第9話 8月24日 第一の決断
獣が一匹棲んでいる。
僕の中に獣が一匹棲んでいる。
聴覚を研ぎ澄ませば獣の息吹が感じられる。
唐突に。
意味もなく全力で走り出し、喉をならして吠え上げたくなる衝動が湧いてくる。
ふつふつと音を立ててたぎっている。
獰猛で、狂猛で、激烈な、何か。
心の一番深いところで、理性とか常識とかそんな名前の鎖で縛られている『それ』が身じろぎをはじめるということが……『バケモノになる』ということなのかも知れない。
指先が金網を滑っていく。
空と雑居ビルの屋上とを遮る格子模様。格子の彼方のビルの下には、豆粒のようにしか思えない人影がとりとめもなくあちらへこちらへ流れていく。
その誰もが知らない。
ひとたび陽の落ちた路地の影には、そっと息づく別のものの息吹があることを。
振り返った足下に、深く、濃く、暗い世界の崖ての淵がぽっかりと口を開いていることを。
知らないから、流れていける。
知らないから、絡め取られる。
刃物が危ないと知らない子供が平気で刃をもてあそぶように、知らないというただそれだけで、ヒトはあまりに無力になる。
僕はバケモノになった。
誇張でも卑下でもなく、事実としてそうだ。
今こうしている姿は、人の群れに混じるために被る
今の僕は、そこここにいる人たちとは異なる生き物――人外のバケモノだ。
ふと、高い夏の空に仮初めの腕を伸ばす。
指先は空どころか雲にも届かず、日差しに透けた掌の影はヒトのそれと何ら変わるところがない。
仮初めの足を踏みしめてみる。
違和感はないけれど、鋭敏になった感覚がそれまでとの確かな違いを伝えてくる。
思い返す度に奇妙な感慨が波のようにぶり返す。
僕がもうヒトではないという現実への言葉にしがたい納得と、これが偽りの姿であるという事実へのなんとない抵抗。
本当の僕には宵闇を見通す目がある。
突き出た鼻と尖った耳がある。
岩を裂く鋭い爪がある。
鋼を穿つ牙がある。
こわい獣毛で覆われている。
僕は夜属、と呼ばれるものだ。
人狼、怪、人外のバケモノ。
ヒトに混じり夜を生きる人ならぬ、けものだ。
僕は知っている。
知っているから、忌を狩る。
僕がするのは簡単な、とても簡単な算数だ。
忌はヒトを喰らう。
でも、そこには悪意も、憎悪も、加虐的な優越感も、何もない。
もっと簡潔な、とても単純な解答。
生存欲求――。
ただそれだけで。ただそのために。
忌はヒトを狩る。
だから、僕は忌を狩る。
ヒトは死なず、忌が死ぬ。
正しいとか間違っているとかではない。
善とか悪とか。正しいとか誤りとか。傲慢だとか身勝手だとか。
世界を分割する便利な言葉が入り込む余地はどこにもない。
1引く1が必ず0になるように。
どちらかが死ななければならない。
決まり切った単純で揺るぎない解答だ。
「空に咲くのはいつもあお……」
「なに、それは?」
「和泉の口癖です。叔父さんが詩人なんだって」
美空先輩も知っているはずの、クラスメイトの悪友の名を告げると、へえ、と少し感心したように、上品に片方の眉を持ち上げた。
蒼穹。
どこまでも青い空。
この町の上でも、遠くに霞む山と緑の稜線の上でも、それを越えてずっと続く線路の上でも、空は変わりなくどこまでも青く続く。
嬉しいときも、楽しいときも、哀しいときも。
泣いているときも、笑っているときも。
僕がどんなふうにしている時も――
いつも変わらず、超然と、ただ青い。
そう思うと、一抹のもの寂しさを憶えた。
ここにいる僕の、なんてちっぽけなことだろう。
「それでね」
屋上の風が、美空先輩の髪をさらさらと梳く。
先輩と落ち合ったのは物思いにふけるためではなく、これからどうするのかを考えるためだ。
これから沙雪さんを――どうするのか。
それを決めなければならない。
先輩は、背中をゆるやかに金網に預けたまま、僕に一瞥を向ける。
冷たくて、透き通ったまなざし。
長い髪と細い肩の描く緩やかなライン。
目が醒めるほど綺麗な、けれど、黙っていてもどこか周囲から浮き上がるような、そんな存在感をかもしだしている。
異質感、といってもいい。
「……シンデレラ、だったわ」
「……シンデレラ?」
「そう」
「…………童話?」
「沙雪という子のことよ」
「ああ」
相づちはうったものの、僕にはまだよくわかっていない。
「ある集団でもっとも弱い個体。周囲から虐められる対象となりやすい……生物学の用語よ。それからね、彼女の周りで何人か――虐めていた側の方だけれど、家出しているのを確認したわ」
冷たく鋭利なものが胸の奥に入り込む。
抑圧や加虐が忌を生むケースは少なくない。
そして、家出……。
家出かどうかを確かめる方法も、ない。
それは家出と思われているだけで、その人たちはいなくなってしまったのかも知れない。
本当に。
この世のどこからも。
欠片一つ残さずに。
喰われて――。
「ぐずぐずしてはいられないわ」
決断を促す、美空先輩の冷徹な声。
「奴は、手負いよ」
奴は、僕の爪で傷を負っている。
手負いの獣は恐ろしい。
痛みで怒り、呪い、狂う。
捕食生物としての冷静さや常識すら見失う。
そして、奴が傷の回復をはかったなら、失った血と肉を取り戻そうと思ったなら――手当たり次第に人を襲い始めるかも知れない。
それでも彼女は――沙雪さんは忌だとは思えなかった。
はっきりしたことはわからない。
でも、いずれにしてもわかっていることが一つだけある。
もうこれ以上、ぐずぐずしていられないということだ。
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