第10話 8月24日 暗転

 バイトを終えてから、杣木さんのアパートに足を運んだ。

 体調が悪いから休ませて欲しいと連絡があったから、そのお見舞いも兼ねていた。


 扉には鍵がかかっていた。

 呼び鈴を押したけれど返事はない。


 ……どうということはない。

 用事か何かで、入れ違ってしまっただけだ。


 風邪をひいてるといっても一人暮らしだ。買い物くらいには出かけるに違いない。

 少しあたりをぶらついていればすぐに帰ってくるだろう。

 明日になれば、昨日と変わらない顔で、危なっかしく喫茶店の洗い物を済ませる彼女の姿を見ることができるだろう。


 きっとそう……。


 それは夢だ。

 昼に見る束の間の夢。

 現実はいつもとても無慈悲で残酷だ。


 アパートを後にしようとした時のことだった。

 こちらへ走ってくる姿があった。


「ぐずぐずしてらんねーんだよっ!」


 せっぱ詰まった顔で、関川さんが乱暴に肩を掴んでくる。


 焦り。憔悴。狼狽。

 彼の旋律がひどく不規則で早い。

 慌ただしい鼓動は落ち着きを失っているから。

 不規則な拍子は何かを恐れているから。

 呼吸が整わないのは走り回っていたからだ。

 肩を掴んだ指先が強く食い込んできた。


「……何か、あったんですか?」


 ほとんど確信めいたものがあった。


「あいつが……沙雪が」


 ほとんど絞り出すようにして、そうしなければ言葉にするのもできないと言いたげに、関川さんは重い一言を吐く。


「……っ、消えた」


「――――」


 ぞくり、とする。

 形のない、冷たくて不気味なものが、ゆっくりと背中を這い上がってくる。


 ぎちぎち、と――。

 軋んでいる。

 世界を隔てる日常の壁が、昼のまばゆさを映す紗幕が、聞こえない音をたてて軋んでいる。


 何かが、ゆっくりと。

 あちらから、こちらへ。

 夜の側から、昼の側へ。

 浸食してくる。


 見えない世界の境界線の上で、関川さんがやり場のない思いを抱え込んで拳を握りしめている。


 ――子供じゃないんですからすぐ戻ります。


 そんなことを口に上らせようと思ったけれど、言葉にはできなかった。

 本人すら信じてない言葉はとても空虚で、路地に吹き込むそよ風より軽い。そんなものを他人が信じるはずもない。


「午後から、姿が見えねえ。くそ、あンのヤロー、病人のくせにうろちょろしやがってっ!」


 この人も泣いたりするのだと、僕は思った。

 金髪に染めたヤンキー然とした外見が目立って、泣いているところなんて思い浮かべることができなかった。


 今、関川さんは。

 泣いている。

 涙は流していないけれど。

 悔しくて。

 哀しくて。


「僕も、探してみます」


「……なんなんだよ……あいつも消えちまうのか」


 囁きにも似た、そんな小さな呟きを聞き逃せないことが、ひどく恨めしかった。




 窓からこぼれた光が青く、白く滲んでいる。

 夜の町は暗がりに浮かぶ誘蛾灯めいていた。

 なにもかもがあやしく、向こう側に人を誘う。


 水面ごしに覗き込む景色のように、夜闇にゆるゆると光が溶け、黒と白、混ざらぬ二色の境界を不確定にしてしまう。


 窓を隔てて、あちらとこちら。

 知らぬ者と知る者と。

 境の距離は果てしなく広い。けれど、ほんの一またぎの距離にすぎない。


 黒と白。天の闇と地上の光。

 二色が渾然と溶ける夜空には、儚げに星が瞬いている。


 町の灯火にあてられて霞んでしまう弱々しい輝きの下を、僕は杣木さんをさがして彷徨っていた。


 路地。

 住宅街。

 駅前。

 交差点。

 学校。

 大通り。


 特定の目星があるわけではない。

 帰宅の人の河に混じり、あてどなく町を流す。

 誰もが無関心に流れていく。

 その只中で。

 じっと耳を澄ませる。


 狭い町だけれど、どこかにいる唯一人をあてどもなく探すのは、海岸で一粒の砂を見つけるようなもの、だから……。


 僕は。

 呼吸を。

 鼓動を。

 旋律を。

 彼女のうたを――

 探し求める。


 一歩踏み出すたび、まるで水の中をたゆたっているかのように、夜がゆるりと絡みついてくる。

 重い夜。

 この夜のどこかに、彼女が、いる。

 あるいは……


      ――ひそんでいる。


「……いま、のは……」


 たった今、聴こえた。

 しばらくは眠りつくことのない町の喧騒に、異なることわりからなる音階が見え隠れした。


 杣木さんの、旋律ではない。


 もっと重い。

 もっと暗い。

 もっと異質な。


 それは、人の旋律とは明らかに違う。

 基本的な条件や前提がまるで異なる――バケモノの旋律だ。


 忌の旋律。

 音色は記憶にあった……

 あの、消えた忌の歌に間違いがない。


「――――っ」


 足はひとりでに動き出していた。

 新たな歌の方向へ。

 それが待つ場所へ。


 意識を切りかえる。

 少しずつ少しずつ、濡れたタオルから雫を搾り出していくように、心の不純物を取り除いていく。


 日が暮れるまで抱いていた心の残滓。昼の下を歩くために着込む明るい色彩。余分な肉のようなそれらが切り落とされ、こそぎ取られていく。

 全ての肉が落ちきれば、後に残るのは白い骨――艶やかで堅い狩人の本能だ。


 住宅街。路地。

 息を殺す。跫音あしおとを忍ばせる。


 これは狩りだ。狩人と獲物の命がけの勝負だ。

 どちらが追っているのか、追われているのか。


 ほんの些細な差で、獲物は狩人に、狩人は獲物に成り代わる。

 生と死。

 そこでは、それだけが冷酷で揺るぎない、唯一絶対の法則になる。


 匂いが変わった。

 常の世の臭いではなく。

 濃密で纏わりつく夜の匂い。

 異界の匂い。


 閑と静まりかえった深海にも似た夜を、迷うことなく進んでいく。

 角を曲がり、路地を抜けて。

 歌はだんだんと確かになる。


 道沿いに続く白いブロック塀の列が、重くのしかかってくるような錯覚に囚われる。

 とろけるような気配が四肢に糸を引く。

 向かう場所はもう近い。

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