざ送ってくるなんて、お前、悪い奴じゃなさそうだしな」
一息ついて、関川さんは右手で缶を傾けた。
「バイトの同僚なんだろ。何かと面倒だろうけど、よろしく頼むわ。俺も四六時中見てられるわけじゃねーからよ」
軽く相槌をうちつつ話を促す。
「その、消えた……って、家出か何かで?」
「そんなんじゃねぇ」
静かな声。
けれど、吐き捨てるといってもいい声だ。
「千夏は……よくできた奴だったよ」
そうぽつりともらすと、遠くを見つめるように、関川さんは目を細めた。
「5年ほど前になるかな。親父とお袋さんが事故で逝っちまってよ。一時期、親戚ん家に引き取られてたんだが、そりが合わなかったんだろうな。中学卒業したらそのまま家までおんでてよ、妹つれて自活始めちまいやがんの」
「それ以来、沙雪の母親代わりだつーて何だかんだと。俺のお袋より口やかましいのはたまんねーとこもあったけどな……。学校にバイトに家事にって。沙雪とは双子なんだが、妹がすっとろいのは全部姉貴のほうがもっていっちまったんじゃねーかつーくらい、飽きもせず毎日よく動く奴だったよ」
ぺこんという音とともに、関川さんの持っていた缶がへこむ。
「沙雪のほうは沙雪のほーでよ。とろいせいかよく周りにからかわれたり、苛められたりってな。これがまたなんつーのか……目が離せねーつぅかな」
その気持ちはよくわかる。
目を離すと何が起こるかわからないというか、ちょうど猫の子でも飼ってるような、そんな気分にさせられる。
しんみりとした顔で、関川さんの話はときおり脱線しながら続いた。
暴れん坊の子供と双子の姉妹。
よくある物語。よくできた三角形。
関川さんが喧嘩する。沙雪さんが泣き出す。千夏さんが怒鳴る。
計算された図形のような関係が続いていた。
ずっと続くと思っていた。
けれど。
そうではなかった。
「『……わたし、あんたのことが好き』ってな」
関川さんは視線を伏せる。
照れているような、痛みに耐えているような、複雑な表情だ。
よくできた三角形。崩れない均衡。
壊してしまったのは千夏さんだった……そうだ。
ある日、学校の帰り道の河川敷――
「関川さんは……好きだったんですか?」
考える間だけ、短い沈黙があった。
「……よく、わかんねー。なんていうかよ、三人でいるのが普通だったからな。男とか女とかじゃなくてよ。いや……そうじゃねーか」
なんとなく言わんとすることはわかる。
幼馴染の三人……そんな心地よい関係を壊してしまうのが恐かったのだろう。
「けどな、その次の日に――」
どんな顔して会おうかと考えあぐねてる時に。
「千夏は事故に遭ったんだ」
ぽつりぽつりと、言葉を搾り出す。
「ほとんどあり得ねえ事故だったそうだ。運がなかったんだ。改装中のビルのワイヤーが切れて……鉄骨が落下して……。千夏が病院に担ぎ込まれた時は意識不明で、ヤブ医者どもも助かるかどうかわかんねーなんて言いやがった。それが、その夜……千夏は消えちまったんだ」
「消え……た?」
意味が理解できない。
死んだのではなく、消えた。
「そう、そうなんだよ。ホントに、まるっきりそのまんま。まるで煙みたいに消えちまったんだ。集中治療室に入ってたんだ。医者だって診てた。目を離したつってもほんの何分もなかったはずなんだ。いったいなんだってんだよ。全然、わかりゃしねぇ」
憤っていた。
関川さんは憤っていた。
押さえた口調の分だけ、内側に爆発しそうなやり場のない怒りがたぎっていた。
一人の少女を襲った運命に。
運命の不条理に。
不条理の末のあまりにやるせない結末に。
怒り、悲しみ、苛立ち……結末とも呼べない結末をもたらした形のない何かと、目に見える全てにやるかたない思いを叩きつけていた。
千夏さんに意識はなかった。
病院側にも患者を隠す理由がない。
瀕死の重傷者を誘拐する犯罪者も、まともに考えればいるはずがない。
一から十まで不可解な事件の後日談は、お決まりのパターンだったらしい。
ニュースになって、刑事が来たり弁護士が来たり裁判になったりした。
当の病院に司直のメスが入り、関係のないところで脱税が発覚して、病院長が責任をとったりした。
けれど。
遂に千夏さんは出てこなかった。
彼女は死んだことになった。
他に考えようもなかったから。
だから、死んだことになった。
関川さんと、たぶん、沙雪さん以外にとっては。
「なんもかんも中途半端のまま、千夏は消えちまいやがった。生きてるのか死んでるのかすらはっきりしねー。こういうのってよ…………」
「……はい?」
しばしの空白。
「おさまんねーよな」
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