第11話 8月24日 姉妹2

「ここは……」


 うっそうとした樹がいかめしく見下ろし、そびえ立っている。

 呪いの樹――神隠しのフォークロア。


 広々とうそ寒い駐車場に、ほとんど触れられそうなほど濃く漂う夜の匂い。

 そこに、別の臭気が混じっていた。


 ……血の匂いだ。

 まだぬるい、滴り落ちたばかりの血の匂い。

 切り裂かれたばかりの肉の匂いがする。


 黒い夜の帳を外灯の蛍光灯が白く切り抜く。白い光に支えられて、流れていく血は鮮やかに赤い。

 黒と白と赤。

 三つの色が、現実を異界に塗り込める。


 何かが倒れていた。

 黒く枝を広げる古木の根元に、投げ捨てられたように肉の塊が転がされていた。

 かつて人間であったものの残骸が、何の感慨も感傷もなく、ただ転がされている。


「………………」


 その足下に、佇む少女は一人だ。

 暗がりからほの白い明かりの下へ歩み出る。


 杣木沙雪。


 蛍光灯が形作る光の円錐が、彼女に浴びせられるスポットライトのように散った。


「杣木、さん……」


 答えはない。

 ぬめる海を泳ぐ魚めいた死んだ瞳で、杣木沙雪は立ち竦んでいる。


 そして。

 鏡にうつしたように同じ顔が、

 顔だけが、

 その背後にぽっかりと浮かんでいた。


 最初に、まるで月のようだ……なんて。

 何故そう思ったんだろう。

 心というものの、表情というものの、余計なものの、残らず欠け落ちた顔が、とても綺麗に思えたからかもしれない。


 その顔は、沙雪さんと同じ形をしている。

 その顔は、地上2メートルの高みに浮いている。

 その顔は、夜から生えたように、ぽっかりと、黒く濃い闇に浮かんでいる。


 その顔は。

 人のものではあり得ない。

 人を狩る、獣。

 忌の顔だ。


 ひょう、とぬるい風が吹いた。


 漆黒の水面から突き出され、長く、節くれだった異形の腕が、いとおしそうに、沙雪さんを背から抱きしめる。


「―――いこう」


 沙雪さんと同じ質の、けれどもっとずっと陰々と響き渡る声。


「さっちゃん、いこう」

「幸せなところへいこう」

「父さんと母さんが居なくても平気なところへ」

「守ってあげるから」


 抑揚のない声は淡々としていた。

 どこまでも透き通っていた。

 沙雪さんがそれを見ている。


 泣いているような、笑っているような、怒っているような……世界のてと出会ったときに誰もがする、そんな顔で。


『お姉ちゃん』


 と、かすかに呟く。


 忌が微笑った。

 やはりそれは形ばかりで、けれど不思議と忌まわしさを感じさせなかった。


「わたしが守ってあげるから――」


 忌が手を差し伸べて。

 しわぶき一つ立たないほどに静まりかえった中で。


「――――――っ?!」


 ただ。


「あああああああああああああああああああああ」


 関川さんの叫びだけが尾を引いた。


「せき……っ!」


 弾かれたように、関川さんが飛び出していた。

 怒っていた。

 あるいは、泣いていた。


「うっぁわああぁあああぁぁあああ――――」


 闇雲に拳を振り回し、彼は、沙雪さんと忌の間に飛び込んでいく。

 何も考えていない。

 考えてたところで、忌を相手に生身の人間がどうなるものでもない……としても。


「みの……るぅ……」


「駄目だ、こいつは駄目だ、駄目なんだよぉ」


 涙声と。

 ――『千夏』という小さな呟きと。


 一瞬だけ、忌は不思議なものを見たような表情をした。

 宝物を見つけた子供のような顔。


「み………………」


 みのる、と唇が動く。

 そして――


 閃きが降った。

 上から下につややかな爪に反射する光が流れる。

 考えるより早くに僕の身体は動いていた。


 関川さんが木の葉のようにはね飛ばされ、爪は地面のコンクリートを破って突き刺さる。

 割り込んだ僕が、関川さんを突き飛ばすのと同時に、忌の腕を掴んで方向を逸らしたからだ。


「僕は」


 掴んだままの異形の腕を押さえつける。

 人狼と、忌。

 力比べなら僕の方が上だ。


 右腕の擬態は解けかかっていた。

 人でない領域の力を振るっているから、それに相応しく、肉体が形を変えつつある。

 鋭い爪。こわい剛毛。異質な骨格と筋肉。


「僕は――」


 忌の腕を掴み潰す。


「ひぃぃぃあああぁぁぁぁぁ――」


 忌が女の声で啼く。

 苦痛に泣き、怒りに吼える。


 頭上から降るもう一方の腕から飛びすさった。

 そして、僕は宣言する。


   「これから、あなたを殺します」


 はっきりと口にする。

 それが、僕の約束だ。

 綺麗だとか汚いだとか。正しいとか誤りだとか。是だとか非だとか。何一つそんな区別なんてない。


 これから起こる唯の殺し合いの――

 その事実とそこで起こることと、そこで居なくなってしまう人のことを忘れないという、ただそれだけが、あの日以来、僕が僕に課した約束だった。


 忌の長い腕をかいくぐる。

 下から上に。

 さかしまに振り上げた爪が忌の胴を裂く。


 瞬きひとつの刹那にそれらが始まって終わる。

 動きの止まった僕の身体が宙に舞う。

 横殴りの腕の一振りで僕をはね飛ばした隙に、忌は闇の奥へ紛れていた。


「――逃げる?!」


 追いかけようとして足を止めた。


 低い呻き……関川さんの声だ。

 放っておくわけにもいかず、駆け寄った。


 耳を澄ませば、不安定だけれど致命傷はないことがわかった。

 心臓の鼓動も呼吸も血の流れも正常な旋律を刻んでいる。打撲が何ヶ所かある。脳震盪のうしんとうくらいは起こしてるだろう。


「……杣木さん」


「あ…………」


 彼女は意識があった。

 僕を見ている、けれど、僕を見ていない。

 忘我の様子で、虚ろな瞳を向けてくる。


「杣木さん、しっかりしてくださいっ」


「あ……あぁ、あああ……ご、ごめ……ごめんな、さい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな……さ――」


 堰を切ったように、とどめもなく。

 子供のように泣きじゃくりながら。

 沙雪さんは誰かに謝り続けた。

 もう、ここにはいない誰かに。

 きっと、さっきまでいた誰かに。


「……もう……大丈夫ですから」


「ちが……い、がう……ごめ……さい」


 うずくまったままの彼女の、震える声だけが聞こえていた。






 わたしは彼女のことが嫌いだった。

 わたしは彼女を愛していた。

 わたしは彼女を憎んでいた。


 彼女はわたしにないものをたくさん持っていた。

 明るさ、快活さ、屈託のなさ。

 わたしにはいない多くの友人が、彼女の周りに集まるのは当然のことだった。


 元気のいい彼女を見るだけで、こちらまでつられて笑い出してしまいそうになる……そんな彼女を、わたしは生まれてからずっとすぐそばで見てきた。

 蛙を捕まえてきて男の子みたいに笑った時も、飼っていたマルチーズが車に轢かれて泣いた時も、わたしは彼女のそばにいた。


 二人で並んで遠足に行き。

 二人で並んで中学の入学式に出た。


 父が死に、母が死んだ時、何もできずに泣き疲れるだけだったわたしの手を引っ張ったのも彼女だった。

「これからは二人きりなのよ」

 そう彼女は言って、てきぱきとお葬式の準備を進めだした。


 どうして。

 あんなふうに泣かないでいられるのだろう。

 隣のおばさんが気丈だね、と言ったその態度が、わたしにはひどく冷たいものに思えた。

 まるで、死んでしまった父と母を早く追い出したがっているように見えて――

 もしかすると、その時から、わたしは彼女を憎んだのかも知れない。


 わたしは彼女を愛していた。

 わたしは彼女を憎んでいた。


 どうにもならない二律背反が、いつもわたしにつきまとって離れなかった。

 強い彼女にすがらなければ、わたしは立っていられない。強い彼女がいるから、わたしはいつでも自分の弱さを思い知ってしまう。

 弱くて醜いわたしを、彼女は潜む穴から追い立ててしまう。


 けれど、わたしには何もできない。

 わたしはただ、弱く、醜く。

 何も考えず、その手にすがり続けることも、本当の意味で逃げだすこともできず、わたしは日々を過ごし続けた。


 あの日。

 わたしは聞いてしまった。


『……わたし、あんたのことが好き』


 わたしの中で何かが弾けた。

 怯え、恐れ、逃げだした。

 何が怖かったのかはわからない。

 わたしは走った。

 胸にあとからあとから湧いてくる、重くて苦いものから逃げ出したくて、わたしは走った。


 気がつくと、ここにいた。

 憎くて、哀しくて、寂しくて、辛くて。

 わたしは、わたしがわからないまま、女の子の噂話にある通りの「おまじない」をした。


 願いは――叶った。

 叶って――しまった。


 わたしは罪を犯した。

 わたしは、彼女を、わたしと同じ顔をしたわたしの半分を――






「そんなものは偶然です」


 僕は、首をハッキリと横に振り、言った。

 ここには呪いなんか存在しない。


 呪い、というものは実在する。

 恨み、怒り、蔑み……人知れず、暗い淀みは溜まっていく。目に見えぬ淀みはおりとなり、じっとりとした塊となる。こごった澱は何かの拍子に災いを成す。

 そうして『呪い』に変じた澱は――現実の力として作用する。


 けれど、ここにはそんなものは存在しない。

 淀みも澱もこごりもない。

 ここにはただ、光の加減が作り出した陰気さと、偶然と思い込みの呼びこんだ伝説があるだけだ。


「ここには、何もありません」


 子供に言い聞かせるように、手を取る。

 ケモノの姿になったままの右手は背中に隠した。

 初めて触れた沙雪さんの掌は、まるで壊れ物みたいだと、束の間思った。


「……あなた……誰?」


 へたり込んだまま、ぼう然と見上げてくる。

 何のための問いなのか、たぶん、彼女にもわかっていないんだろう。


 どこか遠くで獣が吠えた。

 夜の静寂に染み渡るような遠吠えだった。

 ……あれは呼び声だ。

 僕を呼んでいる声だ。


「――あなたは、誰?」


 繰り返される問いに、迷って、考えた末に、僕は短く低く告げた。


         「夜属」

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